近隣の店舗のほとんどか営業している。正月は休むのが本当ではないだろうか。おせち料理などは休業期間の保存食としての役割があったように思う。いまはそんな緊張感がない。助かるがこれでいいのかとも思ってしまう。感謝には堪えないが、何か違うのではと考えてしまうのだ。
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循環型社会
いわゆる鎖国状態であった江戸時代は資源が限られていたために循環型の社会になっていたという。あらゆるものが再利用され、それが何度も繰り返されていたらしい。大量生産大量廃棄を前提とする現代の価値観とは対極にあるものだったことになる。再考する価値がある。
SDGsは現代の循環社会志向の考えだが、江戸時代の循環型社会とは根本的な違いがある。そもそもSDGsは持続可能な「開発目標」であり、開発という視点を強調する。持続することを目標に停滞するのではなく、あくまで開発が目標だ。そのためには環境保護をうたいながらもより豊か便利な社会を求める目標が設定されている。海をきれいにするために、プラスチックを使うのはやめようとは言わない。ごみを分別しよう、エコバッグを使おうというが、よく考えれば実効性はさほどない。EV(電気自動車)に変えようというが、発電エネルギーには化石燃料を使う。環境を守るためにいっそのこと流通システムを止めようとは言わない。
江戸時代の循環型社会が成り立っていたことにはいくつかの条件がある。まず資源自体が限られていたという現実である。国土にあるもので何とかしなくてはならない。列島国家の性質上、他国から資源を輸入したり、暴力的に強奪したりする可能性が少ない。とにかくやるしかないという状況があったのだ。他国に侵略する悪知恵と技術は近代国家になって欧米から学んだものだった。

島国、さらに山岳や河川によって分断されやすい地勢や災害の多さも循環社会を成立させてきた。国土の大半が森林であり、台風や雪害の危険性があり、加えて地震も多い状況にあっては、生活を維持するための最低限の工夫が常に意識されてきたのだと言える。
固定的な社会、つまり封建社会のシステムも持続型社会を支えていたという事実を忘れてはならない。社会的な変動が極めて少ない社会では持続型な社会システムは維持しやすい。人々の自由が社会的に制限され、その前提で生きているからこそ、循環社会が当然のように受け入れられてきたのだ。これはあまり強調されないが大切な事実である。逆に言うと江戸時代風の循環型社会を目指せば経済的な成長は期待できない。成長しないことで現状維持を果たしていたということも言えるかもしれない。だから、江戸時代に学べ、江戸に戻れという短絡は危険だ。近代的自我を確立してしまった私たちにはあまりにも窮屈で、それだけで窒息してしまいそうな社会であったことを忘れてはなるまい。
これからの持続的社会はどのようにあるべきだろうか。SDGsの理想はそれはそれでいい。どう実現するかだ。またこの目標の裏側にある利権獲得の動きを暴き、流されないことが大切だと思う。循環を支えるシステムへの支援を考えなくてはならない。リユースにかかるコストは実は安くない。中古品は安価だという思い込みがあるが、そうでもないらしい。再利用品を積極的に使うということが消費者の立場でできることだろう。
これには価値観の転換が必要だ。古いものを積極的に利用し、修理、修繕、改良の技術を個人のレベルで高めることが必要になってくる。壊れたものを直せる可能性が高まれば捨てられる可能性は減る。また企業も完成品を売ることばかりではなく、部品、修理用のパーツなども売る方法を展開するとよい。初めはコストがかかるかもしれないが、結果的には会社としての持続可能性を高めるだろう。
いわゆる商品のサブスクリプション、リースなども発展させていくべきだろう。安物を個人で買いそろえてすぐに捨てる時代から、ある程度の品質と耐久性をもった商品を共有する方法への転換は持続可能社会の流通モデルとなりそうだ。
このほかにもいろいろな方法がある。それをまずは自分で実践することで実験してみよう。などと考えている。
優しくない時代に
貧すれば鈍するという言葉がある。景気の良かったころにも様々な問題はあった。欲望に流されて自らを失うという話はどこにでもあった。しかし、もっと深刻なのは貧困による理性の喪失である。ここでいう貧困とはもちろん経済的な問題も大きいが、さらなる問題は精神的な貧困である。

私自身もそうなのだが、心の安定を失ったとき冷静な判断ができず、場合によっては周囲を恨んだり、必要以上に悲観的になったりする。不安定になる要因に経済的な不安がある。これはかなり大きな比重を占める。このままの生活はできるのだろうかとう漠然とした不安である。それがまたさまざまな心の貧しさを導く。余裕のなさという方が正しい。余裕を失うと焦りとともに様々な負の感情が飛び出してくる。
