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ストーリーの中で覚える

 何かを覚えさせるとき、意味のないバラバラの情報として与えるよりも、他との関連性を意識させた方がうまくいく。結果として覚える量は増えたとしても意味のつながりがあると覚えやすい。そしてできれば自分の経験に引き付け、自分の言葉として語れるようになればより確実性が上がる。

 これは多くの人が指摘していることであり、目新しさはない。大事なのはどのように実践させるかである。すぐに思いつくのは点の情報を結びつけるストーリーを作らせることだ。バラバラに見えるものに因果関係をもたせ、背景を補足することでいきいきとした情報にする。作った話を他人に話してもらうのもいい。これを繰り返し自分の言葉にできるようにしていく。

 受験生だったとき、世界史の知識は講談のような話を作って覚えた。「秦の始皇帝の栄光と没落」とか「ナポレオン物語」とかだ。今思い返せばかなり怪しいものだが、西暦何年なにがあったと覚えるより遥かに繋がりがわかる。

 いまは国語を教える身の上だが、例えば古典文学は話のパターンを意識して覚えさせる。たとえば歌物語なら、いろいろなことが起きるがそれらは和歌を詠むことで一気に進展する。説明を重ねなくてはならないことも1首の和歌で全て解決するという事が多い。これはもともと物語であるが、文法や単語を覚えること以上に大切な知識だと思う。そして単語や文法もストーリーとともに理解すれば「あやし」とか「あからさまなり」「さへ」「さて」といった多義語や現代とは意味がずれている古文単語も覚えることができる。

 なにかを覚えるときは最低限の情報だけ取り上げるのではなく、あえて周辺の関連事項を取り込んで情報量を増やしたほうが効率的に覚えられる。来年度の授業ではこれをクラスの生徒全員にやってもらうことを目標にしたい。

詩の授業

 中学時代の国語の授業で何をやったのか、実はほとんど覚えていない。教材の名前が上がればそのことは思い出してもどんな内容だったのかは忘却の彼方にある。だから、私が教えたことをいつまでも忘れるなとは人には言えない。

 ただ一つ印象的だったのは詩の授業だった。詩は声に出して読まなければ本当の良さは分からない。そういう説明を受けたあと、ひたすら音読、朗読をさせられた。随分変わった授業だと思った。その頃の私は素直であったから、こんなことをして何になる。時間の無駄だなどとはつゆ思わず。級友と声を合わせることを素朴に楽しんでいた。

 いまになって考えるのだが、韻文の楽しみはこれがきっかけに始まったのかもしれない。いまでも駄作を作り続けているのはこのときに詩歌の価値を気づかせてくれたからかもしれない。



 その師はすでに天に召され、授業の目的は何だったのかを教えていただくことはできない。ただ、いまの私には何一つ心に残す授業はできていないと考えるばかりだ。

教育方法の一工夫

 この時期になると、年度の自分の教育に対する反省をすることにしている。成績の上位者に対する対策ばかりを管理職は気にするが、私はこの方面には実は関心がない。成績のいい生徒は誰が教えてもうまくやる。学習の仕方が分かっているのだ。むしろ、教員が勝手にやり方を変えることで調子を落とすことさえある。

 関心の中心は学習の習慣が定着せず、成績が実力以下になっている生徒である。彼かの中にも様々なタイプがあり、一概には言えない。ただ、ある程度やる気はあるのにテストで点が取れずに挫折してしまうといった生徒には手を差し伸べたい。

 今考えている方法はいくつかあるが、1つは時間の管理である。同じ学習を30分以上続けないようにさせる。ストップウオッチなどで計時して30分で途中でもやめさせ、別のことをさせる。これは集中力を高めるためのルーティンとしたい。恐らく脳が強い関心を示せる時間がそれくらいなのだろう。

 教えるときも20分くらいを目安にして、話題を変えていきたい。これは授業で直ぐにできるはずだ。

 今年の実践でうまく行ったと思うのは問題を作る授業だ。いわゆる現代文の設問を生徒に作らせた。すると解き方が逆に分かる。どんなふうに問題ができているのかが分かれば、何を求めているのかも分かる。

