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短波放送

 中学生のころだったと思う。短波放送を受信して聞くことがブームになったことがある。海外の放送局の日本語放送があり、それが聞けたことが一種の自慢の種になっていた。

 中国や韓国、北朝鮮などの放送は簡単に聞けた。アメリカのVOA(ヴォイス・オブ・アメリカ)やラジオ・オーストラリアのワライカワセミの声などは聴けただけでも感動した。モスクワ放送はソ連時代のもので、どこか重苦しい音楽が印象的だった。当時はラジオもアナログでラジオのつまみをほんの少し回すことでチューニングをしており、わずかな調節で聞こえたり聞こえなかったりした。それが楽しみだったと思う。

 私はついに挑戦しなかったが友人の中にはベリカードという受信証明を発行してもらい、それをコレクションしている人もいた。短波は電離層の屈折を利用してかなり遠くの電波を受信することができるが、中波にも夜間には越境が起こりやすいので、国内の遠隔地の放送局に受信証明をしてもらうこともあったようだ。

 いまはインターネットを通したサイマル放送が一般化しているので、このような楽しみはなくなってしまったのかもしれない。ただ、少し余裕ができたらまた短波ラジオでも買って雑音の中から遠隔地から届いた電波を聞き取る楽しみを味わいたいと思っている。

異郷を描くこと

 見ず知らずの場所に行ったときそれをどのように表現すればいいのかとまどうことがある。それまでの経験に照らし合わせ、「~のような」という比喩の表現を使って何とかつかみ取ろうとする。絵もそうだろう、以前描いたなにかのバリエーションとして眼前の対象をとらえて何とか描きとろうとする。当たり前だが初めて見るものをそのまま表現する方法はない。

 以前大伴家持のことを研究していた時、越中国守時代の旺盛な歌作を分析したことがある。そこに読まれる地名やその地の風習と思われるものの描写などを注目した。でも、一方でどこまでも平城の官人としての世界観価値観が感じられ、本当に越中のことを描いているのだろうかと疑問に感じたことがある。たとえば眼前の花を歌っているように見えて、実はそれは奈良でみた似た花の印象を言葉にしているのではないかと。あるいは望郷という感情が越中の風物を題材として語られているのではないかと。

 これは別に万葉歌人だけではない。現代の旅の文学も含めてありのままを描くことは実は困難だ。その人物の持っていた既存のフレームで異郷の風景を修正して描写しているのではないか。西洋に渡った画家たちの描くその地の風景の中にどこか日本を感じてしまうのもそれが原因かもしれないと考えている。

 私は異郷を描くことがそれほど作者の心の営みに影響されているということを確認したいだけだ。これは優劣の問題ではない。芸術作品というものが純粋なデジタルデータと違うのはそこにあり、それこそが芸術の魅力だと思う。

現代の文化の下地になっているもの

 韓国の古典文学の一つ「春香伝」を読んだ。まさに韓流ドラマの原点といえるような内容だ。岩波文庫に収められたものは訳も秀逸である。

 両班の少年が地方で妓生の娘に偶然出会い、たちまち恋に落ちるがまだ無位無官のため、結婚もできずに都に帰る。その娘が春香なのであるが貞節を守り、その後その地に赴任してきた悪徳官人の招集を無視したために怒りに触れて拷問され、命も尽きようかというときに、乞食の姿に身をやつし、実はすでに暗行御史となっていたヒーローが救い出すという実にわかりやすいストーリーだ。

 この話は大変もてはやされたらしく、多くの異伝があり、語り物的な文章も幾多の改変、もしくは増補の繰り返しがあったものと考えられる。中国の古典を踏まえた装飾的な文体、韻を踏んだものづくし的列挙などは語りの後を感じさせる。性愛にかんする過剰な描写が突如現れたり、執拗な拷問の描写などメリハリがあるのも庶民性が残っているからだろうか。