こうした状況が今の日本には潜在的にある。大半の識者は今後日本の国勢は衰退していくという。先進国ではなくなるという言い方ももう何度も接してきた。一人当たりの所得はすでに近隣の中興国のレベル以下になっているというのだ。数値的にはもうこれは否定できない。プライドという面においてこれは大きな影響力を及ぼすだろう。しかし、これは個人の成長にも言えることだが、大切なのは他人と比較することではなく、自分がいかに満足し、幸福を得られるかということだ。それが危うくなっているということに一番の問題がある。
日本人の理想的な人物像に優しさという基準がある。これは他人に対して寛容で、かつ利他的に行動できるということを意味するはずだ。決して、他人に甘いという意味ではない。この優しさを維持することが当面の課題になると思われる。つまり、自らの生活や周囲の生活が次第に縮小傾向にある中でも他人に優しくできるのかということである。これがこれからの日本人の目標になっていくように思える。もちろん手をこまねいて衰退に進むのではなく、あらゆる努力をするべきだ。人口減やエネルギー問題などを克服するための技術や社会制度を構築し、小さいながらも堅実な生活ができる国家を目指すべきだろう。ただそれにしても今のような拡大再生産を前提とした考え方が成り立たなくなるのは事実であり、意識改革が求められることは間違いない。
利他的に生きるというのは自己犠牲という意味だけではない。自らも他者と同一の水準でものを考え、その中での最適解を探す努力をするということなのだろう。どんなことがあってもその理想を貫ける人こそ、優しい人ということになる。今、世情をにぎわしている他者を愚者扱いして自分だけが世の中を分かっているかのようにふるまう人は優しくはない。
2023年はこうした新しい優しさの概念を実現するために何が必要なのかを考える一年にしていきたい。私にはできることは少ないが、せめて本当の優しさを持っている人たちの紹介をさせていただくことはできるかもしれない。
2022年のおさらい(7月~9月)
7月は大きな事件が相次いだ。2日に起きたKDDIの通信障害は過去最大規模といわれ、3915万回線が影響を受けたという。私にとってもメインの回線であるため大いに心配した。
こうした障害は規模の違いこそあれ、これ以前も以降も起きている。デュアルSIMを勧める人もいるが、できれば非常時は回線を譲り合えるような仕組みを作れないかと思う。なんにしても電波が飛ばなくては社会が止まるという現実は克服されなくてはならない。これからも起こることだ。
8日に起きた安倍晋三元首相の銃撃事件は衝撃だった。手製の銃で殺害するという日本の銃規制の裏をついたものだった。安倍氏は歴代最長の任期をつとめた。いろいろな批判もあり、とくにアベノミクスと自称した経済政策は結果的に失敗している。しかし、没落する日本経済に一種の麻酔をかけ、時間稼ぎをしたことには意味があった。また、すぐに変わる日本のトップという印象を変え、他国の首脳から一定の信頼を勝ち得たことも安倍氏の大きな功績だ。
この事件の犯人が世界平和統一家庭連合(元統一教会)の信者の家族であり、多額の献金により家庭崩壊の被害にあっていたことも大きく報じられた。かつてから問題視されていたカルト的宗教団体であったが、実際には政治家からの直接間接の支援を受けていたことがこの後明るみになっていく。
10日に投票が行われた参院選では自民党が大勝し、単独過半数を獲得した。この国の政治的な選択肢が事実上ないことをこの選挙は思い知らせる結果になった。
この月もとても暑く、あまりにも早く梅雨が明けたため蝉が鳴かない期間がしばらく続いた。いつもと違う静かな猛暑は気候変動の一つの側面を示すものであり、少々気味が悪かった。
8月は大谷翔平に注目していた。9日にはアメリカのメジャーリーグでは104年ぶりに二桁勝利、二桁本塁打を達成している。塁上では敵チームの選手と歓談する姿や、グラウンドに落ちているごみを片付ける行動が注目されていた。かれは日本人だからということではなく、野球の歴史において貴重な人材として記憶されることになるだろう。10月には前人未踏の規定投球回数と規定打席数の両方を満たした。
この月には有名なデザイナーが相次いで死去した。5日は三宅一生氏、11日には森英恵氏が亡くなっている。森英恵のビルが表参道に建ったときの思い出はブログに書いた。
この月、東京オリンピックやパラリンピックの大会組織委員長の高橋治之氏が企業からの不正な収賄の疑いで逮捕された、AOKIホールディングやKADOKAWA、さらには電通などに汚職の疑惑が広がってしまった。東京オリンピックの開催には賛否両論あったが、無観客という前代未聞の方法で成し遂げ国際的な評価を受けていたのに、裏方が犯した罪は夢を壊すのに十分な打撃を与えた。
