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気温上昇

 今日は昨日と比較して最高気温が8度上昇するという。さらに明後日は真夏日になるかもしれないとの予報もあり、体調管理が欠かせない。毎年この時期に体調を崩しやすい私にとっては要注意だ。

 このところ肌寒さを感じる陽気が続いてきた。それが一気に夏本番を感じさえる天気に急変する。気温上昇の原因は日本上空にあった寒気が移動したことであるという。体調を崩すのは急激な変化が起きるときであり、真夏よりもむしろこういう時期の方が危険だ。

 今年はマスクをつけない夏にしたい。いろいろな屋外行事にも参加したい。そのためには体調管理が肝要だ。

疲労

 このところ疲労感が激しい。恐らくは天候不順のためなのだろう。気晴らしすることが少なくなっていることも関係ありそうだ。考えすぎないこと、なるようにしかならないと思うこと。この精神を再確認することにしよう。

そういう日もある

 今日はちょっとしたトラブルが相次いだ。こういう日はなぜか時々ある。運が悪い日と言えばそれまでたが、なぜか自分が原因ではないのに禍に巻き込まれることはある。

 ただ人のために何ができたなら少しはよかったのではないか。くよくよするべきではない。自分が何か大きな困難に陥る前の警鐘であり、予行演習と考えることにしよう。

自分で書いたのに

 なんでも記録される時代である。そしてデジタル化されたものはなかなか消えない。もちろんこれは存在し続けるということであって、価値が変わらずに続くことではない。だから、存在していてもアクセスしなくなれば実質なくなったのと変わらない。

 自分が過去に書いたものが今でも検索すれば読める。学生時代に書いた多分にエッセイのような論文もいまでも変わることなく読める。その後、いろいろな方がそれを読み、中には引用してくださっている方もいる。申し訳ないが私の論文は間違っていた。部分的に材料として使うならば使えるところもないではないが。

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 その自分で書いた文章を改めて読むと、とても自分が書いたものとは思えない所がある。つまり、書いた意図が思い出せないのである。批判的に若いころの自分の文章を読むことができるのは、すでに書いた自分と今の自分が相当違うからなのだろう。論文を書く仕事を辞めてからはこのように何かに自分の考えを残すという機会がなくなった。ただひたすら毎日を消費するばかりだ。少しは人のためになっていることを願うのだが。

 自分で書いたのに自分の文章とは思えない。こういう経験はこれからもあるのだろう。私は毎日このブログを書いているので、過去の自分にさかのぼることができる。そしてさかのぼるとやはり自分のものとは思えない文章に出会う。人は変わりながら生きているのだ。だからこれを恥じることはない。そう考えることにした。

久しぶりの訪問

 おそらく20年ぶりにかつて暮らしていたところを訪ねた。いろいろなところが変わっていたが、一番の違いはそこに暮らす人々の姿だった。自分がいなくてもその地は風雪に耐え、情勢に対応してきた。それを確認したことだけでもうれしい。

 私にとってその地での暮らしは様々な思い出の重なる場所であり、懐かしくも苦々しくもある場所である。その地に多分の未練を残しながら振り捨ててきた。というより、自分以外の要因で街を出ざるを得なかったのである。だから、そのころの自分のふがいなさを振り返る場所でもある。

 子どものころから転居が多かった私にとって、このような久しぶりの訪問の経験はこれが初めてではない。でも、そのどれもが心が大きく動く経験となっている。この後もこのようなことがあるのだろう。そして、また呟くに違いない。あの頃は若かった。楽しくて辛かったと。そして今まだ生きていることに少し感謝するはずだ。

若葉風邪

 どうも風邪をひいたらしい。コロナウイルスにやられたときよりも軽いが明らかに体調が落ちてしまった。不摂生をしたことをつもりはない。疲労が一気に出てしまったとみている。

 勝手に若葉風邪と命名することにした。今日はとにかく早く休もう。明日からの楽しみのためにおとなしく休むことにする。

満員電車の乗り方

 4月も半ばを過ぎて新年度の生活にもかなり慣れ始めた頃であろう。コロナ制限が解除され、元の生活が戻りつつあるのはうれしいことだ。ただ、困ったことも戻ってきた。満員電車である。

 満員電車はリモートワークが推奨された期間は一時なりを潜めていた。それがリモートでは仕事が捗らないという体験から、徐々になくなり始めた。そして元の過密空間が戻ったのである。

 満員電車に乗るためには降りるまでの行動を予め理解しておくことが必要だ。私のように終点前の駅で降りる場合、特に注意がいる。まずは降りられる位置に立つことだ。

 ドアの前に立ってはならない。乗降の妨害になるし、場合によっては、新たに乗り込む人たちに押されて降りにくい位置に流される。だから、少し入った座席前の吊り革を確保したい。理想的には入り口から2〜3個目がよぃ。可能ならばドアから見て進行方向とは反対の、つまり後ろ側がよい。こうすると停車前のブレーキで慣性の法則と戦わなくてよくなる。

 降りるときは一声、降りますとつぶやくといい。満員電車の乗客には一種の連帯感が生まれやすいので協力してくれる。ただイヤフォンで外界との連絡を絶っていたり、スマホに魂を売り渡している輩には通用しないので、軽く押すしかない。

 この要領を心得ていないと降りたい駅で降りられないこともある。降りられなかったら、正直に上司なり教員なりに事情を話すべきだ。いまの時勢ならは許してくれるはずだ。ただし一度だけであろうが。

 数年分の満員電車未経験者が今は狼狽している。案ずることはない。すぐに馴れる。そして来年の春、満員電車デビューの人たちを哀れむことになる。

Try

新機軸をなすためには現状からの逸脱が欠かせない。安定路線を飛び出すことには危険も伴うし、それを冒す勇気もいる。チャレンジということばはそれにふさわしい。しかし誰もがチャレンジできるほど強靭ではない。私のような臆病者にはチャレンジはかなりハードルが高い行動である。

 その代わりに試しにやってみるというトライの方が今の自分にはふさわしい。失敗することはあってもいい。そしていつでもやり直す。そのくらいの気持ちの方が続けられる気がする。効率は悪いが試行錯誤することに躊躇しない。そういう態度で臨むことにする。

 さまざま毎日の手順についていま再検討をしている。そして無理やり始めたものもある。うまくいくかどうかわからないが、やらないよりはいい。

ツツジ

 躑躅は万葉集にはすでに歌われている。桜の後に続く花は赤や白、その中間色や混ぜ合わせたような彩りまで様々だ。庭木として植えられることが多いので桜より身近だ。花の奥の蜜を吸ったり、花飾りを作って遊んだりした。

 今朝駅の近くに植えられたツツジが一部開花しているのを見つけた。もう少し前から咲いていたはずだが気づかなかったのだろう。一度気がつくとあちこちですでに花の面積を広げつつあることに気づいた。葉桜の後に出番が来たと言っているかのようだ。

 近縁のサツキやシャクナゲなどもこのあとに続くのだろう。花のリレーがどのように展開されるのか楽しみである。

驟雨

 この時期としてはかなり強い雨になった。たまたま折りたたみを潜ましていたために事なきを得たが、突然の強雨に駆け出す人と多くすれ違った。

 私はこの雨の中で何をしているのだろう。そんな根源的な疑問がよぎった。やるべきことは山積している。しかし、何一つできてはいない。年度末にも関わらず、後ろ向きになっている。

 雨はじきに上がるはずだ。それぞれの人生は続き、それなりの美しい弧を描いて飛躍するのだろう。雨などに気圧されてはならない。やるべきことを愚直に続ければ必ず展開がある。