タグ: 生活

自分のいない世界を見渡して

 自分がいない世界のことを考えたことがあるだろうか。思考の原点である自分がいない世界というのは現実的ではない。たとえその場面に自分がいなくても、それを考えている自分は確かに存在するはずだからだ。

 でも敢えて別宇宙かそんなものがあって、そこに自分を退避したとして、自分のいない世界をみられたとしたらどうだろう。それがかつて関わりがあったがいまは関係がなくなったとしたならばどうだろう。きっとそれは恐ろしく寂しく切ないものをもたらすに相違ない。

 自分がかつて生きていた世界に、自分はすでになく、そこに存在していたことすら誰も覚えていない。自分なしに日常生活は営まわれ、そこに何の問題もない。本当に自分はかつてその世界にいたのだろうかと疑わしくなる。別世界からの観察を続ける勇気は潰えるかもしれない。

 それでも何らかの事情で懐かしい世界を見続けなくてはならないとしたならばそれはかなり辛いことになる。しばらくしたらこう考えるかもしれない。結局、自分の存在などどれほどの価値があったのだろうかと。これは苦しい結論である。

 ただ、さらに時が経てばこう考えるかもしれない。自分の存在は小さなものであり、自分がいなくなっても世界はびくともしない。ならばやりたいことをやればいいのではと。そういう段階に達する時が遠い未来に来る。

 別世界に移動した私にもその世界で生きていかなくはならない。それがどんなに幸福なものでも、あるいは過酷なものでも、その中でなんとか生きていく必要がある。そのときに元の世界を見て得たことを活かすべきなのだ。

散歩して

 久しぶりに実家の近くの畑の中の道を歩いてみた。農作業する人数人に出会ったがそれ以外は誰もいない。雲雀が盛んに泣き、夕方も遅くなってきたからかムクドリが方々から集まって群れを作り始めていた。都会に住んでいると気づかない静かな時間、そのなかで何のためというわけでもなく歩み続けている自分に妙な満足感を得ていた。

 毎日が流されてばかりでなにも得るものがないと思うこの頃だ。本当はそうではなくてサラリーという不可欠なものを得ているのだが、それもなんというか自分の力で獲得しているという実感にかけている。そういう生活はそろそろ終わりにしなくてなるまい。

 散歩して気づくことがある。私はこれまで何をしてきたのだろう。そしてこれから何をどうすべきなのだろう。そういう大切なことをなぜ毎日行ってこなかったのだろう。そぞろ歩きを皆さんにもおすすめしたい。それもできれば田舎道がいい。

老人の姿に

 老いを感じることはいくらでもあるが、それに反して実はそれほど変わってはいないとどこかで考えている。とんでもない錯覚だが、実は誰にでもあることなのだ。若い人には分からないだろうから、将来のあなたのために書いておこう。

 筋肉の低下は意外なことに顕著に起こる。私は毎日10,000歩以上歩いている。筋肉低下とは無縁だと思っていたがさにあらず。最初に異変に気づいたのは50代半ばのことだが、どうも足が上がらないために、ちょっとした高低差で躓くことが起こった。そのうち平たいところでも足がもつれることがあるようになった。月に一度あるかないかなので、気にせず対策をしなかったが、今になって考えると老化による筋力低下の始まりだった。

 老人というと腰が曲がり、杖をつく姿を思い浮かべるだろう。彼らはいきなりその姿になるわけではない。昨日までやってきたことが少しずつできなくなっていっただけのことなのだ。そしていつの日か劇的変化が訪れる。

 老人の姿を身近に感じられる年齢になって、少しでも他人に迷惑をかけたくないと考えるようになった。そのためには最低限の体力維持のための努力はしなくてはなるまい。もう自分のためという枠を超えている。

 

眼鏡を外して

 結構な近視に老眼をかけ合わせた面倒な目を持っている。最近、それでも眼鏡を外して歩くことが増えた。細かいものは殆ど見えない。男女の区別は出来ても、表情は読み取れない。