9月には3歳児がバスに取り残され熱射病でなくなるという痛ましい事件があった。非常時には内側から鍵が開けられる仕組みなどが検討されている。ぜひ、実施してほしい。
九州新幹線、武雄温泉と長崎の間が開業した。本線とつながらない暫定的な路線だ。長崎をたずねたとき、現地の人から聞いた話ではあまり期待感はないということだったが、その後はどうなのだろう。新幹線が走ったことで在来線の沿線が寂れないかも心配だ。これは北陸新幹線が走ったときも同じことが起きたために連想してしまうのだ。
手数料があるので
かつて学校で募金の担当をしたとき、集まった小銭を郵便局に持って行って振込する役をやっていた。小銭といっても集まれば結構重い。端数を自分で足した額を札で振り込んで、実際の小銭を自分で使うことにしたことがある。金銭的には間違っていない。自分からの寄付も少しだけやったので、それなりの自己満足も得られる。
ところが今これをやってしまうと大変だ。コインをそのまま窓口に持っていくと枚数によって手数料がとられる。たとえばゆうちょ銀行の場合、500枚のコインを預けようとすると手数料が825円だ。もしすべて1円玉だとすれば、預けるだけ赤字になる。これはどう考えてもおかしい。ゆうちょ銀行はそれでも安いほうで、同じことをみずほ銀行やりそな銀行でやると手数料は1320円で大赤字になる。
手数料の安いコインスターなどの自動両替サービスの利用で切り抜けるしかないが、募金などの善意にも手数料がかかるというのは何とも理不尽な気がする。これからの街頭募金ではスマホをかざすことになるのだろうか。キャッシュレスの世界に向かうのは時流というものだが、募金のような日常の経済活動とは異なるものに関しての対応は別に考えなくてはならない。
みんな幸せには間違いなのか
日本の現況を批判するときに、悪しき平等主義という考え方がある。それは間違いなのだろうか。
もともと封建社会の長く続いた日本では近代以降、家柄による身分格差というものを忌避してきた。実際には様々な階級制度を内包しながらも建前としての平等があたかも存在するかのように考えられてきた。
機会の平等という大義名分はあっても、高学歴を得るにはそれなりの経済力が必要であり、誰でも能力さえあれば上昇できるというのは幻想に過ぎない。それでも日本人はこの幻想にかけてきた。あるいは騙されてきたという方が正しいのかもしれない。
誰でも努力すれば望みを達成することができるというのは残念ながら非現実的だ。現実はそんなに甘くはない。多くの人は努力しても報われることはない。日本はその確率が比較的高いかもしれないが、あくまで数値上の問題だ。
我が国の基底に流れる考えとして自分だけが得することに対する嫌悪感がある。努力の成果は報酬として欲しいが、それが他人を傷つけるものならばよしとはしない。あくまで公共の福祉が保たれてこその自分の利益だという根強い考えがある。
こうした心性は日本人の財産だと思う。上昇志向の足りなさとと非難する人もいるが、これは島国の国民が培ってきた大切な心のあり方ではないだろうか。
日本経済が振るわないのは才能あるものに正当な報酬を出さず、平凡な人材をいつまでも雇用しているからだという。一見正論に思われるが、平凡な人材を認めうる懐の深い社会の魅力を考えるべきではないか。
平凡といわれる人物が本当に怠慢で業務に支障をきたしているのなら話は別だが、大抵の場合はそこまでではない。業績が形に現れなくても何らかの役割を果たしているのなら、評価すべきだ。短絡的経営者はこの視点がない。
悪しき平等主義という言葉の怪しさは、人々の個性を無視することに近いことにある。できない人と思われても、実は集団の役にたっているのかもしれない。それを考えるべきではないか。
エネルギーの多様性

欧州で進める自動車のEV(電気自転車)化はさまざまな問題があることが分かってきた。EVにすれば温室効果ガスの削減につながるという単純な発想はどうも誤りのようなのだ。
2035年までにEU圏域で販売する自動車はゼロエミッション自動車(ZEV)にすることが義務付けられる。操作時に二酸化炭素を排出しないということで、日本のプリウスなどに代表されるハイブリッドの電気自動車は認められないことになる。これらの車は確かに走行時には電気だけをつかうので温室効果ガスは発生しない。だが、いろいろ問題があることが分かる。
まずは性能の問題である。現状ではEVの走行距離はガソリン車より短く、こまめな充電が必要になる。自家用車の場合は自宅に停車しているときに充電するのが当たり前になるだろう。契約駐車場も充電器付きの設定が現れるはずだ。商用車になると困ったことが起きる。長距離を走るトラックなどは明らかにEVには向かない。充電にも時間がかかる。急速充電でも30分以上かかるというから、給油所ならぬ充電所は渋滞が予想される。
