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読解力を身につける方法

 文部科学省が今年4月に実施した2024年度の全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)の結果を公表した。中学校の国語の平均正答率が過去最低の成績になったという。数値にどれほどの意味があるのかは疑問がある。テストの正答率とか偏差値を教育関係者は使いたがるが、数学的な意味は果たしてあるのだろうか。テストの内容も母集団も違うものを比べても参考程度にしかならないと思っている。数学に詳しい方にはご教示いただきたい。

 最低かどうかは分からないが、読解力の低下は経験的に気になることがあることは確かだ。その原因が読書量の低下や、デジタルデバイスの長すぎる使用時間、短時間で答えを求めすぎるテストの増加などにより、子どもたちがしっかりと読み取ることをしなくなったことにあるのではないか。これも科学的な根拠があるわけではないが、可能性が高い仮説であるとは考える。

 読解力を身につけるためにはどうすればいいのか。一般的に読書をすればいいといわれるが、そもそも読解力のない人は読書をしない。日頃走ることがない人に速く走るためにはとにかく走れというのと同じような気がする。まず柔軟体操をし、ジョギングをして徐々に体を作っていく。そういうランニングと同じように読解力を身につけるためにはどうすればいいのか。

 私はまず読む前に語彙力を増やすことが必要だと考える。いわゆる書き言葉(文章言葉)で用いられる言葉は、意識的に読まなくては身につかない。新聞のコラムや、軽めの文化的な記事などを読むことで文章言葉を身につけることをしていくのがいいと考える。短い文章で行うべきだ。

 次に、それらの記事の内容を文章言葉で簡単にまとめる練習をしていく。要約というとハードルが高いが、そこまでまとめなくてもいいのでどんな内容なのかを書くといい。これによって文章の大意を掴む方法を身につけていくといい。メモ帳などに数行でまとめると達成感も生まれる。

 次は、これは誰でもできるとは限らないが、読んだ内容を他人に話すことにあると考える。読んだ内容を他人に伝えることで内容の整理ができる。他の人の話を聞けば自分が気付かなかった内容を知ることもできる。読解力は最終的には他人の考えを読み取ることにあるのだから、一人で完結する学習法よりは複数で行った方がいい。これは学校教育が最も効果的に行える段階だ。

 次は、自分で読んだ内容を記録していくことだろう。書評までいかなくてもいい。簡単な読書感想文で構わない。それをとにかくためていくのがいい。インターネットの読書記録サイトも有益だ。私の場合はブクログという読書記録サイトを使用しているが、こういうサービスを利用して読書をする励みにすることは大切だろう。

 入試の現代文のテストは読書量がなくても高得点を取る人がいる。いわゆるテストの答え方にはコツがあり、博学な知識は必ずしも必要ではない。出題形式も型があるので、それらを覚えていけばある程度通用する。このようなテストで点を取ることを読解力と考えるのならば、入試参考書を繰り返し学ぶ方がいいだろう。私としてはあまりお勧めしないが。

 読解力の低下は個人の読書経験の減少という問題が大きいが、そもそも読書にさほどの価値を見出さなくなった現今の風潮も大きく影響を与えていると考えられる。検索によって断片的な知識を得られればよいとか、生成AIが導く答えで満足しているとますます読解力を得る機会は減っていかざるを得ないだろう。残念ながら世の中の動きは人の読解力を奪う方に流れている。だからせめて初等中等教育では読解力の基礎を固めることに注力していくべきだと考えるのだ。

自分の言葉で表現しろという前に

 最近よく耳にするのが理解するためには自分の言葉で表現することというのがある。用語や公式を断片的に覚えるのではなく、自分の言葉として捉え直せるかが肝要だということだ。この点については同感である。

 ならば、言語表現力を高めなくてはならない。自分の言葉が貧弱では表現できる範囲が限られる。基本的な言語操作能力を向上する必要がある。そのために家庭での会話を疎かにすべきではない。伝えるべきことは言葉で伝えることを日頃からやるべきなのだ。

