タグ: 学習

自分を追い込めるか

 必要がないものを学ぶことはない。学んでも効率が落ちる。逆に知らなければ死活的な困難に陥るとなれば、必死に学ぶ。学びとは基本的にそのようなものであろう。

 日本人がいつまで経っても英語力の国際的順位が低いのは、英語を使わなくても高水準の生活が送れるからだ。仮に英語ができれば給料が倍になるとか、話せないと全く昇給しないということになれば話は変わる。日本語なまりなど気にせずに英語を使うことになる。

 学習にはこうした必要に迫られるという局面が欠かせない。英語だけではない。数学にしても、ファイナンスの知識にしても切羽詰まれば飛躍的な学びが期待できる。ただ、他人からそのような境遇を強要されることはよろしくない。自らを背水の陣に追い込むような心の持ち方ができるのか。それが学習者としての資質になる。

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写経という学び

 中世の学僧が残した写経の展示を見てきた。写経が歴史の中では重要な修行となっており、多くの写経僧が存在したことは承知していたが、実際の文書を見るとその情念の深さが伝わってきた。

 写経のようにノートをとるなとはよく言われる。これは黒板の文字をただ写すだけでは学習効果は上がらないという意味だ。ただこれは本来の写経の意味を取り違えている。

 写経は経典をただ書き写す行為ではなさそうだ。写しながら学びとるものがたくさんあったのだ。写経を通して仏教の教えを体得するのだ。その意味で写経は決して受動的な行為ではない。

 現代でも写経に心の安定とか鎮静を意図して行うことがあるという。決して単なる書き写しではないなにかを感じているのだ。

思考を乗っ取られないように

 生成型AIのもたらす弊害がしばしば話題に上がっている。簡単な指示だけで文章やプログラミングができてしまうAIは道具として使うのならば便利だ。ただ、人工知能として使うならば、つまり人間の思考の代替として使うならば危険を伴う。

 最近の大学生はパソコンが使えないという。もちろん、全てではなくそういう人が目立つということなのだが、頻繁に耳にすることから、少数派という訳でもなさそうだ。パソコンが使えないのはスマホがあるからだ。私の世代にとってはスマートフォンはパソコンがないときの代用品に過ぎないが、若い世代にとっては何でも一応できるスマホがあるのに何でわざわざパソコンを使う必要があるのかと思うのだろう。使えないのではなくそもそも持っていない人も増えている。技能不足の問題ではない。

自分で考えよう

 AIがその問題をより深刻にしそうだ。すでに複雑なオフィスソフトを習得するよりはAIにどう話しかけるかの方が大切だと思われつつある。日本語の予測変換のように、本人の考えそうなことを予測してしまうシステムは直にできあがる。

 かつてコンピュータが普及し始めた頃、大学の教員から最近の学生は文書や手紙の書き方を知らない。書き方を習ったことがないのかと叱責されていた。その叱られていた世代がパソコンを使えない学生に苦言を呈している。もしかしたら五十歩百歩なのかもしれない。ただ考えなくてはならないのは、思考のアシスタントをするサービスは、人間が自分で考える機会を巧妙に奪い取るということなのだ。

 思考を乗っ取られないように自戒するとともに、若い世代の思考力を高めなくてはと思う。まだ教員であるうちはこんな偉そうなことを言ってもいいだろう。

宿題のことなど

 夏休みの宿題には色々な思い出があるが、残念ながら細かいことは忘れてしまった。計画的にやればいいものを結局8月の終わりにまとめてやることになって焦り、家族にも叱られたことしか覚えていない。

 宿題は実は何でもいいのだが、形にして残すことが大切だと考える。できれば自ら課題を見つけ、それに対して何らかの考察をし、一定の結論を得ることが夏の宿題にとっては大切だと思う。私は一時期自分が調べたことをもとに自説をまとめることを仕事にしていたので、夏はそれを行う大切な時期だった。最近はそれをすっかり忘れて与えられた仕事をこなすことばかりしている。そこで今夏は自分に宿題を課すことにした。

 まずは自分と同じような仕事をしている人に向けて自分の経験をもとにした助言をまとめてみようと考えている。役に立つかどうかは今考えずにおこう。それが今の自分を見直すことにもつながるかもしれない。それをかならず、文章にまとめることを宿題にしたい。宿題だから期限があり、完成度が低くても提出しなくてはならない。それを8月末日としてみよう。

 宿題をやらなくてはならないと思うと気が重いが、同時に若い頃の焦燥や達成感が戻ってくると思えば楽しみな感じもする。

紙とペンと

 学習効率を上げるためにはやはり従来型の紙に書く方法が今のところは一番いいらしい。なんでもコンピューターに委ねられるほど人間の脳は進化していないのだ。

 そこで私は原稿用紙を持ち歩くことにした。百均の原稿用紙とそれをいれるケースを鞄に入れて歩けばいいことに気づいたのである。ペンは本当は万年筆で書きたいが外出先ではサインペンでいい。筆圧をかけずにかけば万年筆のようにも書ける。

 このブログで書いているような雑記的なものを原稿用紙にも書き始めている。この方は推敲して後日何らかの形で公開したい。手書きのほうが慎重に書くので少々内容も異なる。

 ペンで書くこということは意外にも大切だと再認識した。思えば人生の半ば辺りからキーボードに筆記行為を委ねてきた。あるときには不可逆な流れとも思ったが、いまは手書き文字でも簡単にデジタル化できる時代になった。いろいろ考えると自分の能力では手書き文字を書くほうが効率も上がるようだ。

