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別れの季節

 年度末が3月である日本は今が別れの季節でもある。私のような仕事をしていると実は周期的な繰り返しに過ぎないのだが、それでも端境の時期には独特の感情が起きる。

 小さな変化を区切りとして考えるのは、時間の区切りに意味をもたせることで特別な価値をもたらす一つの知恵である。ただ過ぎていくだけの時間に節目をつけ、目に見える区切りを設ける。それによって自分の現在地を確かめようとするのである。

 別れの季節は自分の新しい可能性を見出す機会でもある。親しい友人との別れは辛いが新しい自分を引き出してくれる人との出会いもある季節なのである。

 

礼服

 この時期になると礼服を着ることが多い。日本の略礼服はネクタイの色を変えるだけで慶弔を切り替える。便利だが複雑な思いにもなる。この前これを着たときはどうだったかといった思い出が湧き上がる。そして、それはときに切ないものである。礼服をあと何度着るのだろうか。

今日から三月

今日から三月である。私の仕事にとっては年度末のいろいろある時期で無難に乗り切りたいとばかり思う。切れ目節目の時でもあり、私としても今年度で終わる小さなことを仕上げ、次に続く何かを模索していかなくてはならない。やるべきことを書き出して、優先順位をつけてと、毎年やることを今年も始めよう。今年は少々緊張感をもって。

古いコート

 寒さが復活して再び厚手のコートに戻した。このコートは実は20年近く着ていてかなり劣化が激しい。両袖の表面の生地にはいくつか亀裂があり、裏生地にもほつれがある。それでも着続けているのは私が外見に無頓着ということもあるが、それ以上に愛着があるからかもしれない。

 量販店で購入した布地のコートは特に高級なものではない。デザインも平凡であり、今どきの製品に比べれば厚手でその分重い。ダウンなどにすれば、もっと軽く温かいものもあるはずだ。ただ、この布団を着ているかのような重みに慣れてしまうとコートはこうでなくてはならないなどと勝手な思い込みが出来上がっているのである。

 また、このコートを着て出かけた数多くの場所や、そこで味わった喜怒哀楽の数々を思い出すと、これが自分の過去の確実な一部であると感じるのだ。だから、機能面とか美意識とかそういうものとは別の意味をこの古着に感じていることも、思い込みの上塗りをしている。

 東京に戻って数年後にこのコートを駅前にあったモールで購入した。当時は結構スッキリしたフォルムのように思えたし、人に褒めてもらうこともあった。それを冬になるたびに引っ張り出し、その季節は毎日来て出かけている。仕事でも休日でも着ているので利用価値は非常に高い。購入した価格を使用した日づけで割れば、一日あたりの価格はかなり安いはずだ。

 最近はさすがにほつれが気になり、別のものを買おうかなどと思うこともあるが、実際には買い替える気持ちは小さい。定年までの間はよほどのことがない限りもうこれでいいかと思う。世の中には新品をわざわざ経年加工して着る人もいるらしいが、これは天然の古着であり、その意味では味のあるものと言えるだろう。もう少し付き合ってみたいと考えている。

気温急降下

 今日の日中は汗ばむほどの陽気だった。関東地方で夏日を観測したところもあるという。2月にして夏というのは異常というしかない。ところが、明日は気温が急降下し、更に今週末にかけて低温傾向が続くという。週間予報では雪のアイコンが付いている日もある。全く激しい変化だ。最高気温が10度以上下がる地点が多いのだと聞く。

 咲き始めた梅花の勢いはもう止められないだろう。しばらく寒い日が続いても高温傾向には変わらないようで、桜もかなり早くなるのかもしれない。このところ桜は入学式の花というより卒業式の花となっている。さらに気候変動が続けば、私たちの季節感はかなり変わったものになるのだろう。

 このころは気温や天候の変動が激しいことが特徴である。季節が変わるときの身震いのようなものと考えている。

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物質的な視点

 科学の本を読んだ後は私たちが見ているものは自然現象の一過程に過ぎないと考えてしまう。いろいろな現象が重なり合って私が感じる現実が形成され、その印象から概念が形成される。こういう思考方法では、私たちの見ている世界は極めて物質的な偶然性の産物ということになる。

