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反実仮想

 「まし」という助動詞を教えるとき、気がついたことを書き残しておくことにする。

世の中にたへて桜のなかりせば春の心はのどけからまし

 この歌の解釈に反実仮想の概念が必要になる。世の中に全く桜がなかったならば、というのは事実に反することだ。日本人は桜に関する執着が強く、あちこちに植林してきた。虫害に弱く、様々な病気にかかりやすい桜を敢えて植え続けてきた。

 春の人の気持ちはのどかであろうに。この推量が反実仮想の仮想に当たる。そもそもありえないことを想像しておいてさらに想像を重ねるのがこの助動詞の役割りだ。

 私たちはどんなときに想像の翼を広げ、どんなときに幻想の世界に遊ぶのだろう。「まし」の用法を理解するためにはこの疑問を考える必要がある。反実仮想せざるを得ない切羽詰まった状況を考えるべきなのだ。

 機械的に文法の知識を教えるのはたやすい。しかし大切なのは言葉の持っている背景を察してもらうことだ。

「る」「らる」

 古典文法を学ぶときいくつかの難所というべき項目がある。助動詞の用法の識別はその一つだろう。助動詞は日本語を日本語らしくする品詞の一つである。文の細かな意味や感覚を表現するのに助動詞が大きな役割を果たすからだ。現代語と比較しても古典の助動詞は種類が多く、なおかつ細かな使い分けがなされる。それを完全に習得することは難しい。

 国語の教員であれば助動詞についてある程度は説明できなくてはならない。でも、文法のテストに答える程度であればあまり難しく考えすぎない方がいい。また、古文の読解のときにも助動詞の用法を厳密に言い分ける必要はない。多くの場合、いくつかの用法の境界にあり、よりどの要素が強いかというくらいの違いである。

 今回は多義をもち、使用頻度の高い「る」「らる」について考える。

 「る」と「らる」は同じで、いずれも動詞の未然形に接続する。「る」「らる」の直前に「a」の音があれば「る」を使い、なければ「ら」を加えて「らる」とする。だから、「走る」に「る」「らる」をつけるときは「走ら(未然形)」に「る」をつけるし、「起きる」につけるときは「起き(未然形」には「ら」を挟んで「る」をつけて「起き・ら・る」となっている。「ら・る」を一語として考えたのが「らる」という助動詞だ。ちなみに、これは現代語の「れる」と「られる」にも共通するが、現代語では「られる」の「ら」を落としてしまう「ら抜き言葉」が普通に使われており、「見れる」「食べれる」に違和感を覚えない人の方が多くなっている。

 この「る」「らる」には4つの用法(これを文法の時間では「意味」ともいう)がある。思い出していただきたい。①自発、②可能、③受身、④尊敬の4つだ。受験生には「自可受尊(じかじゅそん)」とおぼえさせる。なんとなく語呂がいい。印象的な感想で根拠はないがこの順番で使用頻度が高いとも思うからこの暗記法は無意味ではないかもしれない。

 「自発」は<自然と~れる>と訳す用法で、例えば昔のアルバムを開いて、過去のおのれの姿を見たとき、思わず「なつかしいなあ、あの頃はよかったなあ」などと勝手に感情が湧き出すときのことをいう。文法用語ではこれをそっけなく「自発」という。意図しなくてもやってしまうことである。性格上、感情を表す動詞に付属して使われる。「思ふ」「しのぶ」「泣く」「笑ふ」などと組み合わされる。識別するときにもこれが指標となる。

 「可能」は<できる>の意味になる場合だ。ただし、平安時代までの用例のほとんどは打消しの言葉とともに使われるから、実際には「~れ(られ)・ず」の形で出ることが多い。打消「ず」は非常に不規則な活用をするし、打消の意味を持つ後には「じ」「まじ」などの助動詞や「で」という接続助詞もあるので戸惑うこともあるかもしれない。これは打消しとセットになって、自分ではどうしようもできない状況をいうときに使われていたのだろう。自発の逆に当たる。ただし、鎌倉時代以降は肯定文の例もある。

