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学ぶ楽しさを覚え続けるには

 学ぶことの喜びを忘れつつある気がする。何でも検索すれば、もしくはAIに尋ねれば、すぐに答えが出てくる時代において、何かを根気よく学ぶことの意味が分からなくなって来ている気がするのである。

 かくいう私のことを考えてみても、語学であれ、その他の技能であれ、かつてはそれなりに関心があり、独学ながらある程度までは習得できていた。それがいまは何というか、そういうことに時間を使うこと自体が億劫に感じられるようになっている。

 本当は学ぶことは自分の進化なり発展なりを考える機会として感じるもののはずだ。それがいまは苦行のようにしか感じられないのは何とも残念でならない。

遠藤周作の母親像

 昨日行われた共通テストの「国語」は相変わらず、短時間で多くの問題を解く、反射神経と脳の若さを前提とした出題であった。昨年に比べると問3の実用文と、問4の古文が難しく感じられた。もっとも問3のような問題は解きなれていないということが主因であると考えられる。時間をかけずにいろいろな資料の要点をさっとつかみ取る力が試されている。これは人工知能の仕事のように思われるのだが。

 第2問は遠藤周作の小説からの出題であった。没後発見された遺稿とのことで、古い価値観のなかで自らの生き方を貫くことを拒まれた母親の姿を描いている。自伝的な小説ということだ。遠藤周作の作品の中に登場する弱さを受け入れ、罰することなく、寄り添っていくという母親像の原点はここにあったことを感じさせる作品だ。受験生の多くは遠藤作品を読んだことがないはずだ。社会から強いられる女性の生き方をどのように受け取ったのか気になる。

 社会でも女性の生き方についての問題が出題されたという。これはもしかして高市首相誕生効果なのかなどと勘ぐってしまう。女性の生き方はかなり変わったものの、いまださまざまな問題がある。そのことの問いかけならば受験生にとって意味がある。

新機軸

 知識は学習の蓄積からなる。それは疑いようもない事実だ。この点に関しては人工知能が人間の先に行きつつある。これまで人工知能に対して未熟であると否定的に捉えてきたが、この方面では考えを改めなくてはならないと考え始めている。

 今日Microsoftのコパイロットと連句を巻いてみた。式目に沿って付句をしてくるのを見て、少なからず驚いた。確かに感情はないが、過去の多くの人たちがどのように反応するのかという傾向は瞬時に分析し、即座に言葉に変換してくるので文学を理解しているかのように振る舞ってくるのだ。現代人の類型的な思考回路などすぐに克服してしまう可能性が高い。

 ならばこれから人間がやることは何か。思うにこれまでにない考え方を敢えて試してみるという勇気を出すことであろう。しかし、こうしたやり方はこれまでの社会通念とは乖離している。なるべく失敗しないように、過去の成功例を参考にしてそこから逸脱しないことが、いわゆる必勝法と信じられているからである。

 私のように教育の現場に長く暮らしたものとしては、いわゆる「常識」を完全に習得し、そこから大きく逸脱しないようにさせることが人間形成の基本と考えてきた。突飛な考え方は矯めるべきものであり、それが本人のためになると信じてきた。

 でもどうだろう、過去の蓄積だけでいまを考えて行くことは人工知能に凌駕されてしまった。必要なのは学習の果てに起きる飛躍だ。その振れ幅をこそ大切にすべきなのである。いまの我が国の社会にこうした考え方を持つ人は少数派だ。かくいう私も言うは易し、されど本当にそんな場面を見れば、ついそれは違うと口出ししてしまうかもしれない。

 もしかしたら奇妙な考え方、奇怪な行動が真実なのかもしれないという寛大な見方が必要なのだろう。そのためには過去の知識の価値を認めながらも、後生の示した新機軸も認める必要がある。多様な方法のうち、本当に通用するものが生き残り、それが時代を進める。その可能性を高齢世代が奪ってはならないのだ。

 最近の若いものは、と言うのが非難の言葉だけにならないようになればいい。青二才がこんなふうにやってみたぞと言えば、それもありかもなとするのか、はなから否定するのかでは未来は大きく変わる。

