急に寒くなった。ただ、今回はいろいろ身構えていたせいなのか、いまのところ大きな体調の変化はない。毎年、この時期に風邪やインフルエンザもどきに罹る私にとってはまだ油断がならない。栄養を摂ることと休むことが大切なのは分かるがそれができないのが、今の私である。とにかくやるしかない。
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旅の途中
ごく稀に自分は何でこんなことをしているのだろうと思うことがある。日々の生業にあくせくして、他人からの毀誉褒貶を受けながら、お前は何をしているんだと考えてしまう。子どもの頃から植えつけられた価値観のもとで、何か絶対的な基準があるかのように幻想して毎日を過ごしている。でも、一歩引いてみればそれは恐らく幻覚のようなものだ。多くの人が同時に見ている夢の中でそれに相応しい振る舞いをしているのに過ぎない。
いま正しいと思ってやっていることは、基準が異なれば全く違う評価になる。現実と信じている日常は多くの人がそのようであれと考えている幻覚のようなものだ。何が正しいのか、邪悪なのは何かと言った弁別は言ってみれば時価のようなもので座標軸が変われば全く別の世界が出現する。
私たちは生きる世界を選択することがほぼできない。個人の理想を追求するのはよいが、それが自分のパートナーにどのように響くのかは全く分からない。自分にとっては理想的な世界であっても、隣人には苦痛そのものかもしれない。誰を基準にするかで世界は大きく変わってしまう。
だから、いまの身の回りの世界を絶対的なものとみるのはやめた方がいい。たまたまその世界にいて、多くの人がその世界の立ち回り方としてやってきたことを模倣しているのに過ぎないのだ。いろいろな世界がある可能性を忘れてはならない。そんなことが分からない自分はまだ旅の途中にいて彷徨っているのだ。
忘れてしまったこと
忘れていることがある。日ごろの雑事に追われて基本的なことを忘れるのである。例えば朝の日の光を迎えること。日没後の暗闇で考えることなど、自然の営みを感じることはとても大切なことなのにも関わらずである。
自分に合っている環境は今の状態ではないのかもしれない。毎日の生活の中でそれが分からなくなっているだけなのだ。一度積もり積もった日常の塵埃を振り払わなくてはならないのかもしれない。その必要性が刻々と近づいている。
やりたいことシフト
やりたいことのシフトが必要かもしれないと思っている。やりたいこととできることの差が少しずつ出てしまっているのだ。

無理をしても何とかできると思って過ごしてきた日々の中で、実際にできるときとできないときがある。十中八九できなくとも、残りの一二でできれば何とかなってきた。野球選手より気が楽だった。
でも今はあらゆることがデータとなり、始める前から実現可能性が明示されるようになると、さらに自分の状態が過去のそれとは比べられないほどになると、無謀に何かを続けることだけが良いことではなくなる。できないことはできないと認める潔さも必要だ。
ならばやりたいことを変えなくてはならない。諦めるのではない。最終的な到達点とか、やり方を修正するのだ。これは逃げではなく新たなる挑戦の仕方である。
作られた動画
写真をもとにそれを動画として表現するということが人工知能の力によって実現されている。過去に撮られた写真から、それを動画化して好きなように動かすというものだ。動画サイトにはいくらでもそのような例がある。過去の偉人の写真を動画にしたり、若かりしときの女優の白黒写真をカラーの動画にすることもできるのである。
合成した動画が偽物であることは分かつていてもそれをみたときの衝撃は確かに大きい。1年ほど前の生成動画にはいろいろな不自然さがあったが、日々その違和感は修正され、限りなく本物らしくなっている。
フェイクであることを非難するのはもちろん正しい。が私たちには虚構を楽しむという心性もあってその線引きが時々分からなくなる。目的によっては偽動画を受け入れたい場面もあるのだ。死んだ先人の笑顔が見たいと思ったときに人工知能にそうさせることは罪ではない。
そう遠くないうちに全編人工知能の生成した映画が上映されることになるかもしれない。その次は作品世界に没入するような仕組みが開発され、作品鑑賞そのもののあり方が変わるのかもしれない。
秋を見つめる
犬の日でもあり、猫の日でもある
今日から11月だ。今年もあと2カ月である。ここのところ急に秋が深まってきているので体調が追い付けない。ところで今日は犬の日であるそうだ。鳴き声のオノマトペからの語呂合わせらしい。犬にとっては実にどうでもいいことであろうが。

同時にサンリオのキャラクターのキティちゃんの誕生日が1974年11月1日なのだそうだ。設定上はロンドンの出身ということだが日本のデザイナーが創作したものである。いまでは世界中にひろまって愛されているらしい。つまり今日は猫の日でもあったのだ。
聴き方再考
若い世代の基礎学力が低下しているかもしれないという意見は方々で耳にする。個人的な偏見はあるに違いないがある意味では真実に近いのかもしれない。その原因の一つが情報認知の方法が変わったことにあるという。
かつては知るものと知らざるものの差は歴然としていた。情報源に接する機会を得られるのか、得た情報を解釈できるのか、その見解を他者に共有する手段はあるのか。様々な段階において格差があり、それ故に受容については相当の緊張感が伴っていた。言ってみればかなりの緊張感を持って対象に接していた。それがいまではネット検索でいつでもアクセスできると思っている人が増え、さらに生成AIがより簡単に答えを出してくれるものと信じている。その結果、聴くことに対するのめり込みはかなり薄っぺらいものになってしまった。
他人のことを批判するより、自分のことを考えてみたい。講演などを聴講するときに大切なのは結論だけではない。結論は著書などを読めば書いてあるし、話を聴きに行く時点で大体どんな立場の人物なのかは知っている。聴きたいことの中心はその結論に至る思考の行程であり、背景となった環境だ。「どんな」より「どのように」が知りたい。それも著作に整理して書かれたことより、論理的な飛躍はあってもその糧となったものごとを窺い知りたいのである。思考の過程を知ることはその人の出した結論を本当に理解するために欠かせない。
そのためにメモを取るならば取り方も変わる。思考の過程に注目し、ちょっとした小話を聞き逃さないようにする。事実の羅列はそれこそネット検索でもできるのかもしれない。しかし、本人の口吻から図らずも伝わってくる思考の理解の本当の糸口があるかもしれないのである。
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衣更
このところ雨か曇りの毎日で、気温もこの季節ならではの水準にまで下がってきた。特別なことはなにもしていないが、不思議な思い入れが芽生えたのは事実だ。
かつてに比べて、衣更の時期が後になった。夏服が見られたのは先週までで今週はほぼ全員が上着を着ている。中には薄いジャンパーを着ている人も出てきた。
この傾向は来年以降も続くのだろうか。更衣の概念自体が変わりつつあると実感している。