 この展開の在り方は現在の韓国時代劇にもみられることであり、それが先に述べた原点を感じさせるものである。もちろんこのほかにも私が知らない話がたくさんあるのだろう。日本の漫画やアニメ、ライトノベルなどの原型が江戸時代のさまざまな作品に見いだせるのと同様、芸術・芸能・文化にはどこの国でもその下地にあたるものがある。それを知ることで理解できることもあるに違いない。

中身は変わっても

 先日、鶴岡八幡宮に行ったとき、例の境内の銀杏がかなり育ってきていることに気づいた。台風で倒壊したときは歴史の終わりのように感じたが、よく考えてみれば、公暁が隠れた木そのものは、それ以前にも倒れていたのかもしれず、結局そのままのものが残っていたという保証はない。

 法隆寺や薬師寺のように木造建築がそのまま残っている文化遺産もある。ただ、これらの建造物も何度も修復作業を経ていまに至っているという。コンクリートより素材の劣化が遅いことや、部品の組み換えが可能なこと等が長寿の原因だ。

 物質的なものはいつかは亡失する。大切なのはそのものの価値を忘れず、どんな形であれ守り通すという意志を持ち続けることなのだろう。中身は変わっても、価値観は変わらない。そういうものが古典とか伝統とか言われるものなのだ。

 私たちが何を大切にしているのか。それを知ることが歴史学なり民俗学なり、文学なりの目的の一つだ。表面的には激変しているように見えて、その奥にあるものは変わらないといったものはいろいろある。

古典のコラージュ

 『万葉集』のような和歌集の場合、一首ずつが独立して作品世界を持っている。もちろん、それがどのようにできたのか、どのように読まれてきたかのかを知る必要がある。これが伝統的な古典の研究だろう。これは揺るがない。ただ、それぞれの歌の持つ世界観をうまく組み合わせて新しい読み方をすることもできる。それが古典の持つ懐の深さなのだろう。

 時代も場所も全く違う歌を組み合わせて、一連の世界を作り出すことを研究者は間違いだと断ずる。同じ作品に収められているというだけで同じ地平に位置付けるのはおかしいということだろう。そのとおりであると私も思う。ただ、それがあくまで古典研究という枠内のことであって、文学の創作という別の視点を持ち込むと意味が変わってくる。それぞれの作品がもつ背景を巧妙に重ね合わせることで新しい何かが生まれることもある。古い素材をうまく組み合わせると、素晴らしいデザインになるのと似ている。

 和歌や俳句といった短詩形文学はそれをやりやすい。もともとそれらにはより古い作品を取り込んで作るという考え方が内在しているので、他作品と組み合わせることは不自然にはならない。古典文学なり、過去の芸術なりをうまく組み合わせて独自の世界を作り出すことには可能性がある。深い伝統を持っている日本の場合、その資源はかなり多いといえる。

 新しいものを作り出すためには、あえて古いものへの再評価をすることも大事ではないか。いままでも古典をモチーフにした現代の芸術は数多いが、意識的に古典を活用するということをもっと行ってもいい。それで古典作品が傷つくことはないし、むしろ理解が深まる可能性の方が大きい。だから、古典のコラージュとでもいうべきものがもっとあってもいいような気がする。

風景の中に感じ取るもの

 風景の中に人情を感じ取ることは詩人だけの特権ではない。誰でもそれはできるのであって、心の中にしみじみと広がる感慨を覚えるのである。ただ詩人と違ってそれを言葉にできないため、感覚はたちまちのうちに移ろい保存することができない。優れた詩歌に接するとその時浮かんだ瞬間の感覚を再現してくれる。だから感動を覚えることがあるのだろう。

 自然をどのように描くのかは積年の伝統があり、それに則ればある程度は達成できる。しかし、いつでも同じ表現では新鮮味に欠けるだけではなく、その時のほかとは交換不可能な心情を表現することができない。だから詩人は新しい表現に挑戦する。あまりにも的から離れたものであると理解ができないので、この挑戦は必ずしもいつも成功はしない。それが詩作というものなのだろう。