 それにしては私たちの経験は多種多様であり、そこに法則性は見いだせないような気がする。ある現象と、別の現象の間に因果関係があるといえばあるが、ないともいえる。それが私の考える実感である。物質的な観点に立てば、私が見ている様々な現象は本質的には一つにつながっていることになる。そうは見えないけれど。

 すべての物事が統一的な世界の中に含まれるという考えは、むしろ宗教に近い。物理学者は宗教の対局のようでありながら、実は最も宗教的な考えを持つ。私はその深みには全く近づけないが、自分の実感というものがどこまで自分のものなのかという素朴な疑問を繰り返している。

コートチェンジ

 このところ暖かい日が続いており、真冬用の外套では汗をかくようになった。少し薄いものに変えようかと考えている。

 ただ、今週後半からまた寒さが戻るようなので躊躇をしている。ただ、朝晩を耐えればもうマフラー手袋は要らないかもしれない。

 季節は確実に移ろいつつある。

明るすぎる人は

 明るすぎる人には裏があるという。経験上、ある程度の信憑性はある。内面に何かを抱えている人はそれに対する反発のため、明るく振る舞うのだろう。もちろん、根っから明るい人はいる。性格の問題であれば問題はない。ただ、それが無理に表出されているものであるのならば心配になることが出来する。

 自分自身のことを考えてみても、日常のどうしようもない苦悩に疲れると人前では無理に陽気に振る舞うことが多い。自分の暗さを見透かされないように必死になるからかもしれない。事情を知らない人は私をポジティブな人間と思うこともあるようだ。抱えているものの大きさ、重さを隠し通すことは真逆の行為でごまかすしかないのだ。

 明るく振る舞うことが自分の心の平安を保つための手段とすれば、それを尊重することには意味がある。バランスを取ろうとするいわば健気な振る舞いを暖かく見守るべきだろう。

 

人生の特別な場所

 病院に行くことがあった。緊急入院の手続きをする家族の横に嬰児を抱えた若い母親が並んでいた。当たり前のことだが、病院は人生のターミナルである。そこが目的地ではなく、通過する場所であるのにも関わらず、多くの人々が通り過ぎる。

 人生で一度も入院したことがないのが私の自慢であるが、よく考えてみれば生まれたときは病室にいたはずだ。これから何らかのきっかけでお世話になることもあろうし、そこで生命の終わりを迎えるのかもしれない。

 こういうことは日常生活の中ではまったく意識に上らない。緊急車両が目の前を通り過ぎたときでさえ、他人事としか思えない。いざというときになってたち現れすべてを覆ってしまう。人生にはこういう特別な場所がいくつかある。

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過去の映像

 動画サイトなどで昭和の中ごろの映像をみることができる。デジタル修復技術によって鮮明によみがえった写真や動画はまるで映画の風景のように見える。例えば戦後間もないころの東京の映像は、貧しいが活力のあるさまが映し出されている。おそらく復興のエネルギーやさまざまな矛盾が横溢していたに相違ない。

 今と違ってうつむいて歩く人はいない。スマートフォンがないからである。和服を着ている人も多く、男性は帽子をかぶる人が多かったようだ。建物はほとんどが平屋で、狭い歩道に肩を時にぶつけながらも人々が歩いている。こういう風景がかつてあったことに驚くのである。

 現在の日本の風景も数十年後には奇異に思われるようになるのかもしれない。ほとんどの人がデジタルデバイスに魂を吸われているように持ち歩き、やたらと写真や動画を撮る。おそらく未来の人はスマートフォンは持たないだろうし、写真や動画も含めておそらく着用型、もしくは埋め込み型となっているのかもしれない。人口が激減したため、町は閑散としているがそれでもいまより多くの情報が行き交い、さかんにビジネスも行われているのかもしれない。あるいはすべてがうまくいかず廃墟が続くようになるのか。それは分からない。

 過去の映像を見ている自分と、未来に後輩たちにみられる今の自分を思って不思議な気持ちになっている。