タグ: 社会

ハリセン

 国会で居眠りしている議員にハリセンを食らわすと言っていた議員がまだ公約を果たしていない。彼自身が国会に参加せず、居眠り以上の失態を続けているからである。いかなる理由があっても議員が無断で国会を欠席することは許されることではない。

 彼自身が巨大なハリセンを受けるときがきた。議員の報酬を受け取ることは自ら拒否していただきたい。そして国民に謝罪するべきだ。貴方が自分の保身を優雅に行っている間に日本の国民は物価高と時代的閉塞感に苦しんでいる。ユーチューバーならいざ知らず、国会議員ならば国会で自説を論じるべきだ。

 あまり期待していないが、今からでも間に合う。このままだと少数政党はだからだめなのだという証にしかならない。国会であなたの影響力を発揮すべきだ。得意の暴露は今度は自分に向けるといい。正直な人柄に惹かれる人もいるかもしれない。

 今のままでは日本の民度の低下の象徴にしかなれない。帰国しても逮捕されるはずがない。そういうふうにできているのだから。議員になりたくてもなれなかった人のことを考えて登院すべきだ。

解答時間

 想定する解答の時間を超える出題をすることがますます増えていきそうな気がする。つまり出題者は満点を取ることを始めから想定せず、どうしたら効率よく得点できるのかを試す。問題を絞って解答するのである。

 この方法は問題点が多い。熟読熟考するのではなく、いわばヤマをかけることで高得点を取ることを公認しているようなものだ。臨機応変の対応と情報処理の能力を問うといえば聞こえがいい。私には浅薄な思考を推奨する方法としかとれない。

 熟考する力を問う方法はないのか。また問題解決の方法自体を試す問題はできないのか。それを考えるべきだろう。

共有されていく生活

 縮小する日本の生き残り策としてシェアハウスはもっと増えるかもしれない。個々の生計が成り立たないならば契約を結んだ者同士で共同生活をすればいい。そう考える時代が来るのかもしれない。

 光熱費や各種の税金は個別に支払うより、割安になる。いまいうシェアハウスはどちらかと言えば若い世代の仮住まいだが、今後は高齢層もこの形態に絡んで来るかもしれない。制度上の問題点を解決できれば一挙に進む可能性もある。

 寝室などのプライベートスペースを除いて多くが共有される。これは現在の価値観ではかなり無理を感じる。個々人の主義、趣味嗜好が異なるのに最もプライバシーを要求される家庭までもが共有化された空間にあるという風景は想像しにくい。しかし、価値観そのものが変化を遂げるなら話は変わってくる。今後、様々なものが共有化され、それが当たり前になっていく時代が来るかもしれない。

酪農の危機

 酪農業界が危機的状況にあるらしい。牛乳の消費量が減り、生産量と見合わないために大量の生乳が廃棄されている。乳牛も処分されつつあるという。食料自給率の低い日本としては大きな矛盾である。

Photo by Harry Nixon on Pexels.com

 コロナで需要が落ちたことや、それ以前の供給不足から乳牛の数を増加していたことなど複数の要因が重なって酪農業は今大きな危機を迎えている。円安による輸入飼料やエネルギーにかかる費用の高騰も影響しているようだ。乳牛は機械ではないので生産調整をすることは容易ではない。搾乳しなければ病気になる個体も多いという。先行投資の大きな酪農家にとって、収入の道が立たれることは廃業につながる。結果的に食料自給率は低下することになってしまう。

 脱脂粉乳や、加工製品に回すといった手は誰しも思いつくが、それも手詰まりになっているらしい。消費されない在庫が余っているというのだ。思うに、乳製品の値段を一時的に下げ、より多くの人に消費してもらう方がいい。下げすぎると採算が合わなくなるので、この辺の調整は専門家が行うべきだ。酪農家を守ることは日本の食料自給事情を保つために欠かせない。国家的な政策が必要だ。

 乳製品は様々な用途で使われているが、輸入品もかなりある。国産品の保全のために、短期的に関税率を上げるなどして調整する方法もとるべきではないだろうか。これらの方法は常に見直し、実態に合わせて運用していかねばなるまい。これから様々な方面でこうした問題が出てくるはずだ。農政は日本の重要課題であることを痛感する。

マウント

 ここ数年よく聞くようになった言葉にマウントがある。相手より優位であることを意図的に示し、心的な有利に立とうとすることであるという。本来は物を乗せるという意味である。物理的に上に乗せなくても、コンピュータのプログラミングにおいて、一定のシステムを加えていくことにも使われている。また、格闘技では相手に馬乗りになり制圧すること、柔道における寝技のようなものを指すこともある。このマウントという言葉が頻繁に使われるようになっているのはなぜだろう。

Photo by Artem Podrez on Pexels.com

 様々な要因があると思うが、一つには自分の個性が埋没してしまうことへの反動にあるのではないか。格差が厳然としていた身分社会ではマウントは当然であり、改めて言うまでもない。不平等な日常の中で暮らしていれば、そしてそれが当たり前であれば優位を訴える必要もないし、劣位を悩むこともない。構造的な問題は長い時間を経て解消されようとするかもしれないが、短期的には精神的な葛藤はおきない。歴史に学ぶことで分かる。長く続いた封建社会の間の人々はどうして不満を訴えなかったのだろうかと考えれば、現代人が思うような人権なり平等の意識が希薄だったからというしかあるまい。