 ただ家族には言葉でなくても伝わることが多い。いちいち言葉にするとかえって関係が悪化することさえある。次に注意すべきなのが学校の教員たちなのだろう。教えることが一方通行にならないよう学習者の反応を引き出し、その内容や表現の仕方に注目していく必要がある。場合によっては何と答えたかより、どう答えたかの方を評価すべきなのだ。

 自分の言葉で言いなさいという前に、表現の仕方についてもっと教えるべきだろう。それが初等、中等教育の教員の役目であることは間違いない。

ノートの取り方模索中

 ノートの取り方をいろいろ考えている。私自身のノートもそうだが、生徒諸君に提案することを前提にしている。様々なノート術の本や動画サイトを見て、実現かつ持続できそうな方法を考えているのだ。凝ったレイアウトは始めはいいが、その都度線を引くのは続かない気がする。

 ある人の意見と重なるところもあるが、今考えているのは以下の方法だ。

  • ノートは必ず見開きで使い左ページの左端4〜5センチは何も書かない。
  • 習慣化するまでは線を引いて仕切ってもいい。
  • 左ページの残りの部分を授業や講演のときのメモ欄にする。
  • 右ページはメモを取った情報を短文にまとめ直すために使う。
  • さらに書き足したいことがあればここに追加する。

 これは話を聞きっぱなしにせず、自分の言葉で置き換えることを日常化するための手段である。

 現代文のノートを思い出していただきたい。教師が黒板に書いたことをただ写すだけで、後で読み返してもなんのことか分からない。授業では分かったつもりになっても時間が経つと何だか曖昧になっている。それは教師がまとめた言説を表面的に写しただけで本当は理解できていないからだ。

 理解するためには自分の言葉で説明できる必要がある。その過程をノートで可視化しようという訳である。

 さらにこの方法は他人に自分のまとめ(言い換え)が正しいのか検証する段階がいる。ノートの右ページを相互評価し、過不足を点検する機会を設けたい。これを習慣化させることができれば国語力の向上につながるはずだ。

まとめる力

 恐らく教えなくてはならない国語の力に要約力がある。情報化社会では溢れるほどの資料が一瞬で集まるがそれがどんな意味を持つものなのかを見抜くのが要約力だ。いろいろ言っているが要するに何が言いたいのかを見抜くのが大事なのだ。

 そんなのは生成AIでもできると言う人もいるだろう。でも、機械ができるのは統計的に高い確率の言葉のつなぎ合わせに過ぎない。目的に沿って意味を見出すことは人間の能力によらなくてはならない。

 学校教育でそれを教えられているのだろうか。末端の知識に拘り過ぎていないか。あるいは図式的な読解術を金科玉条としていないか。形を教えるだけで出来上がるものを見届けていないのではないか。そういう反省からやり直したい。

漢字の学習

 漢字を覚えるための方法はなんだろうか。最近のこどもの傾向として漢字が書けなくなっていることは大方の賛同を得られるはずだ。私はこの主因をデジタル機器の普及にあると考えている。スマホを使い出したあたりから、私たちは漢字の能力を落としていった。

 複雑な字形の漢字は常に書き続けないと忘れてしまう。漢字の部首とか、成立過程だとかを知っていれば誤りは減る。でも結局は書いた回数が漢字力を支えるのだ。これは手を動かすしかない。

 子どもが喜んで漢字の練習をするのは小学生までだろう。ならば中学生以上はどうするべきだろうか。漢字を書かせる習慣を無理にでも作るしかない。それを設けるのが国語の教師の役割の一つとなる。

 漢字の添削をすることも実は大切だ。「畏」「託」など書き間違えやすい文字は他人に指摘されるまで気づかないものだ。「完璧」がパーフェクトウォールになっていたら、直していかなくてはならない。地道な作業だがやるべきだろう。

