万葉歌人大伴家持は越中国守時代に、収録歌の半数を作っている。わずか5年余りの期間に多くの作品を残したのかについては、さまざまな考えがある。越中の風土との出会いが新鮮であったこと、都の情勢から離れて自由に歌作ができたこと、個人的な人間関係が充実していた期間にあったことなどいろいろと挙げられている。おそらくどれか一つではなく、これらの事情が相乗していたと考えた方がいいだろう。
私はもう一つの要因を付け加えたいと考えている。それは制度的な地方観と現実のあり方との齟齬に創作者としての刺激を得たからではないかというものである。家持は越中の風土をありのままにうたったのかといえば否というしかない。現代でもそうだが、見たままありのままを描写することは難しい。ことばを使って表現する以上、それまでの伝統やことばの決まりに沿って物事をとらえる。また社会制度や時々の常識にも影響を受けるはずだ。
家持が例えば立山を歌うとき、その場所は新川郡だという意識が働く。新川郡の山だから、それに取り合わされるのは新川郡の川であるとして現在の魚津市を流れる片貝川が選ばれている。国府のあった現在の高岡市伏木あたりからも立山は見え、近くには射水川と呼ばれた庄川と小矢部川の合流域があった(現在は河口が分かれている)。今の庄川にあたる雄神川や、おそらく神通川であろう婦負川などもあるのに関わらず、家持がそれらの河川と比べると小さな片貝川を選んだのは、国司として地名を郡ごとに把握するという意識があったからではないかと若いころに考察したことがある。つまり、越中の風景をとらえる際にも官人としての知識の方が先行していたのであろう。
そうした知識上の風景と実際にその地に赴いたときに得た感動との差が創作する力となったのではないかというのが私の付け加えたい考え方だ。制度としての知識ではとらえきれなかった生の感覚が創作意欲につながったのだろう。家持は国守巡行の際、富山県にあたる四郡に加え、当時越中国に含まれていた能登の四郡にも訪れ、すべての郡に関係する歌を残している。その地の風習に関心をもって詠んだ歌がある。砺波郡の雄神川流域ではおとめが川に入って葦附という水生植物を採る姿が詠まれている。また実態はわからないが鳳至郡饒石川での「水占(みなうら)」を歌っている。土地の風習のようなものも現地に赴いて知りえたもので、こうした刺激が鄙の地の歌を残すきっかけになっている。
家持が帰京後に創作が少なくなるのは、不安定な社会情勢もあっただろうが、徐々に完成されつつあった和歌的世界の枠組みの中に浸りすぎて、そこから逸脱するのが難しくなってきたからではないかと考えることもできる。いわゆる絶唱三首と呼ばれる歌はそのような中では個を発揮できた作品かもしれないが、見方を変えれば中国文学的な当時の歌風に飲み込まれている段階ととらえることもできる。また万葉最後の因幡国庁の歌は朔旦立春という暦の知識と結びつき、古今和歌集の巻頭歌と同様に知識が先行している。因幡の地で詠まれたことでようやく新鮮味を保っているが、類型的な歌とも言える。創作にはある程度の齟齬のようなものが必要なのではないか。
万葉集の一歌人の話をしているのだが、このことは普遍化できるかもしれない。私たちは何らかの枠組みがなければ対象をとらえることができないし、目にしても認知できない。でも、それが日常化してしまうとこれも埋没してしまう。枠組みをもちながら、しかもいつもと少し違うものを目にしたとき、感じたときに創作する気持ちが立ち上がるのではないか。そういう感動を得るために私たちは旅をしているのだろう。旅を楽しむためにはガイドブックは必要だが、最後は自分の実感を得る機会を設けることが大切だ。そこに新しい感動が生まれる。作品化できれば創作ができるということになる。