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排除

 閉塞状況で考えることの一つに悪い要因を排除すればいいという考え方がある。現状がうまくいっていないのは特定の要因があるとして、その要素を排除しようとする考え方だ。これはいろいろな危険性をはらんでいる。

 まずマイナス要因と考えられたものが本当に負の要素なのか分からないことだ。もしかしたら本当は別の要因があるのにも関わらず、安直に悪因と認定しているのではないか。結果的に弱者に罪をなすりつけ、本質を見逃しているのではないかということである。

 この間違いは残念ながらかなりあると察する。誰かを悪者に仕立て上げ、真実を省みないことは結果的に全体の不利益に繋がる。それをもっというべきだ。一部のアジテーターに騙されてはいけない。

 安易に排除に走る傾向を私は非常に危惧する。机を片づけるのと人の配置を変えるのは全く別だ。それを執拗に伝えることは、時代遅れの人々の役割かもしれない。

実は少数意見

 メディアリテラシーは大切だと分かっていても見事に騙される。私自身もその一人なので自戒のために書いておこう。

 誰もが発信できるようになった情報革命は私のような世代にとっては画期的なことであった。マスメディアしか情報発信のチャンネルがなかった時代では、オピニオンリーダーという隔絶した存在がいた。その中にはとんでもない人物もいたが、大抵の場合は理論的もしくは感情的に同意できる存在であり、その人物から学ぶことが多かった。

 ソーシャルメディアが普及してさしたる実績も経験も努力もないのに、口説だけは長けている人物が台頭している。彼らの困ったことは発言はするが、その発言に責任を取らないことだ。多くの人を扇動しておいて、その内容に関しての批判は受け付けない。そういう人物を国会議員に選んでも我慢してしまう。いまの日本の民度の低下を指摘されても仕方がない。

 現場で努力している人をもっと評価しよう。彼らは失敗することも多い。だが、何もしないで他人のあら探しをしている人とどちらが尊いだろうか。そういう基本的なことを考え直したい。

 実は単なる奇抜な言説で、アクセス数を稼いで収入を得ている人を軽蔑する能力を私たちは取り戻さなくてはならないと思うのである。

機械に話そう

 AIの発達により、人間の言語に近いコミュニケーションができるシステムが完成しつつある。日常会話ならば機械に話しかけると自然に感じる程度の返事をする。映像やロボットなどと連動させれば、あたかも機械と会話しているかのような気分になれるらしい。

 規則性のあるものや、パターンが決まっている文章作成能力はあるようで、ビジネス定型文章や分析を中心とする文章は得意で、論文も書けるとの報告まである。

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 無料で試せるオープンチャットを試してみた。これはテキストでのチャットの形で行われている。英語版だったので、拙い英語で問いかけてみた。すると長めの答えをしてくる。例えば、AIは人類にとって有益なのかと聞けば、多くの利点があるが、場合によっては人間に危害を与える危険性も含んでいると答える。また日本の文化について知っているかと聞けば、歌舞伎や寿司、漫画とアニメなどがあるなどと答える。検索して答えるのと違うのは、AIが選んできた答えを、話しかけられるような形で得られるということだろう。

 このシステムは従来の検索システムを凌駕するともいわれている。資料がただ提示されるのではなく、AIのアレンジが加わっているからだ。利用する側からすれば便利である。一層、考えなくてもよくなるからだ。

 ただ問題点も大きい。現時点ではAIは意味の世界まで踏み込んではいない。聞かれた質問に対してもっとも可能性の高い回答を多数の検索データの中から抽出しているのに過ぎない。だから、表面的には整っていても根本的な間違いを犯していたり、正解であっても人道的道義的には許されないといった不文律のようなものは反映できないのだ。

 機械に話しかけるというと実に寂しい人間のようだが、これからはそれが当たり前になる。そのうちの脳波を読んで先回りして答えてくれるような技術が生まれるのかもしれない。ただし、意味とか価値観といったものをどのように機械が獲得していくのか。今後に注目したい。