 「受身」は<される>と訳すもので、この助動詞の大切な役割の一つである。訳すときに「~に」という動作主が想定される場合に使われる。「起こさる」は「~に、起こされる」ということであり、この「~に」の意味が必要な場合が受身ということになる。古典ではこの動作主はたいてい生物であり、現代のように抽象的な語が主語になるもの、たとえば「ストレスに苦しめられる」のような例は少ない。動作主がほかでもない自分自身の感情にあるときには「自発」となるのだ。

 「尊敬」は<なさる>と訳すもので、主語が貴人である場合に使われる。おそらく自分とは距離を置いた存在が、自分の意志とは無関係にものごとをするという意味から自発的な意味合いもあり、その動作を直接的な作用を受けなくても影響があるという点で受身的な意味もあるといえる。

 4つの用法はつながっていて実は自分の意志や目的とは無関係に物事が進行するときに起きる感情を表現するときに使用されていたのではないか。実際の用法の中で様々な変化形が生まれ、多様に使われるようになっているのだ。最初にもふれたが文法的意味(つまり用法)はあくまで便宜的な分節に過ぎない。生徒諸君にもこの点を知っておいてもらった方が本当の古典が理解できるようになるのかもしれない。

古典教育に演劇を

古典劇ではありません

 漠然と考えていることを文字にしてみる。今日は(も)自分のための記事になる。

 古典文学を教えるとき、なぜ教える方は面白いと考えるのに習う方はつまらないと思うのだろうか。その一つの原因は作品の背景に関する知識の差にある。知識というと古典常識なるまた学習者を小馬鹿にしたような言い方が思い浮かぶ。常識と言い張る人ほど非常識なものだ。言いたいのは作品からイメージできる情報、情趣の差だ。これは古文を味わう上で大きく影響する。

 古典を読む際に単なる暗号解読にならないようにしなくてはならない。作品をわがこととして読めるように考えるべきだ。それには演劇的な手法も有効だ。推量の助動詞の使い分けをどれだけ実感を伴って行えるのか。それは古語を使って役を演じる中で獲得できる可能性がある。

 私はショートコントで古典を指導する方法を模索したい。できてきたらご紹介していこう。

読むのを見せる

その本おもしろい?

 読書をしない子どもたちが増えている。読解力がとんでもないことになっている。そういった話は世上に溢れている。そして、現実にもそういう人に出会うことが多い。何とかならないかという話をされることもある。

 国語のテストである程度の点数を取るための技術ならばある。しかし、それは生きるための読書力かと言えばあやしい。難関大合格者の中に国語は要領ですよとコメントするのを読んだことがある人も多いはずだ。そういう人の大半は読書を作業と捉え、学び取る力に欠けているように感じられる。筆者に対する敬意も、批判する精神も薄弱だ。

 普段から読書をし、他者の意見を受容し、ときに吟味して批判する人になるためには、やはり子どものころの読書習慣が影響する。子どもに本を読ませるにはどうすればいいのだろう。これも長年の課題の一つだ。

 もちろん課題図書として課すというのは一つの手だろう。しかし、自主的に本に親しむ環境を大人が提供することの方がより大切である。提案したいのはまず大人が読書する姿を見せることだろう。率先垂範はこの話題にも当てはまる。できれば読んだ本の話を聞かせるのがいいが、ただ読んでいる姿を見せることだけでも効果がある。

 電車に乗るとほとんどの大人はスマホを見つめ、そのうちの大半はゲームをしている。次にソーシャルメディアを読む人がいてほぼそれで終わりだ。スマホで読書もできるが、できれば紙面の本で読むのがいい。子どもはそれを見ている。

 

読解力の測定

時間をかけずに読め?