 他にもいろいろなアイデアがある。来年度は少し余裕ができるので教え方の工夫を進めたい。うまく行ったらご紹介する。

表現の多様性

 表現の多様性は生活の質を上げるためにも不可欠である。言語による表現は我々の思考と行動の全てに影響を与える。実際には連続的でしかも不定形の世界を言葉はあたかも定形のピースが存在するかのように世界を切り分ける。これは多くの言語学者が述べていることなので改めて言うまでもない。

 使える言葉が少ないと世界の切り取り方は雑なものになる。現代社会は大量生産にとって物が増え、さらにインターネットなどの情報サービスの発展により、物質を超えた情報が重視されている。なんでも機械が処理するせいか、人間が使う言葉の方は貧弱になっており、使える言葉の数が減少しているかのようである。極端にプラスかマイナスしか表現できない。評価の種類が少なく、判断者の意図が正確に伝えられない。

 言葉の数を適度に増やすことは意識して行うべきことだろう。教育の担当者はこの点に十分に配慮すべきだ。そして、個々の学習者が言葉に対する好奇心を持ち続けることが必要なのだ。

ボロボロになるまで参考書を使い倒す

 はるか昔のことになるが、受験生のころはこれさえやればなんとかなるという根拠不明の言い伝えがあった。英語の場合はいわゆる「出る単」(試験に出る英単語)をやればいい、国語は『新釈現代文』と『古文研究法』、世界史・日本史は山川出版社の一連の参考書をとにかく初めから終わりまで解きとおすこと、できれば二回以上やるといいなどと言われていた。私はそれを妄信して学習をしていた。時代は変わり、別の書籍に置き換えられたかもしれないが、基本的にこの考え方はいまでもある程度支持されているようだ。

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 参考書を一つに絞り、それを繰り返し読むことは今考えても合理的であり効果的と考える。評判のいい参考書や問題集を複数買っても、結局途中で放棄してしまうのなら意味はない。ある程度評価されているものを見つけてそれを徹底的に習得した方が成功する可能性が高いのである。受験勉強のような決められた範囲内での知識を問う学習にとって大切なのは定着させることであり、網羅的にあれこれ手を出すより、これと決めたものを繰り返した方がいいのだ。

 受験生のときはとにかくそういうものだと思い込もうとしてしていた。どれだけ参考書を手択本にするかが成功のカギと信じていた。今のように情報がすぐに取り出せ、さまざまなメディアを通して学習できる時代はかえって迷ってしまう。参考書にしてもいろいろなレビューを見ているうちに迷いが出て学習に踏み出せない。ただ、私たちの頭はデジタルのデータベースとはやはり異なるインプットする情報量をただ増やすだけではなく、何かに絞って繰り返す。割り切ったぶんだけ集中するという方法が大事なのだ。

 受験生のときはできたのに、いつの間にかこの基本を忘れていた。最近、このことを思い出しやはりボロボロになるまで参考書・問題集を使い倒すことを目標にするようになった。受験勉強の大半には問題が内在していると感じるが、こうした基本的な方法は見直さなくてはならない。

読解力向上の実感無し

 国際経済協力機構の実施する国際学習到達度調査で、日本の生徒の読解力が向上したとのニュースがあつた。これだけ読むと祝福すべきだろうが、現場の教員からすると大いなる疑問をもつ。ここでいう読解力とは何を意味するのだろう。

 短い時間の中で与えられた設問に解答する力を読解力というのなら、ある程度の教育の成果はあるのかもしれない。特にデジタルデバイスを活用して検索した内容を自分なりに纏める力は少し前の世代と比べて格段に向上している。

 でも、情報処理以上の読解となると覚束ない。検索可能なものを越え、思考と経験を積み合わせる行いは苦手のようだ。いまの世代には直接的な体験が欠けている。情報としては接していても実物を見たことがないのである。例えば昆虫なり、岩石なり手にしたことがあれば、そこから得られる刺激がある。それがないから、モンシロチョウの羽化も木星の衛星の運行も同じレベルで遠い存在なのだ。

 だから子どもの読解力が向上したと言われると疑問符しか思い浮かばない。むしろ、低下しているというのが私の実感である。

 小手先の読解力を上げるより、思考とは何かを考えたほうがいい。イノベーションはそういう体験の積み重ねなしには生まれない気がする。

心内語の能力

 心の中で思うことを言葉にするのが心内語である。この能力は当たり前に備わっているもののように思えるがそうではあるまい。例えば本を声を出さず読む黙読という読み方が我が国に定着したのは明治時代の後半であるという。江戸時代から貸本などの個人的読書の機会があったのにも関わらず、黙って読むことはできなかったようだ。