ローマ字表記法の変更

 70年ぶりに日本語のローマ字表記法の基準を変更することが行われそうだという報道があった。学校で教える訓令式が英語の綴りとかけ離れているためより英語に近いヘボン式に近い表記法が採用されるようだ。

 確かにサ行やタ行、拗音などの表記は訓令式で表示されるとかなりの違和感がある。Matidaは何とか想像がつくが、マティーダと読まれるだろうし、Sinzyukuは日本にある都市とはとても思えない。ヘボン式にすればまだ日本語の発音に近い読みを期待できる。

 ただ、それだけでは解決できない。最も困難なのが長音の扱いだ。長音を言葉の単位と考えている言語はそれほど多くはない。かつてオリンピックで活躍した大野選手は、現地の掲示にはOno と表記されていた。小野選手が同じ競技に出場していなかったのは幸いだった。大谷選手のユニホームにはOHTANIとあるが、長音がいつでもHで表せるわけではない。飯田選手のユニホームにはIIDAとあった。

 長音はヘボン式でも書ききれない。私がお世話になっている中央林間はなんと書けばいいだろう。アルファベットの上に横棒をつけるŌが今のところ最適解だろう。この字をスマホで出すのはOを長押しするといい。

 いずれにしても発音体系が異なるローマ字で日本語を完全に表記することはできない。韓国人の英語表記は日本よりもっと自由でバラエティに富む。イさんがなぜLeeなのか、パクさんがどうしてPark なのか。理由などない。そう決めたからそうなのに過ぎない。

 日本も自分なりの表記を決めてしまえばいいだけのことだ。それを海外にどれだけ説得できるかが国力というものなのだろう。

詩の授業

 中学時代の国語の授業で何をやったのか、実はほとんど覚えていない。教材の名前が上がればそのことは思い出してもどんな内容だったのかは忘却の彼方にある。だから、私が教えたことをいつまでも忘れるなとは人には言えない。

 ただ一つ印象的だったのは詩の授業だった。詩は声に出して読まなければ本当の良さは分からない。そういう説明を受けたあと、ひたすら音読、朗読をさせられた。随分変わった授業だと思った。その頃の私は素直であったから、こんなことをして何になる。時間の無駄だなどとはつゆ思わず。級友と声を合わせることを素朴に楽しんでいた。

 いまになって考えるのだが、韻文の楽しみはこれがきっかけに始まったのかもしれない。いまでも駄作を作り続けているのはこのときに詩歌の価値を気づかせてくれたからかもしれない。



 その師はすでに天に召され、授業の目的は何だったのかを教えていただくことはできない。ただ、いまの私には何一つ心に残す授業はできていないと考えるばかりだ。

共通テストの国語を解く

 大学共通テストの国語は来年から形を変えることが発表されている。そこで現行の形態としては最後の問題を解いて感想を書き留めておこう。

 まずは相変わらずの分量の多さである。表紙を除けば50ページにもなる問題を最後まで解ききるにはそれなりの練習と、くじけない気持ちが必要だ。さらにあまり時間をかけられないので大づかみに内容をとらえることも必要になる。これらは機械で代替できる能力と私は考えるが、センター試験時代から情報処理能力、もしくはマニュアル力重視の傾向は変わらない。

 受験生にはそういう批判をしている暇はない。とにかく解かなくてはならない。現代文ではまずさきに注に目を通し、どんな文章なのかを予想する。次に共通テストの場合は先に設問を見たほうがいいようだ。特に各大問の最後にあるいわゆる新傾向の問題は、出題者が問題文をどのように読ませようとしているのかを示しているものなので、そこに目を通すべきだ。

 基本的に選択問題ばかりなので、ダミーとなる選択肢を見抜かなくてはならない。間違い選択肢を3から4ほど作らなくてはならない出題者は、文中に書かれていないことを含める、因果関係の矛盾、極端な強調、別の論点からの引用などの手法を用いる。選択肢を選ぶ前に自分なりの解答を作ってからでないと迷うことになる。