そういう視力で世界を見るとかえっていろいろ考えるようになった。見えない分だけ想像するようになるらしい。そして、反対に余計なものを見なくなる。これはむしろいいのではないか。

 もちろん、瞬時の判断を求められる場面においては視力不足は致命的だ。スポーツ選手が引退するのは筋力よりも視力の衰えによるのではないか。それほど瞬間の判断やそれに伴う行動は視力不足には厳しい。

でも、さほどの緊迫感がないときは、むしろ余計なものがみえない方が都合がいいような気がしている。

本を読む時間

 最近、本を読む時間が不足している。自分の仕事を能率的にするほど、わたしの場合は読書から離れてしまう。物事をテキパキこなすことと教養を蓄えることとは違う回路が必要なようだ。

 残念ながら、いまは日々の仕事をこなすことに手一杯だ。それには教養は要らない。雑念を捨てて作業をこなすことだ。今の世の中はこれが求められているから厄介だ。自分を仕事の機械にしていく。それで満足している人があまりにも多いのは不思議だ。

 いまは耐える局面と心得ている。生産性という大義名分の元に犠牲になっている生き甲斐というものを取り戻す準備をしていこう。面従腹背、わたしは性格がよくないのである。

形見の力: 記憶を緩やかに保つ方法

 記憶はものに寄って出てくる。私たちの記憶力は有限なものでいつかは消え去ってしまう。ただ、それを緩やかにするにはある物質、物体を拠り所にする方法がある。思い出の品を介在させることで記憶の消滅は軽減できる。

 古語で言う形見がそれに当たる。記憶のよすがになるものが形見である。考えてみれば私たちは身分証明書という小さなカードを通して、自分の名前や所属というものを記憶に定着させる。自分を証明するためのカードと考えられているが、実は逆で、カードが自分の存在を裏付けてくれる。それがなければ記憶の保持期間が過ぎてしまい、自分が何者だかわからなくなってしまうのである。

 だから思い出の品を残すのは実は大切なことなのだろう。最近はものを溜め込むことにかなり消極的な意見が目立つが、ものがなければできないこともある。

パラダイムシフト

 今まで当たり前だったことを変更しなくてはならないときに私たちはしばしば混乱する。しかし、あまりに日常をそのまま受け入れていると変化に耐えられなくなる。だから、変化を敢えて作らなくてはならないことが人生の中にはあるのかもしれない。

 少し生き方を変えてみようと考えている。自分の今の状況に合った生き方をしてみたい。そのためには切り捨てなくてはならないこともあるし、新たに始めなくてはならないこともある。もちろんそのためにはやらなくてはならないことがある。最低限の生活保障を確保しなくてはならない。でも今と同じ生活を継続するために無駄な出費をすることは避けよう。実は公共施設の利用で代用できることはいくらでもあり、その利用が自分だけではなく、社会のためにもなるということもある。

 あまりにも都市型資本主義に無反省に従ってきたことを少しやめてみようかと考えている。どうすれば自活力が生まれるのか。それを根本的に考え直してみたい。

思っています

 最近少し気になっているのが「思っています」という表現の拡張である。この言葉自体には新規性はなく、むしろありふれている。自分がある考えを継続的に持ち続けているということで、「と思う」に比べてある種の立場なり主張を言うときに使われる。

 気になっているのは「(私は)〜と思っているので」のように話の前提として思っている現状を提示する用法である。私の日頃の思考形式はこうなのでということであろう。つまり自分の立場を相手に先に伝えて、自分の主張を理解してほしいという先回りの手段だ。実際の文脈で聞く限り、私はかくかくしかじかの立ち位置にいるから、これから私の言うことはそのつもりでお聞きいただきたいということが言いたいらしい。

 この用法は用語としても文法としても間違いではない。私が覚える違和感は「思い」の表明が相手への説得の前提になっていることにあるのかもしれない。私の立場はあなたとは違うかもしれない。でも、私はこのように「思っている」のでそこは譲れない。どうかこのことはお察しいただきたい。そういう手続きが感じられるのだ。

