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昔書いた字

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 自分がかつて書いた字を読み返すと不思議に思うことがある。こんな字を書いていたのかと素直に驚く。それが子どものころの文字であれば普通だろう。子どもは手の大きさや筆記具を扱うための筋力が異なるだけではなく、字形に関する認識も違うから書いた字の印象が大きく変わって見えるのは当たり前だ。

 気になるのは大人になってからの字形の変化だ。ある時期には繊細な字体で書いていたのに、突然豪快もしくは乱暴になる。そういう繰り返しを何度も繰り返している。これは気分や環境の変化によるものに違いない。活字のような字を書くことを理想と考える時もあれば、自由闊達に書きたいときもある。ノートなどをみると、どうもその気分の波が私には大きく作用するようだ。この時はどんな気持ちだったのだろうか思い出すのもいい。

 デジタルでブログを書いているのはその意味では物足りないことになる。いつ書いても同じフォントで画面に現れるのは大切な感覚の何かを失わせているのかもしれない。

山積

 このところやらなくてはならないことが山積してパンクしそうである。要領よくやろうなどとはいってられない。可能性のあるものを優先するしかない。

 こういう辛さを誰かに話しても同情されるか逆に不能ぶりをなじられるかである。助力を申し出てくれる人もいるが結局は何もできない。やるしかないのだ。

 昔ならそれこそノイローゼにでもなったかもしれないが、いまはそれでもやり過ごしている。鈍感になることはスキルの一つである。

速読と熟読

 普段の読書を通して速読と熟読は意識して行うべきだと思う。それが間違っていると本を読むこと自体が面白くなくなる。

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 速読というのは別に必要以上に速く読むということではない。かつてパラパラとページを送るだけで内容を理解できるというような本が売れたが、これは少なくとも私のような一般人には無理だ。そうでははくて、多少分からないことがあっても大筋をつかむように読むということである。

 説明的な文章には常套的な構造があり、多くの場合は問題提起、分析、結論という順になっている。だから、最初と最後に注目すればある程度の内容はつかめるのだ。この方法に従ってざっと通読してしまうというのが、ここでいう速読だ。小説の場合はそれほど単純ではないが、場面の変わり目に注目して読むと同じようなことはできる。ただ、創作的な文章の場合、速読は勧めない。

 熟読は分からない言葉に出会ったら、それにこだわりながら読む方法である。たいていの場合、抽象的な表現のあとに「つまり」などの言葉で説明が入るが、中には読者へのサービスがよくないものもある。その場合は辞書も引きながら読むという方法である。そして、メモを取りながら読むこともする。

 速読と熟読は目的が異なる。楽しみながら知識を増やしたり、引き出しの数を増やしたりするのなら速読がよい。一方で読書を通してその内容を習得する場合は時間をかけて読むべきだ。本が嫌いな人はこの方法を間違っていることが多い。概要をつかむ読み方と内容を理解するのとでは違うと考えた方がいい。

10月後半に

 今日から今月も後半に入る。今日は少し気温が上がるとの予報だがさすがに秋の深まりを感じる。長すぎた夏のせいなのか、快適となった今頃にかえって疲れを感じているのだ。

 いろいろ試しているうちに少し生活が複雑になってしまった。これからは整理を少しして生活をシンプルにしていく。何でも片づけて自己満足することには与しない。見た目は変わらなくともやりやすいように作り変えていくのが目標だ。

 鞄をリュックのようにしていたのをやめた。するといままで背負っていたために感じなかった重みを感じている。いまより持ち物を減らさなくてはならない。軽量化するために持つ道具の選び直しをせねばなどと考える。こんなふうに季節の変わり目は生活の仕方を見直すことも必要だ。

進化の不思議

 生物学者のエッセイを読んでいると実に不思議な気持ちになる。生物はいつも環境に適応するために自分の身体を変化させ続けているというのだ。世代という単位では気づかないことも多いが、そのスケールを少し拡げるとすぐにその変化に気づく。寿命が極めて短い種の場合はそれがかなり早く起きる。

 人間も同じだ。今の学説ではホモサピエンスはアフリカ大陸にいた共通の祖先から世界中に拡散したという。地球上の各地に拡散するグレート•ジャーニーの途中で各地の気候や地理的な要因に適応した人類は、その形を次々に変えていったことになる。東アジア人の顔が凹凸に乏しいのは、寒冷な気候を過ごすうちに体表面の面積み減らして体温の発散を減らすためだという。

 実は進化の要因は複数の要素の複合の結果であり、単純な説明ができない。それを遺伝子とか進化論とかで何とか理由づけしているのだ。その意味で後付けの説明であって未来のことは分からない。