 現代社会でも格差はあるが、それは丹念に覆い隠されている。法の下に国民は平等であり等しく権利を持っている。実際にある格差はその許容範囲の中にあるものであり、暴動を起こして社会転覆をするまでもないことなのだと日本人のほとんどは考えている。それでうまくいっているのだから、世の中をあえて乱す必要はない。

 でも、この意識は人々を等質化するあまりに、個々人の存在価値を軽くする方向に進みやすい。平等ということはAさんもBさんも等価値であり、置き換え可能ということになる。それでは私の存在というものは機械のねじのようなものと考えるべきだろうか。心理的にはそうはいかない。だれもが自分は特別な存在と思っているはずだ。その意識の表れとして、私は人とは違うということをあえて表明することが起きる。どうせなら自分は他より優れていると言いたい。それがいまマウントと呼ばれている行為なのだろう。つまり、マウントをすることは強がりであり、場合によっては悲鳴のようなものだったのだ。

 マウントはおそらくする方より、された方が感じることが多い。それは先に述べた相手も自分も同じ資格・能力なのにどうしてことさらに自分が劣位にあると感じさせることを言うのかという批判、非難からの心理なのだろう。私自身もそう感じたことが多々ある。

 しかし、よく考えてみれば人間が等価値であることは幻想であり、人それぞれに個性がある。個々の技能や能力にもある基準を設ければ優劣が発生することもある。というより、みな違うのが当たり前だ。だから、私はお前より優れている、そんなことも知らないのかと言われたら、それを認めるしかないこともある。そして、そんな当たり前のことをなぜことさらに口に出さなくては済まないのかと憐れむべきだろう。たまたま優れた才能なり知識なりがあるのに、それをうまく使えず自分より少し知らない人に向かって自慢している程度なら、その能力は使えていないということの証だ。宝の持ち腐れ、もしくはその力の不足を嘆いているのだと同情すべきことである。

 私たちは平等の意味を考え直す必要に迫られている。平等とはみんなが同じというわけではない。本当は随分違っていても、それらを同じものとして権利を与えるための方便だということを考えるべきだ。社会が作ったかなり人工的な仕組みである。その仕組みを使えば多様な人々が共生できる。今の流行語のマウントはこのことが曖昧になっていることを表しているのではないか。

耐震と免震

 トルコとシリアの大地震の被害が報道されるたびに大きくなっているのは残念というしかない。かなり大きな地震であったことは確かだが、被害を大きくしているのはやはり建築物の工法の問題だと報じられている。

Photo by u0410u043bu0435u0441u044c u0423u0441u0446u0456u043du0430u045e on Pexels.com

 日本のように頻繁に地震がある国だと耐震構造はかなり普及しているようだ。東日本大震災では津波による大規模な被害が発生したが、高層建築物の被害は少なく、ほとんどが被害がなかったか軽微な被害であったという。耐震や免震に対する技術が奏功したと言われている。東京でもかなり揺れたが新宿の高層ビルも、建築途中だったスカイツリーも深刻な被害がなかった。実際に地震が起きないとこうした技術の成果は検証できないのが問題といえばいえる。

 トルコの被害状況を映像で見る限り、高層建築が大破しているものが多くみられる。同じく地震国でありながら、建築に関する基準が異なっていたことになる。前にも書いたが免震技術などは積極的に伝えるべきであり、世界に広げるべきものであろう。

 地震を止めることはできないが、建造物の倒壊を少なくすることは可能だ。その手伝いを我が国はもっとするべきではないか。

人柄

 人柄というのは説明不可能なものかも知れない。理屈ではなく、オーラのようなものが訴えかけてくるのだ。

 福祉施設を見学して説明を受けた。いくつかの施設を回ったが、その一つのリーダーは素晴らしい人だった。何が違うのかと考えたがよくわからない。仕事の中身をよく伝えていただけたのがよかったのかもしれない。仕事を心から誇りを持って行っているのだろう。それが伝わってきた。

 自分もまた人からどのように見られているのか気になることがある。一朝一夕で変えられるものではないだろう。これまでの生き方が形になるはずだ。恐ろしいが、己のあり方にはせめて自分だけは評価しておこう。

祭りの復活

 コロナで中止していた各地の祭礼が復活しつつある。マスクの規制がなくなれば一気に増えるはずだ。

 祭りには地域の人々の心をまとめる力がある。それが多少浪費をしても続いてきた理由にほかなるまい。祭りのために日常の利害関係を超えて地域がまとまる。祭りの催行が皆の目標になるのである。

 人々のつながりはメディアを通さずに直接触れ合うことが基本になければならない。この部分が抜けて、ソーシャルメディアの方ばかりを重視するから、人間関係がおかしくなるのだろう。もちろん、地縁にもさまざまな問題はある。それ以上に益となるものが多いと思う。