 説得の戦略としては一応成立している。ただ、相手は当然自分の立場を理解してくれるという楽天的な前提があることは確かだ。これは日本人の日常の会話形式と親和性が高い。ただかつてはこういうことは言葉には出さず、当然の前提として話が展開することが多かった。そのためうっかりすると相手の真意を掴みかねることもあるのが日本型コミュニケーションの難点であったといえる。その意味では「私は〜と思っていますので」という表現はその常識が共通概念であるのかの確認であるということもできる。

 少し前に「それはあなたの感想でしょう」という自己撞着した相手への批判があった。これはそのまま発言者に跳ね返せる。感想ではない発言がどこにあるのかといいたい。でも、言われた当座はかなりインパクトが強く、なるべくならそう言われたり思われたりはしたくない。おそらく先入観とか誤解というのを朧化しているのだろう。この「と思っている」はこのような批判への防御線として頻用されているのかもしれない。

概念の更新

 自分の考えていたことと現実が大きく異なるという事実に時々出会う。自分の中でかってに作っていた想像の姿が現実には全く別のものであるという発見だ。これは知識の不足からくることもあるが、むしろ自分ではそう思っていたのに現実は違っていたということの方が多い。

 なにかの対象についての概念は日々の経験や、他者から受けた情報などで少しずつ形成される。しかし、どういうわけかどんなにたくさん情報があっても自分が作った骨組みにそって取捨選択がなされ、結局は現実とは遠い概念が生まれてしまうことになる。そして、一度ある程度それが出来上がると修正することが困難になる。思い込みというものが形成されるのだ。

 日常生活において自分の身近で常に繰り返されるものは、それに対する概念が更新されていくが、少々縁遠いものだと誤った概念が修正されることなく残ってしまうことがある。それがあるときなにかのきっかけで急に真実に接することになると、最初に述べた衝撃が発生することになるのだ。齢を重ねていくとそういう機会は減っていくがそれでも必ずある。長年考えていたことが実は間違いであったことを知るのは驚きと羞恥とそして喜びを含んだ感動をもたらしてくれる。

 大切なのはそういう概念の更新を怠らないことなのだろう。もうなんでも知っている。なにも学ぶことはないといった学習停止をどうやったら避けられるのか。それが私にとっての大きな課題なのである。

思い込みはどこにでもある

 先入観を持って物事を見るのはよくないことである。それは確かだ。でも、まったく先入観のない状態などありえない。私たちは物事を見るときになにがしかのフレームを持っていなくては安心できない。何もない状態で世界を見ることはあまりにもワイルドだ。過酷な状態に身をさらし続けると、披露困憊して十分な行動ができない。

 これはこういうものだという把握を思い込みとみなすのか、掌握のための手段とみなすのかで評価は大きく変わる。思い込みは良くない、でもある程度の固定概念は日常を切り抜けるためには欠かせない。この区別を上手くできないと話は極論になってしまう。思い込みは良くないとだけ言う人はこの点を考えなくてはならない。

 それでは先入観を極力なくし、なおかつ日常生活を成立させるのにはどうすればいいのだろう。まずは自分が無力であることを自覚することが必要なのだろう。自分の価値観が世界の価値観と近いと考えてはならない。自分は世の中の常識と言われている広い分布範囲の周辺部分にいる一つの点に過ぎないことを考えるべきだ。そして、それは私だけではなく、ほとんどの個人は同じ立場なのだ。

 常識とか多数派とかそういう幻想は捨てなくてはならない。私たちは個々人のできる範囲のことしかできない。それを他人から見た粗密の尺度に照らし合わせても得られることは少ない、自分の行動はあくまでも多くある事例の一つであり、それが集団の真ん中にあるのか周辺部にあるのかなどだれにも分からない。

 思い込みをなくし、消化できていないことを冷静に考察し始めることが大切だ。これはこれからの人生観に直結する。人生を豊かにするためにはある程度知らないことは多いほうがいい、