タグ: 国語教育

主旨を掴む練習

 今後の国語教育に必要な力であり、目標とすべきなのは要約力であることはほぼ間違いない。要するに何が言いたいのかを簡潔にまとめ、それを言語化する能力が求められている。

 言葉の知識や漢字力の大切さは揺るぐことはない。傍線部の意味を説明する問題も大切だ。ただ、かつてとは異なり、語彙は検索すればすぐに分かるし、テクニックで答えが出るような問題はやがて人工知能に任せることができるだろう。大切なのは主旨を掴む力である。

 大量の情報を受け取ることができるようになっても、そこに価値の濃淡を見いだせなければ理解はできない。そのためには短文をなるべくたくさん読み、言いたいことは何かをまとめる力を身につける必要がある。

 そのための方法を考えてみたい。要約文を書かせるのがいいと思うが、これには手間と採点時間の長さという課題がある。自己採点できる方法を考案すればいいのだろう。すでにその目的で作られている問題集があるのになぜ普及しないのかも考察したい。

読解の教え方

 国語の教員として現代文の読解の方法を型で示すことがある。よく、現代文は勉強の仕方が分からないと言われるが、型を意識する読み方を学習すればある程度の成績の向上が見込める。だからこれは二項対立だとか、弁証法だとかいろいろな名前をつけて説明する。

 しかし、本当に大切なことは筆者は何かを訴えたいと思って文章を書いているということを意識することに尽きる。文章でもスピーチでもそれが実のあるものならば必ず言いたいことがある。言いたいことの大半は今まで他の人が考えていなかったことや、内容が他と同じだとしても表現の方法にオリジナリティがあると筆者が信じているものだ。だから、よほどの独りよがりの文章でない限り、言いたいことの説明をしようとする。だから、主張なのかその説明なのかという区別さえつけばたいていの文章は読める。用語が難解であったり、文が長すぎたりすると骨が折れるのは確かだが。

 だから、型で読むことを教えるのは、主張部分と、それを成立させるための説明部分との関係をおさえることと同義だろう。難しく考えすぎないように、単純化した方がいい。特に本を読むのが苦手な人には「いいたいこと」と「そのための説明」を分け、それらがどういう順番で出てくるのかをその都度意識させるのがいいようだ。フリクションなどの修正可能な色ペンでそれらを分けさせる方法は効果があるだろう。本文のコピーを取って配るのもいいし、デジタル環境があるならば、ハイライト機能などを使わせて提出させるのもいいだろう。

 読解力が低下していると嘆く識者は多い。読書量が減っているのも事実だ。ただ、読み方の教え方についてもっと研究をしなくてはならないことも事実だろう。

感情的な描写を論理的に考える

 小説の読解の方法の基本は、登場人物の心理の変化を正確にたどることである。これができれば小説の世界を深く理解できる。現実の人間の世界はかなり複雑な構造をとる。人間の心理というのは数式に表せるほど単純ではない。いろいろなことを同時に考えており、局面においてその感情の一部分が顔を出してくる。だから人間というのは実に複雑である。

 小説の世界は作者によって一定の世界観を付与されており、その登場人物も設定上の制約の中で活動する。かわいい女の子はいつまでたっても無邪気なままだし、おんぼろの世界の中で何とか自己実現をしようとしている。現実とは似て非なる世界の中である。その造形の中で私たちは人間について考えることになる。

 小説は筆者の仕込んだ構図の中に一度没入し、さらにそこから浮き上がって俯瞰することで深い味わいを受け取ることができる。私が教室で教えたいのはその点であり、いつもそれを目指しては失敗している。

気が散る仕掛け

 読売新聞でデジタル書籍に関する特集記事が連載されている。新聞という紙面のメディアからの発言であることを割り引いても、現状のデジタルテキストは学習効率を決して高めないものと読み取ることができる。

 情報の活用や拡張性については電子書籍の方が圧倒的に勝る。モノでないことから物質的な拘束から解放されるのが何よりもよい。ただ、メールもゲームも何でもできるという多機能性は読書を阻害する。真面目な読者であっても、参考のリンクをたどるうちに本論の論理が消えてしまう可能性がある。

 私は電子書籍リーダーを使うことで誘惑から決別しようとしている。一つのソースに集中できる環境を自ら作り出すしかない。金はかかるが読むことしかできない端末を教育現場で普及させるのはいかがだろうか。

古典の発想

 複雑な時代を生きていると何が正解なのか分からなくなることが多い。というより常に正解が分からない世界に生きている。そんな私たちにとっては一つの指標がある。古典を読むことである。

 私にとっての古典は日本の古典文学作品である。大学時代にこれを専攻したこともあり、私にとってなじみ深い。万葉集の歌を読むとき、中世の説話を読むとき、そこには常に発見がある。未完成で粗削りなストーリーの中に可能性を感じる。国語の教員である私はそれを教材としてのみ扱うことに常に抵抗を感じている。まるで暗号解読のように古典を読む同僚たちの手際よさに感服しつつも、それは古典を呼んではいないだろうとも思う。そして彼らと同様に、しかも少々拙く読解のテクニックばかりを教えている自分の毎日を反省する。

 私はひそかに古典文学をなるべく自分にひきつけて読む意訳を最近続けている。学校では決して教えられない方法だが、日記やブログに書くのならいいだろう。その訳し方では決してテストで得点は取れない。大学にも合格できないが、少なくとも主体的に古典を読むというもっと大切なことはできるのではないか。いつかこのサイトにもそれを載せることができればなどと考えている。