値上がり

 買い物をすると会計のときに値上がりを実感する。一つ一つの品物は僅かな値上がりでも、それが集まると大きくなる。当たり前だが事実だ。

 このちょっとおかしいが毎日続くとさらに大きな負担になっていく。私たちはしばらくインフレを経験していないのでこの違和感を理解するのに時間がかかる。

 収入の方は上がらない。経営者にはここで考えてほしい。金が回らなくなると結局自分の商売に返ってくる。人件費や投資をケチってはならない。

特別警戒

 大学共通テストの日になった。利用している路線では特別な警戒態勢を取るとアナウンスしている。奇妙な放送になったのは昨年の東大会場での障害事件があったからだろう。

 受験には大きな精神的圧力がかかる。それが引き金となり事件が起きることも考えられる。これを社会的問題として捉えるならば、一度もしくは一年度の試験ですべてが決まるようなやり方を変えるべきではないかという問題提起の機会と捉えるべきだろう。

 受験で必要とされる能力の大半は社会的リーダーになる素養に結びつく。大雑把にいうと言われたことを素直に受け入れる力、受信した内容を自分の言葉に変換し蓄積する力、そして問われたことに手短に答える情報処理能力だ。

 しかし、測れないものもある。新たな問題を考え、やり方が分からない問題を解決する力や、他者と協力して解決する力などである。実践経験や成功失敗体験の量も分からない。

 評価の方法を複数回設けることの意味を考えるべきなのだ。受験生諸君には全力を尽くしてほしい。ただ、その結果が全てではない。

22歳の出会い

 コロナウイルス対策で成人式が取りやめになったり、リモート形式になった現在22歳の人たちのために式を用意した自治体があるという。粋な計らいというものだろう。

 この式の報道てインタビューを受けた人は、大学を卒業し故郷を離れることが決まっている。その前に会えてよかった、とか、次に数十年後に会えるといいと答えていた。地方の現実が垣間見えた。

 少子高齢化が進行しつつあるこの国にとって若い世代の存在は不可欠だ。その少ない人材が高校や大学を卒業したあと故郷を離れてしまう。そのうちのかなりの人数が戻らず、若者の人口分布が極端に偏在することになる。

 リモートワークが定着し、様々な情報共有がかつてより遥かに柔軟に取り組める環境が完成した現在、都市に企業が集中するメリットは少なくなっている。まずは産業界の分散が必要ではないか。

 22歳の出会いが結局別れの前日の儀式になっているようではならないと考えた。

公園の役割

 子どもの声がうるさいからというクレームで公園が廃止されたというニュースがあった。その後の報道をたどるとどうもこれは極端な伝え方であったようで、クレーマーと言われた人の言い分も理解できない所はないし、行政の在り方にも問題があったようだ。そもそも、公園としての使用期限がもともと決まっていたらしい。

 公園が単なる共有地としてあるのなら、それをどのように使用するのかということについて考え直さなくてはならない。子どもの遊び場という意味以上のさまざまな役割がある。国土交通省都市局公園緑地景観課によると、良好な都市環境の保全ため、災害時の避難場所、延焼防止、などの災害対策、市民の活動、憩いの場、賑わい創出や観光拠点として地域活性化の役割などを挙げている。公園といっても数坪の狭いものから広大な敷地があるもの、なにもない場所から歴史的な遺跡等を有するものまでいろいろあるので一概には言えない。公共の場所ということだけが共通する。

 都市の中の公園に限れば、交流もしくは相互扶助という側面を今後活用してくべきだろう。少子高齢化社会のなかで従来の社会システムが機能しなくなりつつある。それを補うのは地縁による助け合いということなる。その拠点の一つが公園だろう。以前公民館のことを考えたことがあったが、それよりも簡単にできるのが公園の利用だ。屋外や簡易テントなどでできる交流のきっかけを地域行政は提供し、それを行う団体を支援するべきではないだろうか。

 公園が魅力的な場所になるならば、冒頭で触れたような厄介な空間という扱いではなくなる。

セールスポイント

 採用試験の際に人格をみようとするのが日本のあり方だと思う。学歴フィルターである程度判断し、細かい能力は問わない。人柄をみようとする。この方法は今後は減っていくのかもしれない。

 ジョブ型の雇用にとって、協調性や親和性は重要ではない。仕事ができるかどうかが問われ、結果が出なければ解雇される。こういう社会を識者は推奨しているように思う。かなり極論したが要はそういうことだろう。

