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文語になれる機会

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 子供のころにテレビから時々流れてきた「誰か故郷を想わざる」という曲は印象的だった。なぜ「たれか」なのか、「ざる」とはなにかなどと少し疑問に思ったがそれ以上は考えずまねして歌ったこともある。今考えると文語を覚える機会は国語の時間だけではなかった。

 小学校でも文語を覚える機会はあった。音楽の時間には「故郷」や「早春賦」を習ったが今考えるとかなり難しい文語だ。「兎追ひしかの山」とあっても「ウサギ美味しかの山」ってなにか。そもそもウサギは食べられるのか。「かの山」とはどこにあるのか、どんな字を当てるのか、などと考えた。「春は名のみの風の寒さや」に至っては「なのみの」とは何かが分からず、「時にあらずと」もなんだかよく分からなかった。教師が説明してもピンとくることなく、ただメロディのままに歌うことに終始していた。そういえば「箱根の山は天下の嶮」はケンがなにか分からず歌っていた。「羊腸の小径」などわかるはずがない。

 それでも歌から覚えた文語はかなり多い。その当時は意味が全く分からず誤解をしていた。落語「千早振る」のようなこじつけも起きる。それでも文語の調べは身につき、意味が分かるようになるとさまざまな再発見がなされる。「げにいっこくもせんきんの」が「実に一刻も千金の」と分かったとき、まさに千金の価値を感じるのだ。

その意味で文語の歌を子供の時に聞いておくのは無意味ではないと思う。古典など学習するに値しないと豪語する自称知識人もいるが、自国の言葉の深みを捨ててしまうのは大きな財産を失うことにつながる。目先で日進月歩の技術のうわべだけ学んですぐに使い物にならなくなってしまうのとは異なる。古典の知識を身近に感じられるようにするためには文語の感覚は不可欠であり、そのためには知識がいる。それを身につけるのに文語の歌は役に立つと考える。

暗唱

読む、覚える

平家物語の冒頭を覚えさせられた記憶は多くの人と共有するはずだ。意味は後まわしでとにかく声に出して言えることが求められた。これには実は一定の意味があった。

 中学生のときに例の祇園精舎の暗唱が課された。覚えたものを教員の前で言わなくてはならない。職員室の片隅で行った。他の教員の視線を時折感じながら盛者必衰の理を語ったのは思い出に残っている。

 高校では社会科の教員に藤村操の巌頭之感を暗唱することが課された。なぜ遺書を教材にするのかまったく理解不能だった。テストにも出た。教員の趣味が出ていたのだろう。

 文語を覚える機会は限られている。品詞ごとに文法を教える伝統的な方法は、古文や漢文訓読には不可欠だ。ただ意味もなく覚えろと言われてもなかなか頭に入らない。入ってもすぐ抜ける。なんからの別のアプローチがいる。その一つが文章の丸暗記だ。

 意味はあとからでいい。とにかく古文の調べを体感させること。それには暗唱は一定の効果がある。

教室に映写する教材は

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 勤務校ではここ数年、教室のデジタル化が進んでいる。すでに黒板はなく、ホワイトボードはプロジェクターから映写されるスクリーンにもなる。数年前とは雲泥の差だ。ただ、これまでやってきていくつかの注意点があることに気づいた。

 これまで黒板に書いてきたさまざまな情報、これを教員用語では板書というが、これをスライドであらかじめ作成することができる。よいことはあらかじめ仕込むことになるので、授業計画がより綿密に行えることだ。授業の展開を見越してスライドを作るからである。図解や写真なども簡単に行える。例えば夏目漱石の作品にはこのようなものがあって…などと説明するときはこれまでは副教材を開かせたり、プリントを作成して配布したりしていた。それがスライドでできるのだから、時間的にも資源の節約という観点からもいい。

 しかし、悪いこともある。私は縦書きの表示をする手前、パワーポイントなどのソフトを使ってスライドを作る。やったことがある方はわかると思うが、手書きよりはるかに多くの情報が入る。それは素晴らしいのだが、中等教育の現場においては詳細情報は選ぶ必要がある。なんでも載せていると生徒はそのどれが大切なのか分からず、ひたすら写そうとする。写さなくていいというと今度は注意力が散漫になる。電子教材ならでは問題点が発生してしまう。

 手書きのもっている微妙なニュアンスも電子化すると伝わりにくくなる。便利さと、教育効果は必ずしも相関しない。最近の研究によれば電子書籍よりも紙の本の方が、キーボードで入力するよりは手書きの方が学習効果が上がるという。長年人類が培ってきた学びの習慣はそう簡単に変えられるものではない。長谷川嘉哉「脳機能の低下を防ぐには「手書き」が有効だ」(東洋経済オンライン2019/11/19)