 幼いころ、下町の祭礼は楽しみであった。なぜ、こんなに大人たちが熱狂するのかは分からなかったが、その日ばかりは待ちゆく人が優しくなるような気がした。祭りの復活は共同体の維持のためには欠かせない。ようやくそれが再開することをうれしく思うばかりだ。

貧すれど

Photo by Alexander Grey on Pexels.com

 貧すれば鈍するということばがある。貧困が生活の質を下げ、モラルやマナーといった基本的に大切なものを守れない人が出てくるという意味だろう。わが国は世界的も礼節を重んじる習慣があると認められているように思うが、最近それが危うくなっている。それはやはり忍び寄る貧困と関係があるのだろうか。

 昔から社会的な問題行動を起こす人はいた。基本的な社会生活に必要な協調性が薄く、独善的ですぐに文句をいう人である。これは最近の科学では脳の機能低下と関係があるといわれている。機能低下は加齢によって誰でも起こるが、それ以外でも栄養不足や運動不足、過度のストレスなどによっても起こるらしい。これらは貧困と相関がありそうだ。ならば、貧困が進めば問題は一層大きくなっていくということになる。

 さらには社会的な風潮、世相も影響する。特に日本人の気質の一つである同調志向は、この傾向を具現化しやすい。誰かのもたらした悪影響がたちまちに広まってしまう。ソーシャルメディアの無責任な発言がそれに拍車をかける。経済的貧困と精神的貧困が負の相乗効果をもたらし、正義や礼節の感覚を鈍化させてしまう。

 残念ながら昭和期にあったような経済成長は望めない。これから起きるのはやや角度のきつい降下線であると予測されている。その中で少子高齢化は進み、活力は一層失われる。イノベーションを期待するが、おそらく現状維持ができればいいということだろう。あくまで現在の経済的価値観での話であるが。

 ならば貧すれば鈍するではなく、貧すれど鈍せずの道を歩むしかない。まずは貧困の定義を変える必要がある。十分に有り余る物資を使い捨てするのが豊かであるという価値観をやめ、今あるもの、今あるシステムを大切にして、それを改良するという方法を取り、それが達成されることに幸福感を求めるようにしていくべきだ。いわゆるブリコラージュの発想も本来日本人に備わっていた考え方だと言える。結果的にそれが環境問題や、人口減少問題の解決の糸口になることは素人にも予測できる。

 こういう発想の転換にはきっかけが必要だ。歴史的には困難な時代に偉大なる指導者や思想的なカリスマが登場して人々の考え方を変えていったように思う。それが平和的に行われず、天変地異や革命、戦争などの悲劇の時期と多くの場合に重なっていたことは注意しなくてはならない。もちろんこうしたことはあってはならない。起こしてはならない。昔の人と異なるのは私たちはかなりの人が文字が読め、話し合うことが可能だ。だから、実際に悲劇が起きなくても、それを想像し、その対処を論理的に考えることができる。端的に言えば歴史に学ぶことができる。事例学習ができる。

 徐々に衰退に向かう社会において次に起こりうることは何か。それを考えることも必要だ。そしてそれを考えさせるきっかけを作ることも必要だと思う。そのためには歴史をもっと学び、思想を学ぶことをおろそかにしてはならない。最近はテクノロジー偏重の教育がなされつつあり、また社会的なニーズもそちらに傾いている。しかし、そもそも社会を成り立たせている仕組みや、その仕組みを支えている基本的な姿勢、ものの考え方について多くの人が意識し、その重要性に気づくべきだ。

 貧すれど理想を忘れないことを多くの人が目指すことができるか否かがこの国だけではなく、現代人の命運を握っていると言えそうだ。

リモート強盗

 フィリピンで収監中の囚人が、日本の強盗事件の指示役であったというニュースが連日報道されている。このニュースの不思議はいくつかある。まずは囚人がどうして外部と連絡可能であったのかということだ。テレグラムというアプリが使用されたことは分かっているがなぜそれが使用可能だったのかということになる。

 この点については現地の担当者が犯罪者側に買収され、収賄の上で便宜を図っていたことが分かってきた。現地の司法システムの問題点をついたということになる。これは現地の法に従って処罰していただくしか方法はない。しかし、もっと不思議なのは海外の囚人の指示でなぜ現行犯のグループが活動したかということだ。

 犯罪を犯すにはかなりのリスクを伴う。というよりほとんどの確率で失敗に終わるはずである。にもかかわらず、どうして実行犯たちは動いたのだろう。これが一番の問題だ。実行犯は犯行で強奪した金品の分配をフィリピンの指示役に任せたようで、その出来具合によって報酬が決まっていたらしい。あたかもリモートワークのような仕組みであったことが分かる。動けない指示役の差配をかたくなに守り、自らの危険の報酬を人任せにするという実行犯たちの自主性のなさに逆に恐ろしさを感じてしまう。

 どのように実行犯たちの精神を操ったのだろうか。それが今後私が最も関心のあることだ。人間の行動の一側面を浮き彫りにしたものとして注目している。