 ただ、私たちの身体そのものも自然の一部で、適応し子孫を残すために今後も形を変え続けるということだけは確かだということだ。今の姿が過去に遡れる訳ではなく、未来もこのままであるはずもない。

いまの笑顔が未来もそうだとは限らない。これは人工知能に作らせた笑顔のイメージです。

銀座線の暗闇

 渋谷に住んでいた頃は銀座線によく乗った。渋谷に着くとなぜか2階部分に停まるのが興味深かった。最寄り駅だった表参道には千代田線が乗り入れていたが、最新型車両の千代田線に対して銀座線は何世代か前の形態のままのような感じだった。

 日本最初の地下鉄である銀座線は給電の仕方が独特だ。線路上にある送電システムから電気を得るため、屋根にパンタグラフがない。だから、トンネルの大きさを小さくできるメリットがある。ただ、かつてはポイントの通過時など電機の接点がなくなる場所では停電していた。実際には余力で無電力地域をすぐに通過するので運行に支障はないが、瞬時照明も含めてすべてが消えてしまうというデメリットがあった。暗闇を防ぐため、停電と同時にバッテリーで光る非常灯が点灯した。ある世代以上の人は銀座線と丸ノ内線でこの非常灯体験をしたことがあるだろう。

 駅に近づくたびに暗くなるのは銀座線と丸の内線だけであり、ある意味貴重な体験をしたのかもしれない。現在の銀座線は配色などにレトロな雰囲気を残してはいるが照明が落ちることはない。車掌のアナウンスも機械仕掛けになった。やたらと大きな音を立てて、少し機械油の臭いがした銀座線を知る人は少ない。

交差点

 交差点を見下ろす席に座ると、いろいろな人間模様が見える。それは仕組まれていないドラマのようだ。多くの人がそれぞれの目的に向かって歩く。それぞれの速度とそれぞれの歩き方で。

 なかには信号を待ちきれず歩き出してしまう人もいる。速度が遅くわたり切れない人もいる。大きな荷物を担ぐ人も、ジョギング姿で駆け抜ける人も。それぞれがそれぞれの目的で交差点を通り過ぎる。

 彼らが10分前に何をしていたのか、2時間後には何があるのか、そういったことを妄想していると不思議な気持ちになる。そして自分もまたこの交差点を渡って今日の務めを果たす。

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分かりにくい説明

 何かを説明するときにどうしても自分本位になる。自分が言いたいことをいうのだから当たり前なのだが、それが相手にとって分かりやすいのかという点に関しては検討しなくてはならない。自分にとって分かりやすい説明が、必ずしも他者にもそうなのかは分からないのだ。

 筋道を立てて説明すればいいという人いる。たしか論理性は必要である。話術もあった方がいいに決まっている。ただ、こうしたテクニックだけでは説明の分かりやすさは生まれない。おそらく根本に触れていないからだろう。

 説明の有効性を高めるのは相手の視点なり立場なりを想像し、それに沿って話すことにある。どんなに立派な説明でもこの線を外れていれば十分に機能しない。相手のことを知るためには準備がいる。聞き手の立場で説明を組み立てるのは当然であるが、意外に忘れられていることがある。中には相手の理解度が低いなどと嘆くこともある。それは実は出発点を誤っている自分のミスであるということを認めなくてはなるまい。

秋らしく

 上着着用だが不快感はなくむしろ快適だ。周囲も上着着用者が増え、通勤電車の群衆は雰囲気が変わった。

 連休が終わったら、リュック生活もやめようかなどと考えている。やはり上着を着てさらに背嚢は合わないと思う。

 荷物を減らさなくてはならない。いまの私はそのまま避難生活ができるくらい色々なものを持っている。それもほどほどにしていこう。秋らしくするためには捨てなくてはならないものもある。

寒い朝

 今朝は肌寒さまで感じる気温になっている。体感は人によって異なるので一概には言えないが、20℃以下になると上着を必要とする人が増えるらしい。いまは端境期なので半袖シャツの人もいれば薄手のジャンパーを着た人まで多様である。

 私はまだ上着を着ずに出勤しているが、明日からは考えようと思う。風邪などひいてはつまらない。コロナもまだ終焉しておらず、周囲に罹患者が出ている。気を付けなくてはならない。

 私にとっての課題は上着のポケットに入れたものを忘れることだ。上着に残すものは筆記用具とハンカチと決めよう。それ以外のものを入れると管理ができなくなる。上着を着る季節のことはなぜか夏のうちに忘れてしまう。