 古典分野のうち古文は脚注から見るべきだ。今回は江戸時代の擬古文であるが、そのことは実は後半の設問に書いてある。だから、古典においてもまず設問のすべてに目を通しておいた方がいい。今回はストーリーとしては難しくはないはずだが、和歌の贈答がなによりも優先される高雅なコミュニケーションであるということを知らないと何を言っているのか分からない。

 漢文は漢詩と史書の組み合わせという特殊なものであったが、やはり玄宗の楊貴妃に対する溺愛や、安史の乱などの世界史的な知識があった方が理解はしやすい。百姓の意味など歴史の知識があれば即答できるものもある。語彙や句法などを知っていればできるなどと思わず、歴史的背景に関心を持つことが大事だ。

 難易度的には難しいという訳ではないが、とにかく分量が多すぎる。手際よくできる問題から解答して失点を抑えるという方法が求められている。分量に圧倒されないよう、受験生は普段から長文の問題を読む練習をしておいた方がいい。そして大切なのは数をこなすことだ。残念ながら熟読玩味の能力は問われていない。多くの出題の型を体験し、高速で解答することを目的として練習しよう。

 そのためには高1や2で語彙を増やし、漢字を書き、古典文法や漢文句法を繰り返し学習することが肝要である。私の理想とする国語学習とは程遠いが、こういうテストが課される以上は対応せざるをえまい。

意味の組み合わせ

 生成型AIを使っているとやはり意味の解釈という段階において難があると感じる。よく言われるようにAIは意味を理解しているのではなく、語の結合の確率の高さで回答を組み立てている。

 ただ、それならAIを辞書代わりに使えることの理由はなんだろう。例えばある熟語の意味を説明せよと指示するとかなり適切な答えが返ってくる。反対語や類義語を聞いてもそれはできる。おそらくこれはAIが得意なことのひとつなのだろう。それはある語の意味を検索して答えることには、少々複雑な表現になるが意味の解釈が行われていないからだ。

 最初に述べた意味の解釈をしていないというのは文脈の中で他の語との関係でいかなる意味を表現しているのかということなのだ。今のところこれが機械が苦手なことなのでChatAIの珍回答が生まれてしまうのだろう。

 文脈の中で解釈するとは国語教師の口癖のようなものだ。つまり、この物言いは人間らしい思考とその表現をせよということだったことになる。

いいお知らせと悪いお知らせ

 読書感想文の宿題が出てうんざりしている皆さんにいいお知らせがある。みんなの苦労をもしかしたら数分で肩代わりしてくれる便利なものがある。ChatGPTというサービスを使おう。例えば「私は中学2年です。『坊っちゃん』の読書感想文を800字くらいで書いて」と入力すればすぐさま、それらしい文章が画面に現れる。それを写せばいい。文章自体は自然なので先生も気づかないかもしれない。

 悪いお知らせもある。こうやって作った文章は内容が間違っていることがある。いもしない人物が出てきたり、ストーリーが違ったりするかもしれない。君の先生がきちんと文章を点検するまじめな先生ならば、そして先生も小説を読んだことがあるならば、その矛盾に気づき、君の悪だくみを見破ることになる。きっとものすごく怒られることになる。

 もっと悪いお知らせもある。宿題を出せたとしてもあなた自身の文章力は一向に上がらない。文章が書けない人は読解も苦手だろう。結果としてあなたは文章が苦手な人になり、文章が上手な人たちに将来丸めこまれることになるだろう。色々な不利な条件を巧みに突きつけられるがあなたはそれに気づかない。そんなことは許さないと叫んでも遅い。彼らは言うだろう。説明はしましたよ。文書でもお渡ししました。あなたのサインもあります。お読みいただきましたか。あなたは心のなかでこういうことになる。読んでもさっぱり分からなかったんだと。

 便利なものができると失うものもある。車ができて人々は歩く力を失った。交通事故で命さえ奪われている。作文を書く機械はあなたから大切な未来を奪うかもしれない。