 黙読するためには読んだ言葉を自分の言葉に変えて、それを解釈しなくてはならない。かなり高次元の脳内活動がなされていることになる。語彙力や文法に関する知識などは別に獲得しておく必要がある。だから、予想以上に高度な技能である。

 発達障害で黙読ができない人もいる。難読症といわれる人は一定数おり、彼らの知的レベルは必ずしも低くはない。ただ、文字を見るだけでは理解ができないので音読が不可欠になる。

 心内語の未発達は独り言の多さにも表れる。独り言をいうのは誰にでもあることだが、度を過ごしている場合は何らかの障害が疑われる。よく電車に乗っているとやたらに独り言を言う人がいる。恐らくその人にとっては自然に過ごしているはずだ。独り言を話している意識もない可能性が高い。周りにいる人はその人の心の中の声が聞こえてしまっているのだ。

 心の中で言葉をもつことは実はかなり高度な行為なのだった。それは後天的に習得しなくてはならないものなのかもしれない。その力は小学校や中等教育で身につく。この時期に黙読力を身に付けなくては生涯の損失になる。読書を阻害するデジタルデバイスはその意味でもほどほどにしなくてはならない。

自分を追い込めるか

 必要がないものを学ぶことはない。学んでも効率が落ちる。逆に知らなければ死活的な困難に陥るとなれば、必死に学ぶ。学びとは基本的にそのようなものであろう。

 日本人がいつまで経っても英語力の国際的順位が低いのは、英語を使わなくても高水準の生活が送れるからだ。仮に英語ができれば給料が倍になるとか、話せないと全く昇給しないということになれば話は変わる。日本語なまりなど気にせずに英語を使うことになる。

 学習にはこうした必要に迫られるという局面が欠かせない。英語だけではない。数学にしても、ファイナンスの知識にしても切羽詰まれば飛躍的な学びが期待できる。ただ、他人からそのような境遇を強要されることはよろしくない。自らを背水の陣に追い込むような心の持ち方ができるのか。それが学習者としての資質になる。

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間を置くこと

 演劇の世界では台詞をいかに観客に届けるのかということに拘る。一つには声量を大きくして、滑舌よく話すこと。これが最低条件だ。ただそれだけではない。あえて何も発しないことも大切な表現手段とされている。

 何かを伝えるときに一本調子だと聞き手は次第に刺激を失う。熱心な聞き手ならそれで構わないが、多くの場合、聞き手は気まぐれでわがままだ。彼らの耳目を集めるには工夫がいる。その方法としてマイナスのメッセージがある。つまり何も発しないことによって注目させるという手法だ。

 これはうまくやらないと失敗する。情報を発しないのは空白を作ることだ。それに耐えるのは発信者にとっては忍耐がいる。間を置くと一言ではいうがさほど簡単ではない。一度コツを覚えるとこれが効果的な情報伝達法であることを知る。若者にはこの経験を持たせたい。

 そのためには演劇を体験させることが必要なのかもしれない。学校で演劇をさせることは以前からその意義が語られている。それなりの指導ができる教育者もいる。

難読漢字

 ネットのニュースサイトの読み物記事に難読漢字の読み方というのがある。外来語や外国の地名に対するあて漢字はそれとして、「質す」「亘る」「覆う」「躓く」「跪く」などの訓読みはクイズとしては難問に入るようだ。

 中にはほとんど使わない当て字の問題もあるが、かつての日本人であればほとんどが読めたはずの文字が現代では難読になっている。それにはかつての活字文化ではルビ(読み仮名)つきでこれらの語が印刷されていたため、知らないうちに読みを覚えてしまうということがあったのだ。デジタル表記でもルビを打つことはできるが、それほど一般的ではない。

 もう一つの理由が漢文の素養の低下なのだろう。漢文は高校時代に学習し、大学入試で読む以外には接することがなくなりつつある。中国の古典に対する知識も庶民レベルで低下している。「三国志」や「水滸伝」などに接していれば、漢字文化への親和性は保たれていた。

 漢字は同音異義語が多い日本語にとって、意味のニュアンスをかき分けるツールになる。知っておいて損はない。ただ、スクリーンに文字を読み書きする毎日のなかでは習得できる機会は減っている。