 教育現場においては単純にデジタル化をまんべんなく押し広げるのではなく、従来の紙の教科書、手書きノートの要素をうまく活用していくことが求められている。生徒にとってのインプットの局面では、核となる情報は紙面のテキストを使い、書き込みなどをさせて読みを教えるべきだろう。そのほかの補助的情報はデジタルで見せ、メモをとらせるのは最低限にすればいい。

 アウトプットにおいては手書きノートを充実させるべきだろう。板書の「写経」は最低限にして、自分の感想や疑問点を書かせる。また、授業後のまとめや感想を書くことを習慣化させるのがいい。あくまで手書きにこだわらせる。国語科である私にとってはここは譲れないところだ。一方で記号で答えられる小テストなどはGoogle Classroomにあるフォーム機能などを使って答えさせると即時に解答の傾向が分かり、指導の助けになる。添削を要する作文も時にはデジタル入力させると添削や返却が簡単になる。

 要するに、アナログとデジタルの使い分けが必要だということだ。世間的にはデジタル化の遅れが日本社会の停滞の主因だという論調が多いが、中等教育の現場においてはそれをそのまま適応してはいけない。

考える過程を示す

手順が大事

 国語、とりわけ現代文の授業では考える過程を学ぶことが最重要の目的だ。これを示すのは案外難しい。言葉の運用の能力は人それぞれであり、示し方に工夫が必要だ。

 文章を型で教えるという方法がある。これはいつもやっている方法だ。段落には言いたいことをいう文と、それを支える文とがある。トピックセンテンスの考え方を教える。大半の生徒はこれで納得するか分かったふりをする。しかし、そもそも何が意見であり、何が例証であるのか区別がつかないものにとってはこの説明は効果がない。

 段落と段落の関係についても同様だ。それぞれの段落の役割を把握するのは実は高次元の概念ではないか。掴むことのできたものには当たり前でもそこに至るまでには時間がかかることがある。

 考え方を多様な方法で示すことが教員の付けるべき技能なのかもしれない。答えを教えるのではなく答え方を教えるのが国語の特徴である。

素読、速読

耳と手を動かす

 古典文学の入門者への教え方を模索している。結果として伝統的な方法がよいのではないかということに至った。

 まずは古典文学を身近に感じることができることが肝要である。文語調の文章や漢文訓読に接する機会が激減している中で、まずは多くの文章に触れる必要がある。

 角川文庫のビギナーズ・クラシックスなどを読ませるのが手っ取り早い。だが、読書自体があまり行われていない中で、読んでおけは読まないというのと同じだ。そこで、15分程度で読みと解説を完結する年間を通してのの取り組みが必要だろう。文法事項はこの時間帯には最小限に止める。やることはひたすら音読もしくは筆写である。意味は後回し。耳と手で覚える。

 とにかく古典に親しむという戦略だ。この時代にいまさら古典などということなかれ。日本文化や中韓の文化を知っていることがこの先いかに役立つかはすぐに答えがでるはずだ。

読解力

真剣に読む

 これまでも何度か話題にしてきたが、読解力の低下にいかに対処するのかは大きな課題の一つである。かくいう私もこの力が漸減しているのを感じている。社会的要因があると考える。

 私個人の問題としてはもちろん老化といった身体的要因がまずある。残念なことだが短期長期の記憶力の低下は大きな影響がある。それよりも実は深刻なのが真剣にテキストに向き合う機会が減っていることではないだろうか。

 日々の生活の中で読解力の有無が致命的な影響を及ぼす機会は減っている。これを読まなかったために大きな損失を被ったという実感を得る機会が少ない。もちろん本当はかなり死活的問題をもたらしているはずだ。それに気づかない。

 現代社会は説明過剰である。効率的なやり方が予め示される。だから自分で状況判断して最適解を模索するという機会が少ない。なくても十分なのだ。これは便利で一見優しい仕組みだが、読解力の養成には向いていない。

 真剣に文章を読む機会がないのなら、意図的に作るしかあるまい。それが現代国語教育の役割の一つだ。こういうと契約書の読み方を教えるといった実用文を扱えはいいという話になる。しかし、実用文はもともと分かりやすく書かれており、最終目標にすべきものではない。

 様々な話題、筆者の評論文や、文学作品、古典文学などを学ぶのは死活的な状況で読む読解力の養成に相応しい。内容から学ぶ叡智はさることながら、難解な文に向き合い読み通すことが大切なのだ。

