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やりたいことシフト

 やりたいことのシフトが必要かもしれないと思っている。やりたいこととできることの差が少しずつ出てしまっているのだ。

シフト

 無理をしても何とかできると思って過ごしてきた日々の中で、実際にできるときとできないときがある。十中八九できなくとも、残りの一二でできれば何とかなってきた。野球選手より気が楽だった。

 でも今はあらゆることがデータとなり、始める前から実現可能性が明示されるようになると、さらに自分の状態が過去のそれとは比べられないほどになると、無謀に何かを続けることだけが良いことではなくなる。できないことはできないと認める潔さも必要だ。

 ならばやりたいことを変えなくてはならない。諦めるのではない。最終的な到達点とか、やり方を修正するのだ。これは逃げではなく新たなる挑戦の仕方である。

作られた動画

 写真をもとにそれを動画として表現するということが人工知能の力によって実現されている。過去に撮られた写真から、それを動画化して好きなように動かすというものだ。動画サイトにはいくらでもそのような例がある。過去の偉人の写真を動画にしたり、若かりしときの女優の白黒写真をカラーの動画にすることもできるのである。

 合成した動画が偽物であることは分かつていてもそれをみたときの衝撃は確かに大きい。1年ほど前の生成動画にはいろいろな不自然さがあったが、日々その違和感は修正され、限りなく本物らしくなっている。

 フェイクであることを非難するのはもちろん正しい。が私たちには虚構を楽しむという心性もあってその線引きが時々分からなくなる。目的によっては偽動画を受け入れたい場面もあるのだ。死んだ先人の笑顔が見たいと思ったときに人工知能にそうさせることは罪ではない。

 そう遠くないうちに全編人工知能の生成した映画が上映されることになるかもしれない。その次は作品世界に没入するような仕組みが開発され、作品鑑賞そのもののあり方が変わるのかもしれない。

秋を見つめる

 二季という言葉が今年の流行語の候補になっている。この言葉自体は前からあって、私のブログでも2022年に使っていた。それ以前から春秋のやせ細りは危惧されており、気候変動を具体的に示す言葉として使われ続けている。

 されど秋の情緒はやはり感じたい。先日紅葉の色づきのことは書いたが、自然の推移から受けるさまざまな感情はどんなに小さなことでも大切に味わいたい。夏から冬への過渡期ではなく、秋そのものの蓄えているものを見逃さないようにしよう。

 類型的な速断はやめて現実に向き合うことがいまの生活には必要なのだ。

犬の日でもあり、猫の日でもある

 今日から11月だ。今年もあと2カ月である。ここのところ急に秋が深まってきているので体調が追い付けない。ところで今日は犬の日であるそうだ。鳴き声のオノマトペからの語呂合わせらしい。犬にとっては実にどうでもいいことであろうが。

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 同時にサンリオのキャラクターのキティちゃんの誕生日が1974年11月1日なのだそうだ。設定上はロンドンの出身ということだが日本のデザイナーが創作したものである。いまでは世界中にひろまって愛されているらしい。つまり今日は猫の日でもあったのだ。

聴き方再考

 若い世代の基礎学力が低下しているかもしれないという意見は方々で耳にする。個人的な偏見はあるに違いないがある意味では真実に近いのかもしれない。その原因の一つが情報認知の方法が変わったことにあるという。

 かつては知るものと知らざるものの差は歴然としていた。情報源に接する機会を得られるのか、得た情報を解釈できるのか、その見解を他者に共有する手段はあるのか。様々な段階において格差があり、それ故に受容については相当の緊張感が伴っていた。言ってみればかなりの緊張感を持って対象に接していた。それがいまではネット検索でいつでもアクセスできると思っている人が増え、さらに生成AIがより簡単に答えを出してくれるものと信じている。その結果、聴くことに対するのめり込みはかなり薄っぺらいものになってしまった。

 他人のことを批判するより、自分のことを考えてみたい。講演などを聴講するときに大切なのは結論だけではない。結論は著書などを読めば書いてあるし、話を聴きに行く時点で大体どんな立場の人物なのかは知っている。聴きたいことの中心はその結論に至る思考の行程であり、背景となった環境だ。「どんな」より「どのように」が知りたい。それも著作に整理して書かれたことより、論理的な飛躍はあってもその糧となったものごとを窺い知りたいのである。思考の過程を知ることはその人の出した結論を本当に理解するために欠かせない。

 そのためにメモを取るならば取り方も変わる。思考の過程に注目し、ちょっとした小話を聞き逃さないようにする。事実の羅列はそれこそネット検索でもできるのかもしれない。しかし、本人の口吻から図らずも伝わってくる思考の理解の本当の糸口があるかもしれないのである。

 

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衣更

 このところ雨か曇りの毎日で、気温もこの季節ならではの水準にまで下がってきた。特別なことはなにもしていないが、不思議な思い入れが芽生えたのは事実だ。

 かつてに比べて、衣更の時期が後になった。夏服が見られたのは先週までで今週はほぼ全員が上着を着ている。中には薄いジャンパーを着ている人も出てきた。

 この傾向は来年以降も続くのだろうか。更衣の概念自体が変わりつつあると実感している。

現在も未来からみれば過去

 動画サイトを見ていたら自分が高校生の頃にみた風景が出てきた。その頃はビデオカメラを持っている人はわずかでよくも残してくれたと思う。懐かしさとともにいろいろな発見があった。