聴き方再考

 若い世代の基礎学力が低下しているかもしれないという意見は方々で耳にする。個人的な偏見はあるに違いないがある意味では真実に近いのかもしれない。その原因の一つが情報認知の方法が変わったことにあるという。

 かつては知るものと知らざるものの差は歴然としていた。情報源に接する機会を得られるのか、得た情報を解釈できるのか、その見解を他者に共有する手段はあるのか。様々な段階において格差があり、それ故に受容については相当の緊張感が伴っていた。言ってみればかなりの緊張感を持って対象に接していた。それがいまではネット検索でいつでもアクセスできると思っている人が増え、さらに生成AIがより簡単に答えを出してくれるものと信じている。その結果、聴くことに対するのめり込みはかなり薄っぺらいものになってしまった。

 他人のことを批判するより、自分のことを考えてみたい。講演などを聴講するときに大切なのは結論だけではない。結論は著書などを読めば書いてあるし、話を聴きに行く時点で大体どんな立場の人物なのかは知っている。聴きたいことの中心はその結論に至る思考の行程であり、背景となった環境だ。「どんな」より「どのように」が知りたい。それも著作に整理して書かれたことより、論理的な飛躍はあってもその糧となったものごとを窺い知りたいのである。思考の過程を知ることはその人の出した結論を本当に理解するために欠かせない。

 そのためにメモを取るならば取り方も変わる。思考の過程に注目し、ちょっとした小話を聞き逃さないようにする。事実の羅列はそれこそネット検索でもできるのかもしれない。しかし、本人の口吻から図らずも伝わってくる思考の理解の本当の糸口があるかもしれないのである。

 

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感動の下地

 あくまで私の話だが、何かに感動するときにはそれを自分事として考えられるときであると思う。自分だったらどうするだろうという思いが浮かんだときに、感動のスイッチが入り始める。もちろん、それだけではないはずだ。でも、これまで感動したことを思い浮かべてみると、そこには常に自己との比較があるようだ。

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 こうした事例から考えると、私たちが感動するためには自己の経験の豊富さが関与してくるともいえる。自分事と考えるためには、類似する経験を持っていることの意味は大きい。さまざま経験を積むだけ、他者の行うこととの比較ができやすくなる。そこに発見があり、感激が生まれる。だから、芸術でも学術でも何かに感動するためには、自分側の経験の豊富さが大きくかかわってくるといえる。

 その点で現代人が直接何かを経験することが減り、メディアを通して情報を表面的に知ったり、あるいは仮想的な空間で擬似経験しかしていない例が増えていることには問題があると考えれられないか。知っているつもりで実は知らないということは多い。分かっているといいながら自分がその立場に立ったことがなければ本当の理解は進まない。

 もちろんすべての経験を個人が得ることは不可能である。例えば宇宙空間での作業は、ごく限られた人物しか経験できない。しかし、たとえば孤独の中で何かをやり遂げるとか、全く情報が遮断された状況で手探りで何とかやるべきことをやり終えたとか、そういう経験でも推測するのには役に立つ。そうした基本的な経験による学びは子どものころからいろいろなことを通して獲得してきたものであり、中には幼い遊びのなかにその萌芽があるものもある。

 子どもに多くの経験を積ませることはその意味で非常に大切である。座学ももちろん大切であるが、いろいろな現場に立ち会わせることも教育の大切な側面と言える。感動する心が進歩を生み出す。次のものを作り出すためにも、まずは感動できる下地を作っておくことが必要ではないか。

教師の人を見る目は当てにならない、でも、

小学校の時に受けた知能テストであまりいい点数ではなかったようで、担任が親にあなたの子供は問題があるといった意味のことを言ったようだ。転校したばかりで消極的になっていた当時の私を親としても心配していたようだが、その担任の言葉に大いに憤慨したようで、私にも先生を見返してやりなさいというようなことを言っていたことを覚えている。

 私は自分で言うのもなんだが努力型のタイプで才能がきらめくという人材ではない。何度も失敗してそれをなんとか克服していくという次第で、再度知能テストをやっても顕著な結果は望めまい。ただ人がとうに飽きた頃にまだやっているという経験を繰り返しているうちに、なんとなく頭角を表したように見えるだけなのだ。