 風景画も同じように見ることができる。ただ光学的に変換して風景を切り取っているだけではない。そこに明らかに画家の解釈が介入し、その中にはしばしば風景にまつわる人生が隠されている。自然を描きながら、実は描いているのは画家自身の心理であり、周囲の人々との交流の中から生まれた心の在り方なのだろう。

 私たちの日常は分かりやすく効率的にという暗黙のルールに支配されている。だから考えなくては何を表現しているのかわからないのは悪例となってしまう。しかし、場合によってはそのような悪を侵さなくては世界をつかむことができなくなってしまうのだろう。その試みに触れることが芸術を見るということだと考えている。難解な作品に出合うたびに、その真意を考えてみる。理解には届かなくても少なくとも考える時間を持つこと。それが貴重な体験となる。

 風景の中に何を読み取るのか。それも私たちが長年行ってきた芸術鑑賞の方法である。田園風景の中に隠れた孤独、都市の景観に隠された狂気、広大な山水、怒涛に何を感じるのか。まずは自分がそれを意識することが大切だ。言葉にできなくても、絵に描けなくてもまずは読み取ることをしてみようと思う。

結果よりエピソードを

 

 オリンピックでも他の試合でもそうだが、私の場合は結果よりそこに至るまでのエピソードの方が気になる。求めているのはいかに試合にたどり着いたかであり、結果はその経過には及ばないと考えてしまう。

 スポーツを見せるときには、このことを考えた方がいい。テクノロジーでよりわかりやすい映像を作成するのはそれはそれで大事だが、選手の内面に迫るエピソードを紹介するともっといい報道になるかもしれない。

 こう考えると私はスポーツに人間らしい何かを見つけ出そうとしているのかもしれない。

盆踊りの意味

  地域の夏祭りに遭遇した。いわゆる盆踊りである。東京音頭に炭坑節、大東京音頭といった新民謡が音源を再生する形で流され、それに和太鼓数台をかぶせて打つという形だ。マツケンサンバⅡも加わっていたのは驚いた。ただしその振り付けは伝統的なもので、最後に両腕を上げる所作がそれらしい。おそらく都下のほとんどの地域が同じようなことをやっているのだろう。地域によっては荻野目洋子のダンシング・ヒーローが踊られるところもあるという。

 京都の松ヶ崎の涌泉寺で題目踊りというものを見たことがある。盆踊りのルーツと呼ばれるもので、南無妙法蓮華経の題目を唱えながら櫓の周りをまわりながら踊る素朴な踊りである。五山送り火の日に行われることからもこれが先祖送りの一連の行事として行われてきたのは確かだ。全国に広まった盆踊りにも基盤に盆行事がある。先祖の霊を迎え、ともに過ごして祭りが終わると祖霊を送る。各家庭でそのような行事が行われなくなったいまでもどこかで継承されている考え方ではないか。

 今年の陰暦7月15日は新暦では8月18日だという。猛暑続きで毎日消耗する日々だが、8月も後半になるとわずかに秋の気配が出てくるはずだ。旧暦で7月は秋の始まり、その最初の満月が中元として盂蘭盆会の行事がおこなれる日となっている。日本ではわかりやすくひと月遅らせて新暦8月15日を盆とする地域が多い。盆は多くの日本人が夏休みを取得する日であることから、里帰りした地方出身者が郷土に集う日でもある。その中で行われる盆踊りは、祖先とともに子孫たちがともに踊る晴れの日と考えられたのだろう。

 東京では盆の時期を少しずらして行われることが多い。帰省のシーズンを避けて参加者が増えることを期待したものだろう。祖霊信仰は弱いが、希薄になりがちな地域の精神的連帯を促すきっかけにはなっている。

 海外でも盆踊りのようなものが行われているところがある。マレーシアでは仏教由来の行事であるとして参加を自粛するようにとの声があったのにもかかわらず、多くの人が行事に参加した。日本のような多神教の国では宗教的制約はさほど問題にはならないが、イスラーム教徒にとっては障害を乗り越える必要がある。宗教性よりも行事のもつパワーの方が勝ったということなのだろう。