そもそも電力をどのように賄うのかという問題がある。日本の場合、原子力発電は様々な問題がありこれ以上拡大できない。むしろ縮小しようというのが世論だ。すると電力は火力頼みにならざるを得ない。するとEV化のために発電量が増え、かえって二酸化炭素の排出量がふえてしまう。
もっと深刻なのがエネルギーの一元化による弊害だ。今、豪雪地帯で起きている停電は、電力が停止するとインフラのほとんどが機能しなくなることを示している。電力に頼りすぎるとそれが止まったときにすべてが停止するという危険をはらむことになる。おそらく2030年代のヨーロッパではこの停電パニックが発生する可能性がある。
技術者によるとEVは製造や廃棄の過程でガソリン車より温室効果ガスの発生量が増えるのだという。すると、走っているときはよいが、走る前と後のEVは環境問題に適合しないことになる。この点も考慮しなくてはならない。
日本は欧州などの世界の流れを踏まえていかなくてはならないが、事情が異なる他地域の方法をそのまま取り入れるのは危険だということになる。再生可能エネルギーの開発は今も行われている。日本では豊富な水資源があることから水力発電が中心で、太陽光や風力の発電がある。これらは発電効率が低く、なおかつ環境を破壊する側面をもっていることから解決策とはなっていない。さらに注目されているのが水素をエネルギー化する技術である。水素からエネルギーを作る時点で電力がいるので、いまのところは完全に化石燃料から離脱することはできない。しかし、石油や天然ガスよりも温室効果ガスは削減できるとされている。発電を再生可能エネルギーに任せればさらに脱化石燃料に近づくらしい。
いずれにしても今の科学技術では何か一つの手段にゆだねることは極めて危険な賭けとなる。欧州のような政策は理想としてはよいが、現実を考えるとかえって環境負荷を増やし、最悪の場合は全停止につながる。これは避けなくてはならない選択肢だ。日本のようなエネルギー資源がない国だからこそ気がつくこともあるはずだ。エネルギーの多様性を確保することは人類の未来にとって不可欠と考える。
排除の罠

残念ながら見えない差別が広がりつつあるのを感じる。これが杞憂であればいいと思うが結構根深いものを感じるのだ。
多数派が正義という図式は民主主義の悪い側面である。本当に正しいかを検証せずに、多くの人がなんとなく支持する考えを正義と考えてしまう。これは根本的な間違いにつながる。しかし、日常の生活においていちいち検証という工程などするはずはない。なんとなく時流と判断する各自の判断(というより印象)で是非を決めてしまう。
最近、困るのはこの自分とは異なる考えに対する寛容性のなさである。多くの人はそう考えているが、別の考え方もあるというときに、これが排除につながることがある。排他性が発揮されるのはいくつかの条件がそろった時だが、これがいま起こりやすい条件がそろっている。
ソーシャルメディアのような似非世論を見せるものが手元にあると、ネットの発言を基準にして物事を考えてしまう。よく考えればわかる。ネットに書き込むのは特定の条件の人だけであり、それ以外の人はROM(読むだけ)の状態だ。だから、書き込まれていることは世論ではなく、極端な意見の集合体に過ぎない。それを世論と勘違いする人が一定数存在することでおかしな事態になる。
日本人は元来同調圧力の強い環境に置かれているが、それを増強するのが自由な発言の場であるはずのソーシャルメディアである。これを克服するためには各自のメディアリテラシーを向上するほかには方法はなさそうだ。TwitterやFacebookに書かれていたとしてもそれは少数意見であり、従う必要はない。そういう根本的なことをもう一度考えるべきだ。
支払いのデジタル化
地方都市
人口減少が進むと都市への人口集中が起きやすくなる。インフラの効率化などを考えると、コンパクトにまとめた方がいいというのは理に叶っている。ただ、そこで気をつけなくてはならないのは多様性の損失だ。
極論をするなら札幌、仙台、東京、名古屋、大阪、広島、福岡に人を集めて、さらにそれを東京に集約するような流れを考えている人もいるだろう。その時代はそれで乗り切れるとして、持続可能な未来があるのかと言われれば大いに疑問だ。
産業的に考えれば、地方の都市が果たしてきた役割を今後いかに代替するのかが考慮されていない。林業や農業、水産業に関することを担当する人は誰なのだろう。
コンパクトに住む効率性の中で失われる多様性は大きな損失だ。色々な考え方なり行動様があって多彩なアイデアが生まれる。それが文化の力だ。
ならば地方都市をいかに存続させていくのかが当面の課題と言える。単に巨大都市を作ればいいという訳ではないのだ。