 だから当時の小学校の担任を私は恨んではいない。多くの教師がそうであるように、そしていま自分も教師になって分かるように、人を見る目がなかっただけなのだ。少なくとも保護者にあなたの子はおかしいという神経は過去のものとしなくてはならない。それがこの先生から教えていただいた重要事だ。この記事を読んで思い当たる教師がいたら、いますぐ考え直していただきたい。あなたの人を見る目は間違っている可能性があることを忘れないでいただきたい。

 人の将来は誰にも分からない。最近はデータベースに照らし合わせて、ある傾向を提示してそれが事実のように述べる人が多いが、彼らのいう外れ値があるのが現実の人生というものだ。教員であるなら、その例外的なデータこそ指導の目標とすべきなのだ。君は確かに偏差値幾つというデータを出し、この成績ならばこういう進路の可能性が大きい。でもね、それはあくまで可能性であって君の運命ではないんだ。そういうふうに、心から言える教員がほしい。

 彼らの多くは現実の厳しさに打ちのめされるはずだ。ときには本人やその家族から詐欺まがいの非難を浴びるかもしれない。確率的には統計学上の結果になることがはるかに多いのだから。

 でも、コンピュータがこのような確率であなたの未来を予測しているから、あなたはこのように生きなさい、というのはもはや教師でもなんでもない。単なるコンピュータのオペレーターだ。一面的な測定すぎないテストの結果に囚われ過ぎず、あくまで本人のやりたいことを刺激して、結果として未知の才能を導き出すのが指導者なのではないだろうか。この役割こそが人工知能に代替されない教員の仕事だと考えているのである。

説明しよう

先日読み終えた本に気になる表現があった。私の感覚では「なぜなら」という接続詞を使うところで、ことごとく「説明しよう」という表現が使われているのだ。これはある種の語りでよく使われる表現で、不可思議な現象を後付けで有意義にするときに多用されたものである。私の世代では納得するというより、そうきたかという設定の妙を感じさせる言葉だ。




 説明することは自分の言動を理論化することに役立つ。単なる一過的な思いつきではなく、確固たる意見なのだと披露することが説明の本義だ。説明することによって自らの意見の価値が確認できるし、他者を説得することができる。また批判を受けてより良い意見に修正できるきっかけとなる。

 だから「説明しよう」を日常的に多用することは悪いことではない。他者の賛同が得られるか否かは分からない。でも、そのための努力をすることは自分自身にとってもかなり意味があることだ。

 最近はこの説明する努力が軽んじられている。人工知能がもっともらしい説明をしてくれるので、それ以上の可能性を考えることをはなからしなくなっている。「説明」よりも「結果」が優先すると考えられているからかもかもしれない。

それならば私は若い世代に「説明しよう」を流行り言葉にすることを提案したい。自分の考えを他者に認めてもらうことは容易ではない。それによって自らの考えが深まり、他者の批判が強度を高める契機になるのならば、無駄な努力などではないのだから。

反知性主義は日本でも起こり得る

 トランプ大統領がハーバード大学に対して規制しようとしている動きが報じられている。高等教育機関と政治権力の関係を改めて考えるきっかけになっている。

 トランプ大統領の支持層は白人労働者階級が中心という。大学卒業のエリートではなく、その配下として雇用される人々だ。大学卒業者の中には私腹を肥やすことにだけ関心のある人たちもいて、彼らの下で働くものたちが抱える不満や怨嗟は水面下にあるものを含めれば相当なものである。

 エリートの負の局面を論えば果てがない。しかし、世界の難題を切り拓いてきたのもこの層の人が多く、教養が社会秩序の維持に貢献することも多い。彼らの活躍は国家として、あるいは世界平和のために欠かせないという一面もある。

 知的権威の功罪のマイナス面が強調され、権力者の手によって弾圧が始まると社会は一挙に息苦しくなる。権力側の知性は引き伸ばされ、対立する考え方は悪の象徴にたとえられる。アメリカで起きていることはその事態の始まりなのではないかと危惧されるのだ。