 現在の当たり前の光景もこれから何年か経てば古記録のようなものになるのかもしれない。特に最近は日々の変化が甚だしく、数年前のことでも大変化の末に分からなくなっている。

 過去の風景を懐かしむとともに現在も必ず過去になるという当たり前の事実を見つめ直したい。記録することの意味はそこにある。価値が出るか否かは未来ならないと分からないのだ。

幼馴染

 小学生の頃、転校ばかりしていた私はいわゆる幼馴染なる存在を作れなかった。人格形成ができる前から付き合っていた友人というものがない。中学生からは転校はなかったのでその当時からの友人は少しだけいる。都会の真ん中の学校であったのに、いやそうであったからこそ、当時と同じ場所に住み続けている人はほんの僅かでいまは行方知れずの人ばかりだ。かくいう私も中学の校区に行く機会はほとんどない。

 ごくまれにこの頃のことをふと思い出すことがある。他愛ないことが大半で、やけに詳細な記憶があるものとほとんど思い出せないことが入り混じっている。現今の中学生に比べるとはるかに純粋で幼かったと思う。携帯電話もソーシャルメディアもなかった時代は、対面での交流が唯一の手段であり、通学の途中の道端で話し込んだものだ。悩みや弱音の交換がほとんどでその内容は思い出せない。それほど遅くならずに解散していたのだから、大したことではなかったのだ。

 私にとっての幼馴染は中学時代のときの友人なのだろうが、いま交際を続けている者はほとんどいない。原因は私が行動を起こさないからだ。数々の同窓会の誘いをことごとく断ってきてしまったのである。懐古の情とともに、そこに立ち入ってしまったらいまの虚勢が崩れてしまうのではないかという形の知れない恐怖が出来するのである。

 これはある意味、内省を欠いて日々をやり過ごすという行為であり、致命的な自己崩壊を避けようとする虚しい抵抗なのである。ただ、これを続けることにより、自分の存在が益々分からなくなり、そこはかとない不安が充満してくる。張りぼての自己を日々作りながら、それが突如崩壊するときが来るのではないかと恐れているのである。

 自分の過去を知る人に会うことはもしかしたら大切なのかもしれない。何よりも自分自身が見失った自分の姿を思い出させてくれるのは彼らかもしれないのだ。この歳になっても過去の友人たちに会うことに躊躇しているのは我ながら滑稽だ。ときには思い切って過去の世界に浸ってみるのもいいかもしれない。

感動の下地

 あくまで私の話だが、何かに感動するときにはそれを自分事として考えられるときであると思う。自分だったらどうするだろうという思いが浮かんだときに、感動のスイッチが入り始める。もちろん、それだけではないはずだ。でも、これまで感動したことを思い浮かべてみると、そこには常に自己との比較があるようだ。

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 こうした事例から考えると、私たちが感動するためには自己の経験の豊富さが関与してくるともいえる。自分事と考えるためには、類似する経験を持っていることの意味は大きい。さまざま経験を積むだけ、他者の行うこととの比較ができやすくなる。そこに発見があり、感激が生まれる。だから、芸術でも学術でも何かに感動するためには、自分側の経験の豊富さが大きくかかわってくるといえる。

 その点で現代人が直接何かを経験することが減り、メディアを通して情報を表面的に知ったり、あるいは仮想的な空間で擬似経験しかしていない例が増えていることには問題があると考えれられないか。知っているつもりで実は知らないということは多い。分かっているといいながら自分がその立場に立ったことがなければ本当の理解は進まない。

 もちろんすべての経験を個人が得ることは不可能である。例えば宇宙空間での作業は、ごく限られた人物しか経験できない。しかし、たとえば孤独の中で何かをやり遂げるとか、全く情報が遮断された状況で手探りで何とかやるべきことをやり終えたとか、そういう経験でも推測するのには役に立つ。そうした基本的な経験による学びは子どものころからいろいろなことを通して獲得してきたものであり、中には幼い遊びのなかにその萌芽があるものもある。

 子どもに多くの経験を積ませることはその意味で非常に大切である。座学ももちろん大切であるが、いろいろな現場に立ち会わせることも教育の大切な側面と言える。感動する心が進歩を生み出す。次のものを作り出すためにも、まずは感動できる下地を作っておくことが必要ではないか。

特異日

 10月10日は晴れの特異日と言われている。今日は晴れというわけにはいかなかったが明るめの曇りであった。南岸の台風の影響もあるのだろう。でも降水がなかったことで面目は保たれた。

 1964年のこの日が東京オリンピックの開会式に選ばれたのもこの特異日であったからという説があるそうだ。日付と天候との相関はなく、単なる偶然らしい。

 そうであっても体育の日をスポーツの日とし、可動な祝日としてしまったことは、少し残念だ。今年のスポーツの日は雨の予報だ。これもまた偶然なのだが。

 次の晴れの特異日は11月3日ということだ。気候変動で過去のデータが使えなくなるのではとも危惧しつつ、穏やかな祝日を迎えたいと思う。