 盆踊りの本来の意味を忘れるなという人もいれば、時代とともに移り行く行事の役割を容認すべきだという声ものある。日本文化の歴史からいえばおそらく後者の考えで今後も形を変えて続いていくのだろう。マツケンサンバやダンシング・ヒーローで驚いてはいけない。なんでも取り入れ、そして時代に合わせて変えていく。それがこの国のあり方なのだから。

ご主人のためなら

 主君のために命を惜しまないというのは美徳として語られる。心情的には忠義の精神には感動することが多い。でもよく考えてみると、主従関係が自らの人生にまでかかわるのは異常ともいえる。なぜ、主のために自己犠牲ができるのか。

 社会を大きな家族として考え、年長者を敬い、主人に真心を尽くすという儒教的概念は日本文化の底流にある。この考え方では個人の生き方より、社会として組織が成立することを重んじる。だから、主の考え方に家来が従うのは当たり前であり、そこに疑問はない。そういう思想的背景があるのだといえる。

 日本人に限って言えば、島国のなかのさらに小さく分断された村の中の限られた人々のなかで人生の大半を過ごすために、そのなかで対立することなく調和して生きることが選択されてきたといえる。そのためには個々人の利益より村社会全体の存続が重視され、その中で出来上がった組織が絶対化されたのであろう。

 こうした社会風土では個々人の意思決定の機会は限られ、むしろ何をするのかを勝手に決めないことの方がよしとされる。個人は精神的に他者と融和することが求められ、結果として自分では何も決められない民衆が発生することになる。この状態は現代の私たちにとって耐えがたい社会の在り方だが、案外、近代以前の人々にとってはすんなりと受け入れられていたのかもしれない。だから苛烈と思われる時代でも反乱がおきずにかなり長い期間継続することもあった。

 日本の軍記物などを読むと個々人の個性はあっても、生死を分ける場面となると非常に単純化してしまうように思う。勝敗を分けるのは戦力の優劣があるが、それと同じくらい主君の感情の在り方が左右する。どんなに優勢でも主人の気持ちが曇るとそれが瞬く間に臣下、軍勢に影響し、大逆転を許してしまう。組織の構成員の精神状態がリーダーの感情に同期してしまうのだ。近代的な個の誕生以前の人心の動きというのはそのようなものであったのだろう。

 現代社会でもこのような現象が生まれつつあるのかもしれない。いわゆるインフルエンサーと呼ばれる人の言動を無批判に受け入れてしまう。これはもしかしたら、前近代的なものの考え方が復活しているのではないかとも思えてしまうのである。リーダーとなる人がいわゆる聖人であれば問題は起きないかもしれないが、利己的な考えを持つ人が影響力を獲得したときの悪影響は計り知れないものがある。

 

注文出版

 書籍の流通において新しい方法が広まりつつある。PODと呼ばれるもので、注文を受けて印刷し製本して販売するというものだ。プリント・オン・デマンドの略で、不良在庫を出さないため結果としてコスト安になるのだという。

 絶版になった本はなかなか手に入らない。それらをもちろん電子書籍化して再販する方法もあるが、やはり紙面で読みたいというものも多い。特に古典的な作品は電子書籍としてよりも紙面として読みたい。自由に書き込んだり、メモを付けたりしたいものである。こういう場合にPODは役に立つ。

 昔からお世話になっている平凡社の「東洋文庫」でもこのPODサービスが始まるそうだ。古書店では何倍もの値がついていたり、そもそも入手困難な作品も多いので注文すれば手に入るというこのサービスは有益である。ただし、本の仕上がりはおそらくソフトカバーになりオリジナルとはかなり異なるものだろう。こういうこだわりがある人は古書店巡りを続けなくてはならない。

 いろいろな形で書籍が展開されていくことは大切だ。書籍流通の場面で販売会社が大きな役割を占めている日本の出版界にとっては大きな革命にもなるだろうが、良書にアクセスできる手段となるならば大いに注目をしていきたいと思う。