 これは我が国でもいつでも起こり得る。学問、教養に対する疑念はまず効率性という言葉で説かれる。役に立たないことを学んで何になるのか。歴史や古典を学ぶより、プログラミングだ、フィンテックだと言い出す。彼らはこうした言動が反知性主義の扉を開くことに気づいていない。意図的なら独裁者候補になれる可能性がある。

 学ぶことの意味を利己的、功利的にのみ捉える風潮が拡大すれば日本は一気におかしくなる。その兆しがあることに多くの人は気づいているはずだ。ここで歯止めをかける必要がある。

推敲の意味を教える

 漢文で教える「推敲」の故事を覚えているだろうか。科挙のために上京した賈島なる人物が詩作の過程で「推」か「敲」のどちらの文字を使うのがよいか悩む中で韓愈の行列を遮ってしまう無礼を働いたが、韓愈は詳細を訪ねて詩について論じ合ったというあの話である。大体、この授業はここで終わるのだが、本当に考えなくてはならないのは「推敲」することの面白さ、楽しさ、そして重要さだろう。

 推敲することは自分の文章を見つめ直し、より高いレベルのものに仕立て上げる試みである。それによってそれまで以上の効果が現れたり、自分が期待した以上の何かが表現できたりする。最初の時点では思いもつかなかったことが実現できたりするのだからとても意味がある行いと言えるのである。

 現在は完成の速度を求められ、さらに生成AIなどに任せてしまうと推敲することの意味を感じにくい。それ以前に推敲という行為そのものをする機会がなくなってしまっているように思う。推敲の意義は意識的に教えなくてはならない段階にとっくに入っている。

 作家の草稿を見ると著しい推敲の跡がみられる。中には書き込みが多すぎて読むこと自体が大変になっているものもある。現在はコンピュータで入力するから、推敲の形跡が可視化されることは少ない。また最終版が最善版であるという発展思考型の考え方では、制作途中の行程には関心はいかないのかもしれない。つまり「推敲」という行為の意味が分かりにくくなっている。

 私自身も文章を原稿用紙に向かって書く機会がどんどん減っている。でも実はこれはとても残念なことなのかもしれない。このブログはデジタル入力だが、本当に言いたいこと(このブログがそうではないというのではないが)手書きで残した方がいいと思っている。

新しいものの考え方が生まれれば

 これからの時代はいわゆる自己責任の競争世界ではうまくいかないのかもしれない。漠然とそう考えている。個々人が切磋琢磨して自由競争を生き残るというやり方はこれまでの資本主義社会の理想であった。でも、ここまでグローバリズムが進み、高度情報社会になってしまうと、少しのことでは競争の勝者にはなれない。町で一番の人が、県で一番になる確率も低いが、それが国家レベルになり、世界レベルになると勝てるのはごく少数であり、大量の敗者ができてしまう。

 それでは皆で一定の幸福感を得るためにはどうすればいいのか。まずは才能ある人の挑戦を促進し、その足を引っ張らないことだ。成功者は自分が成功した背景に自分の才能だけがあるのではなく、社会的な様々な要因が手助けになっていることを自覚できるようにするべきなのだろう。成功したものはその利益の一部を地域、世界に還元することが当たり前のように考えられるようにすべきだ。

 こういう理想論を述べると実現不可能という批判が当然出てくる。自分ができないことができる人がいれば妬ましく思うのが人情だし、成功者はそれが自分だけの力と過信して富を独占しようとする。こういうこれまでの人間の心理をどのように克服するのか。それが教育の力なのかもしれない。また個人の力が、集団の力に寄与し、それが新たな世界を切り開くという史観も何らかの形で共有しなければならないのだろう。

 教育の力と述べたが、それは学校だけで行われるのではない。日常の会話の中でもそういう精神を口にする人が増えれば社会が変わる。文学が発生源になるか、いわゆるインフルエンサーと呼ばれる人の中から出てくるのか分からない。それがうまくいったときに人間の歴史は次の段階に進むのだろう。個々人の利益を奪い合う今日の現状が続けば、いずれは破滅につながるのかもしれない。