 企業が家族のような存在だと言われた時代が終わり、スポーツチームのように流動性の高い組織になる。会社に適した人は高い報酬が受けられる。存在感を示さないと地位を保てないのだ。

 そういう労働観に徐々に転換することをこれからの若い人たちは覚悟したほうがいい。この場合、必要なのは個人で生き抜く力だ。スキルはあったほうがいい。そのために学ぶことは止められない。

 それに加えて自己を売り込む表現力も必要だ。ただ資格を持っているだけなら、代替の人材はいくらでもいるということになるはずだ。大切なのは自分の可能性をある種のストーリーで説明できる能力なのだろう。セールスポイントはこれとこれとこれでそれらを結びつけるとこんなことができるといったように。

 そこで手前味噌になるがやはり国語の能力は欠かせない。STEAMばかり強調されているが大前提の表現力がなくては何もできまい。学生諸君には時流に乗って上辺でものをいう「知識人」に惑わされないようにしていただきたい。

北千住

 北千住は幼年期に過ごした町だ。ほとんど記憶の限界にある。信憑性は怪しいが、三輪の自動車が走り蕎麦屋が驚くほど積み上げた桶を自転車で配達していた。たびたびあった縁日での調子のいい口上に合わせて、風船売が衆目を集めていた。

 家の目の前にあった大きなお屋敷が実は高名な作曲家のものであったこと。どういうわけかその中に上がり込んでお茶か何かをいただいたこと。その家の犬に噛まれたこと。隣の同級生がやけにいいやつだったこと。ありとあらゆる流行病にかかったこと。ローラースケートでころんで脱臼したこと。どこかの病院のドアに指を挟んで泣いたこと。床屋に入ろうとしたら大きな猫がいて入れなかったこと。近くの川が汚染されていて泡だらけだったことなど断片的に思い出す。このうちいくつかもしくは全部は後世誇張されているものかもしれない。記憶は怪しい。

 北千住はいまは通過駅だ。今はどうなっているのだろう。私の過ごした時代のような未完成で清濁併せ呑むような街ではなさそうだ。北千住が理想の町と考える若者はいるはずだ。私も方向性は全く違うが暮らしたい町である。

賞味期限間近

 近隣の書店の一角に食料などを売るコーナーができた。賞味期限が近い商品を売ることで、食品ロスを減らす活動だという。見ると、お菓子やお茶、インスタント食品などが並んでいる。賞味期限を確かめると1~3か月後というものがあったが多くは6か月くらいはあるものだった。それらが数割引きで売られている。

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 賞味期限ということにこだわる人は一日でも過ぎたら食べられないように考える。私のような大雑把な人は数か月過ぎても大丈夫だと思って現に食べてしまう。それで食中毒になったことは一度もない。

 そもそも賞味期限とは何か。農林水産省のサイトには「袋や容器を開けないままで、書かれた保存方法を守って保存していた場合に、この「年月日」まで、「品質が変わらずにおいしく食べられる期限」のこと。」と説明されている。同じページには消費期限という分類もあり、「袋や容器を開けないままで、書かれた保存方法を守って保存していた場合に、この「年月日」まで、「安全に食べられる期限」のこと。」とあり、こちらの方は安全性が言及されている。つまり賞味期限はメーカーが味に対して責任を取る起源であり、食べられるか否かの基準ではないことになる。しかし、味の保証をしないものをメーカーや小売店が扱うことはできないため、消費期限は通常は表記されず、賞味期限が近付けば店頭から取り除かれる。

 中には賞味期限切れをセールスポイントとして商品を売る店舗もある。格安の値段で売られる商品はフードロスを大義名分とし、メーカーからは在庫処分の方法として、消費者からは割り切って安価で求めることができる手段として商売が成り立っているそうである。ネットで同じようなことをするサイトもある。

訳あり品をお得にお買い物「junijuni」

 こうした試みはいろいろなことを変えていく突破口になりそうだ。もったいない文化を世界に発信しながら、食品廃棄率の高い矛盾を解消するためにもこうした方法に注目していきたい。使えるものは使うことは日本人の伝統的な思考方法に通底するから普及するのは容易なはずだ。