 読解力の低下はここ数年我が国の教育界が危惧するものである。しかし、この読解力にもいろいろあって、速読力に左右されるものとより深い読みを要求するものとがあるように感じる。後者の方面に対する手当が十分てはないことを注意したい。

 例えば共通テストの国語は明らかに問題が多すぎる。ここで求められているのは深い読みではなく、いわば情報処理能力だ。要領よさと手際の良さが主に測定されているといってよい。しかし、こうした能力はAIなどにもっとも代替されやすい分野だ。これを国語科で試す必要はないのではないか。

 共通テストに限って言えば、時間を増やすか問題数を減らすかのどちらかをまず行うべきだ。次により深い読解を求める設問を考えていくのがよい。その結果、平均点が下がっても意味があるはずだ。

 センター試験時代から国語の情報処理能力測定志向は疑問であった。共通テストになり文学的な文章が減るとか、契約書のような実用文書を読むようになるとかいろいろな懸念事項があった。それらはいまのところ大きな変化はなかったものの、時間の割に問題が多すぎるという難点は強まってしまった。

 国民の読解力を底上げしたいのならこのような出題は止めたほうがいい。時間をかけて考えるより、とにかく速読とそのためのテクニックへの関心ばかりが高まるだけなのだから。

気持ちを込めて文法学習

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 Youtubeで英語学習について述べているものを見て参考になったことがあるので記録しておく。英語の習得の際、やはり文法学習は必要だが、それを型で覚えるのがいいという。さらに覚える際には感情をこめて文を記憶するのがいいらしい。

 言葉が情を表すものである以上、これは当たり前のことだ。にもかかわらずあたかも数式のように文章の型を覚えてもなかなか身につかない。その表現がどのような場面で使われ、どのような感情とともに述べられるものなのかを意識することが大切だというのだ。全くその通りである。

 古文を学習する際にも同じことが言えるのではないかと考えている。たとえば現代語には過去と完了の助動詞の区別がほとんどない。「昨日着いた。」も「いま着いた。」も同じ「た」で表現されるから、古典語に「き」「けり」と「つ」「ぬ」「たり」「り」の多彩な助動詞があることが理解しにくい。「なり・に・けり」のように完了も過去も同時に使われる文に至っては意味をつかみにくい。そこで、感情とともに記憶するという方法がよいと思われる。

 この方法を教えるためにはショートコントのような場面設定を作り、実際に演技させるのがいいのではないか。「夏は来けり」と「夏は来ぬ」の違いを演技で覚えてもらうのだ。これができれば推量系の多彩な助動詞群の差や、現代語以上に微妙な使い分けをする心情表現語の違いなども実感して覚えることができるかもしれない。そのための「台本づくり」が大切だと思っている。

気持ちの説明

小説を教えることに意味はある

 国語の問題の笑い話に、登場人物の気持ちを答えさせる問題というものがある。作者自体が答えられなかったというエピソードとともにこの種の設問を揶揄するものである。

 小説の世界は作品全体を通して形成される。それに対して国語の問題文は短く、切り取られた場面の中だけで完結させなければならない。多面性のある人物像のある一面だけが切り出され、その部分が強調される。そこを質問のポイントに設定すれば全体像を創造した作者の意図しない人物像が出来することもあり得る。

 人物の気持ちを問う問題の難しさはこのような点にあるが、それでもこの行為自体は避けるべきではない。人の気持ちという目に見えず曖昧さを含むものを言葉で説明することはこれからの時代に求められる能力の一つだ。他者との協働が不可避不可欠な今日の状況において、心情を察することは大切だからである。

 だから、登場人物の気持ちを問うことはこの力の養成に繋がるものと考えるべきだ。小説の精読はその機会としてふさわしい。新しい高校の指導要領で文学が軽視されてしまったのは残念だ。現場の教員はうまく立ち回るべきだ。文学作品を読ませることに躊躇すべきではない。

新聞

新聞とっていますか

 教科書の単元に新聞の投書を書くというのがあった。念のために家で新聞配達を頼んでいるのか聞いて見るとクラスの四分の一くらいがとっていないと答えた。私の常識は通用しないことが分かった。

 比較的裕福な家庭からの通学者が多い学校でこの有り様だから、実は新聞の宅配率はかなり下がっていると推測する。もっともほとんどの家庭が新聞を購読する国は実はそれほど多くはないという。ネットニュースなど報道に触れる機会はいくらでもある。無理にとる必要はないということなのだろう。

