高校時代にどのような授業を受けたのか。残念なことにほとんど忘れてしまった。教員である私としてとても虚しい気がするが、おそらくほとんどの人の記憶はそんなものだろう。それでも印象的に覚えていることがいくつかある。今回は世界史の授業のことを書いておくことにする。
その先生は年配で貫禄があった。授業は毎回、講談のようなドラマティックな話しっぷりで、高座が好きだった変な高校生の私にとっては馴染みやすいものだった。この先生の授業には賛否両論があって話が面白いという好評と、覚えるべき用語が何かについて言及がないのでテストでは役に立たないという悪評だった。他のクラスは用語を穴埋めするプリントを配り、そこに当てはまるように説明していくというありがちな授業で、結局試験に出る用語を効率よく学べるというものだった。
私は今考えても講談調の授業を受けてよかったと思う。歴史は流れとしてあり、因果関係の中で捉えるべきものだ。その流れをいかに言葉にするかが中等教育における歴史学習の要諦だと思うのである。年号や事件名だけを点で覚えても歴史像をつかむことは難しい。
後で思ったことだが、歴史教育は例え教科書があるにしても教員の解釈が深く影響する。何をどう捉え、結びつけるのかは語り手の裁量による。歴史の概念は極論すれば人によって異なる。そのことに気づかせていただいたのも学恩の一つなのである。
昨今のようにすぐ答えを求めがる風潮において、歴史語りをする授業スタイルは排除の対象になるのかもしれない。ただ、目先のテストでは点が取れなくても、時代の全体像を考え、さらに他の解釈の可能性を予測できる授業は人生に必要なものであると考えるのである。