表現力

やってみたい授業

 時間があればやりたい授業というものがある。大抵の場合、決められた学力(数値で測定可能な)の向上には向かないという理由でできない。

 考えたことを発表するという授業はぜひやりたいことだ。一人でやるのとグループ発表の両方がいい。また、発表を評価することもいいと思う。

 とりあえずブックトークを考えている。好きな本を自由に選ばせたり、テーマを決めて読ませたりするのもいい。まずは互選させて代表を決める。代表はチームリーダーとなってグループ発表する。

 他にもいろいろなアイデアがある。それを試す時間があるといい。表現力プラスアルファを狙いたいのだ。

短くても面白い話を

どうしたら古典文学に関する関心が高められるのかを考えている。それはやはり読んで面白いという体験が不可欠のように思う。そしてそれをどのように提供するのかが鍵のようだ。

古典が好きになれないという生徒の大半は学ぶ意味がわからないということにある。こんなことをやって何になるのだという人もいる。その分をコンピューターのプログラミングに当てたほうがいいとまことしやかにいう人もいる。そういう人の多くは大切なことを飛躍して考えている。言葉に対する興味や、文化への関心がないままプログラミングができるのだろうか。できたものが他者に受け入れられるレベルになるのだろうか。

私がその方面に疎いから説得力がないのかもしれないが、プログラミングを少しだけ学んでみてそこで説明されている言葉の未熟さに驚くことがある。説明の仕方を少し変えるだけで簡単になるのに、易しいことを難しく言っている。プログラミングはできるのにどうして説明が下手なのだろうか。

言葉はつながっている

言葉に対する関心は日常語だけから生まれるのではない。現在私たちが使っている言葉が基盤としている言語的な財産というか遺産というべき古典の世界から受け継いだものも大切だ。例えば「思う」という動詞の抱える守備範囲は”think” や”想”とは異なるが、それをたとえば和歌の中にある「思ふ」の用例と比較すると、その違いが見えてくることがあるのだ。

ただ、私もいまの古典の教育があまりにも解読(あえてこう言いたい)にこだわりすぎているのは問題だと考えている。文法も語彙の習得も大切だがそのレベルのことは今後はコンピューターがやってくれるのではないだろうか。大事なのはそこで何が述べられているのかを数多く知ることにあるのではないかと考えているのだ。

そのためには何をすればいいのか。まずは、さまざまな内容の短く読みやすい古典作品を提供することにあると考える。たとえば先程とりあげた日本語の「思う」の持つ歴史をさまざまなエピソードをあげて読み流すようなテキストがあるといい。短くて読みやすく、しかも面白い話を集めること。それを体系的に並べること。それが私の当面の課題となりそうだ。

共通体験の担保

 世代による共通の体験というべきものを探すことが難しくなっている。こんなことを見た聞いたやったという共通の経験は少ない。その意味ではここ数年、マスク生活になったことは稀有なことかも知れない。

同じ本を読む経験も必要だ

 もちろんこれはある意味喜ばしいことでもある。生活が多様化し、様々な価値観が並列する時代にあるといえるからだ。選択肢が多数あるからこそ、共通の経験を持つ者の数が減るわけだ。

 読書経験についても同様のことが言える。同じ本を読む経験が減るのは、読書以外の楽しみがあるからだということだ。

 ただ、ある程度は共通の教養がなければ様々な困難が発生する。同じ思考の根本にある読書経験がバラバラだと共感したり協調したりすることが難しくなってしまう。あの話のように、という比喩は使えなくなる。それは結構困ることだ。

 学校の国語の授業で全員に同じ話を読ませるのはその意味では共通体験の担保をしているのだとも言える。それがどんなに退屈な経験であっても、それに触れたと言う経験は一定の意味を持つ。

 よく、無理やり同じ話を皆に読ませても無意味だとか、関心のわかない読書をさせるべきではないという人がいる。一理あるが別の見方をすれば、それなりの役割を果たしていることに気づくはずである。

古典の教え方

古典は暗号解読ではない

 ここ数年、古典を中等教育の段階でどのように教えるのか悩んでいる。単語や文法の知識を習得するのは大切であるがそれを目的とするのでは本来の古典教育の目標に届かない。

 古典を通して古人の価値観や行動様式を知り、それを現代社会と比較することによって新しい知見を得ることは古典学習の本道と考える。決して暗号解読ではあるまい。ならば、そのようなことを学ぶ機会が学校に用意されているのか。私は不十分と考える。

 文化史的な視点をもっと取り入れてもいい。そのためには入試問題をただの解釈だけを問うものではなくしていただきたい。具体的な方策は今後述べていきたい。