教科書2冊配布もしくは

 義務教育の教科書は税金で賄われている。裏表紙にはこれは国民の税金で提供されているものだから大切にするようにという注記がある。しかし、この教科書が重い。

 いくつかの教育委員会では教科書を学校において帰ることを許可している。荷物を軽くするためには仕方がないという訳だ。タブレットやパソコンは持って帰れという。私は逆がいいと考える。

 教科書類が重いのは事実だが、大抵の場合、毎日の詰替ができていないことで必要以上に重くなっている。資料集などは自宅に置かせ、授業で必要なものだけを持参させるのがよい。パソコンやタブレットは学校に置いて行かせ、充電もできるようにすればいい。鍵のかかる充電器具の確保などの設備投資はいるが。

 家でネット検索をさせる必要はない。多くの家庭では子どもに貸せるパソコンを持っているかもしれないので、家庭での検索は禁止などと言っても無意味だろうが、少なくともデジタルデバイスで宿題をやらせるべきではないだろう。

 紙媒体の教科書による学習効率はやはり高い。だから、家では伝統的な学習法に集中させた方がいい。この方が成果が上がるはずだ。子どもの頃からデジタル機器になれさせるべきだ。使えないと困るという親は今のデバイスの使いやすさを知らないのかもしれない。少なくとも義務教育の間にプログラミングやデジタル処理技術は教える必要がない。余裕があり、趣味的にやりたいならば学ぶべきだが、少なくとも他の基礎的学習の時間を削ってやる必要はない。

 それでも鞄が重いというならば、検定教科書の2冊目を有償で販売してもいいと考える。価格設定は高めでもいい。1冊の教科書に書き込んで使い尽くす方がいいと思うが、必要な人には売るという方法もある。コンピューターを使って考えたふりをするよりも遥かに期待できることが多い。

結びつける学習

 脳の構造として何かを学ぶときに自分にとって意味のある情報を優先するということが分かっている。逆に言うと無意味だと思われるものはなかなか習得できない。これは年齢を重ねるほど顕著な傾向になるそうだ。

 私がいろいろなことを学ぼうと思ってもそれがなかなか身につかないのは結局、自分にとって本当に必要だとは思っていないからなのだ。なくてもいいことは身につかない。少なくともそういう価値観をもってしまった瞬間から、習得の順位は下がってしまうのだ。だから、逆に価値を上げることさえできれば学習効率は上がることなるはずだ。

 学校の勉強がうまくいかないという人もテストの前になると少しはやろうとする。学習の成果が評価されると思えばやる気になるからだ。しかし、それがなければ何もできない。できなければ効果が上がらない。普段の学習も何かに結びつけたほうがいいということになる。そうすることで脳が優先順位を上げてくれるはずだ。

音読、手書き

 情報が何でも手に入る時代になり、私たちの世代はさまざまな矛盾に直面している。子供たちに何かを質問するとかなりよく知っている。中には少し専門的な用語も出てくるので相当な博識なのかと思ってしまう。さすがに現代の子どもは違うと感心する。しかし、この思いは簡単に覆されることが多い。

 同じ子どもに同じ分野の別の質問をすると答えられないということがある。それもどちらかといえばだれもが知っている初級レベルの内容と思われることにおいてもその傾向がある。また、先に感心した専門的な話題を別の要素と組み合わせて尋ねると何のことを言っているのか分からないといった反応になる。ここに違和感を覚えてしまうのだ。

 おそらく今の子どもは情報を点として覚え、その数を多めに持っている。だが、その点はほかの点と結びつけられることは少なく、孤立した知識になっているのだ。これはコンピュータで検索した結果をクリップしている状態と同じだ。物知りだが物は知らないという逆説が見られる。

 そこでいま何が足りないのかと考えれば、情報を点ではなく線で、そして面でとらえることの大切さなのだろう。それには読書することや講演を聞くことで一つ知識や情報の背景にあるものを知ることが肝要と言える。読書もそのままにすると、点としての知識吸収になりやすいので、音読の形で自然な人間の認知の手順を再現した方がいいと考えられる。そして、考えたことを手書きでまとめる。音声化と言語化というごく当たり前の活動が人間の脳には欠かせない。これを飛ばすと偽物知りが生まれることになるのではないか。

教える勉強法

 学習したことを定着させるには言語化が欠かせない。私たちは受容した情報の大半を言葉に置き換えて覚えるからだ。記憶するためには言語化をいかにうまく行うかが影響する。

 言語化の方法はいろいろあるが、その一つに学んだことを誰かに教えるということがある。実際に教える相手がいない場合は架空の人物に向かって教えるのでもいいのだという。先生ごっこは実は最高の学習方法だったのだ。

 ノートに学んだことをまとめ直すのでもいいのだという。多くのノート術を説く本に、講義の後のまとめが大切だと書かれている。自分のことばにして文字として書き出すことで知識は定着する。

 言葉にするのは面倒だし時間もかかる。だが、この一手間こそ学習効果を上げる簡単かつ効率的な方法だったのだ。

No

インプット

 ある時期は情報を集めるばかりでものが書けない時期があった。本もかなりのスピードで読んだ。そのうちのどれだけ身についたのかは別の話だがとにかく入力過多になった時期がある。

 ところが最近はアウトプットばかりで入力ができていない。ここで考え方を変えていきたい。少しデタラメを書くのはやめよう。無理に絞り出さずにまずは先人の教えに従おう。知らない本をあえて読んでみようと思う。中断している読書ブログを再開することにする。

 歳を取ると本を読むのも大変だ。小さな字は見えないし、気力が尽きやすい。若い人には言いたい。後で読めばいいなどと思っていたら永遠に読めない。今日少しでも読むのがいい。