 すると投書というものがイメージできない生徒が相当数いることになる。部分的で扇情的なコメントが投書と混同されている可能性は高い。自分の意見を読者を意識して書くということは、難しい行為ということになる。

 国語の教員の出番はまだありそうだ。

違う仲間に説明する力

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 ソーシャルメディアが普及しても文章表現力が上がったと言われないのは、「ともだち」にしか配慮がないからだということになる。自分と同質の人たちに「いいね」をもらうための発言は、説明という面倒な作業をする機会にはなっていないのだ。

 インターネットが普及する前のことを知る人がどんどんいなくなっているような気がする。かつては文章を頻繁に書く人と、ほとんど書かない人に分かれていた。筆まめ、筆不精などと言われた。そしてその比率は筆不精が圧倒的多数を占めていた。

 ネットが普及してみなが文字によるコミュニケーションを強いられることになった。手紙文のような作法はなく、話し言葉のように書けるのは魅力的だったが、もともと文章表現力がなかった人々がいきなり文章を書き始めたから意味不明なものになったり、書き手の意図しない解釈がなされて多数の悲劇を生み出すことになった。ネット上の誹謗中傷は精神的な要素が大きいが、その中にはそこまで人を傷つけるつもりはなかったのにという言い訳をする人もいる。さりげなく批判の意見を述べるという表現法はかなり高度なものである。皮肉めいて発言するつもりが全力の罵倒のようになってしまう。筆不精がいきなり大筆で心の字を書くと半紙をはみ出してしまう。

 国語の授業にはいくつかの目的があるが、その一つに自分の考えを適切に表現するということがある。口頭表現でも文章表現でも同じだが、口頭での言い方は国語以外でも指導はできる。対して文章の方は国語授業が主に担当する。指導の際に大切なのは読者の設定だろう。誰に向けて書いているのかをはっきりさせることが肝要だ。隣の同級生に対してなら、ある程度の俗語や仲間内の符牒も使える。同世代なら知っていると期待できる知識は説明しなくていい。それが5歳年上の人ならどうだろう。さらに親世代ならそういった共通理解は期待できない。さらに別の地域、別の国と環境を異にする人々に説明するとなると違ったものにせざるを得ない。

 自分とは異質の環境や生活様式にある人にどのように説明すればいいのかという問題意識を持たせるのが国語の教員の仕事である。もしかしたら多国語への翻訳は機械がある程度やってくれるかもしれない。昨日の投稿は機械翻訳にしてはまずまずの英語になっているように感じる。でも、どのように説明するのかという問題は人間が考えなくてははならない。用語の問題、具体例、論理展開、わかりやすさ、親しみやすさなどの調節は当面人間の仕事だ。

 生徒諸君に「ともだち」に「いいね」させる以上の文章を書く能力を自覚させ、身につけさせる。それを目標にしていきたいと考えている。

述べて作らず

 

 述べて作らずというのは論語以来の中国の教えの一つである。事実を述べることはしても創作はしないという精神論だろう。果たしてこれは今どのようになっているのだろう。

 中国の古典文学、つまり漢文の世界では創作はあくまで二次的な行為であったようだ。漢文に史伝は多いが小説のような虚構の文学は少ない。寓話的な話はあっても現実の例え話として語られる。

 だから、漢文の世界では作り話は忌まれる。本当にあったこととして語られる。創作に対する評価が低かったのだ。これが中国文学に小説的の誕生を遅らせることに繋がっている。

 最近の中華ドラマや韓流ドラマの歴史をみるに史実との乖離が甚だしい。歴史はモチーフの一つにすぎず、いくらでも改変が可能だ。述べて作らずの伝統はどこにいったのだろう。対して日本歴史ドラマは史実との比較にうるさい。史実とは異なるというクレームを本気になって言う輩が一定数存在する。

 創作を嫌っていた儒教国と創作に熱心な日本の国民性との比較を私たちはしておくべきだろう。