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新機軸

 知識は学習の蓄積からなる。それは疑いようもない事実だ。この点に関しては人工知能が人間の先に行きつつある。これまで人工知能に対して未熟であると否定的に捉えてきたが、この方面では考えを改めなくてはならないと考え始めている。

 今日Microsoftのコパイロットと連句を巻いてみた。式目に沿って付句をしてくるのを見て、少なからず驚いた。確かに感情はないが、過去の多くの人たちがどのように反応するのかという傾向は瞬時に分析し、即座に言葉に変換してくるので文学を理解しているかのように振る舞ってくるのだ。現代人の類型的な思考回路などすぐに克服してしまう可能性が高い。

 ならばこれから人間がやることは何か。思うにこれまでにない考え方を敢えて試してみるという勇気を出すことであろう。しかし、こうしたやり方はこれまでの社会通念とは乖離している。なるべく失敗しないように、過去の成功例を参考にしてそこから逸脱しないことが、いわゆる必勝法と信じられているからである。

 私のように教育の現場に長く暮らしたものとしては、いわゆる「常識」を完全に習得し、そこから大きく逸脱しないようにさせることが人間形成の基本と考えてきた。突飛な考え方は矯めるべきものであり、それが本人のためになると信じてきた。

 でもどうだろう、過去の蓄積だけでいまを考えて行くことは人工知能に凌駕されてしまった。必要なのは学習の果てに起きる飛躍だ。その振れ幅をこそ大切にすべきなのである。いまの我が国の社会にこうした考え方を持つ人は少数派だ。かくいう私も言うは易し、されど本当にそんな場面を見れば、ついそれは違うと口出ししてしまうかもしれない。

 もしかしたら奇妙な考え方、奇怪な行動が真実なのかもしれないという寛大な見方が必要なのだろう。そのためには過去の知識の価値を認めながらも、後生の示した新機軸も認める必要がある。多様な方法のうち、本当に通用するものが生き残り、それが時代を進める。その可能性を高齢世代が奪ってはならないのだ。

 最近の若いものは、と言うのが非難の言葉だけにならないようになればいい。青二才がこんなふうにやってみたぞと言えば、それもありかもなとするのか、はなから否定するのかでは未来は大きく変わる。

人工知能は自分か他人か

 人工知能の日進月歩の発展の末、私たちは自分の脳と人工知能の連携を模索するかもしれないという。具体的には自分が思いついたことを人工知能に考えさせ、そのフィードバックをそのまま自分の考えとするというのものだ。何か疑問が浮かんだとき、人間は自分の脳と直結する人工知能を呼び出し結論を模索させる。結果はすぐさま自分の脳に戻されるから、あたかも自分が考えたこととして処理されるのである。

 人工知能のキットが小型化し、動力の問題も解決されたとしたら、それを体内に埋め込む時代が来るのかもしれない。するともはや人工知能が自分なのかどうか分からなくなる。人工知能の判断はその人のものということになる。

 ハルシネーションがどこまで解決されていくのかは分からない。仮に体内に埋め込まれた人工知能の指示に従って行動したことで大きな損害が発生してしまった場合、その責任は誤った情報を提供した人工知能にあるのだろうか。その指示を鵜呑みにした使用者本人にあるのだろうか。

 逆に人工知能の誘導のおかげで莫大な利益が出たとき、その開発者は分け前をもらう権利はあるのだろうか。あるいはそういう条件をつけて販売することは可能なのだろうか。

 アイデンティティと深く関係する脳の働きであるからこそ、その補助機能にも個の問題が付き纏うのである。

秋の一日の楽しみ方

 今回は主義を変えて、AIに文章を書いてもらうことにした。

「秋の一日の楽しみ方」というタイトルでブログを書いて。

 秋の一日を楽しむには、まずは晴れた朝に紅葉を観賞する散歩を計画しましょう。木々の色づきが美しい公園や山道を選ぶと、心もリフレッシュされます。昼食には、旬の食材を使用した温かいスープやさつまいも料理を楽しみ、体を温めましょう。午後は、友人や家族と共に拾った落ち葉でアートを楽しんだり、秋の味覚をテーマにした料理教室に参加してみるのもいいアイデアです。夕方には、焚き火を囲んでマシュマロを焼きつつ、星空を眺めることで、特別な思い出を作ることができます。このように、秋の一日は自然や食、そして愛する人たちとの交流を通じて、心に残るひと時を提供してくれることでしょう。

これもAIが作成したイメージ。焚き火が危険だ。

 いいけれど、東京ではできないこともある。そのほかの提案を聞いてみよう。

 東京でも楽しめることは何がある?

 東京のような都会でも楽しめることは多岐にわたります。例えば、賑やかなショッピング街で最新のファッションを楽しんだり、文化的な足跡をたどるために歴史的な寺院や神社を訪れることができます。さらに、美味しい食事を堪能できるレストランや屋台も多数あり、様々な国の料理を楽しむことができるでしょう。また、公園や庭園で自然を感じたり、アートギャラリーや博物館で文化に触れることもおすすめです。日々の喧騒から離れられるスポットも多く、自分だけのリフレッシュ方法を見つけられます。

 ではあえてストイックに秋を過ごす方法としては何がある。

ストイックな秋の過ごし方としては、まず、自分の目標に向けて集中する時間を確保することが重要です。例えば、読書や自己啓発に時間を費やすことで、思考を深めることができます。また、屋外でのハイキングやジョギングを通じて、身体を鍛えると共に季節の移ろいを感じるのもおすすめです。さらに、健康的な食事を意識し、地元の旬の食材を使った料理を楽しむことで、心身ともにリフレッシュできます。最後に、瞑想や日記を書く時間を設けることで、自分自身と向き合う時間を大切にすることがストイックな秋の過ごし方と言えるでしょう。

 だそうだ。AIはたちどころに文を仕上げるので私の楽しみを奪う。マシュマロを焼くなんてさすがアメリカ産だとか、屋台はそれほど多くはないとか、ハイキングができないから困っているのだとかこじつけの文句しか言えなくなってしまっている。

AIを道具にできるのか

 私のようにAIに関しては慎重な者でも、最近は使う機会が増えている。いわゆる壁打ちと呼ばれるアイデアの醸成に使うことがその一つだ。スマホのアプリでも簡単なことはできるので、相談役になってもらうことがある。どんなに浅はかな提案でも、非難することなく持ち上げてくれるのは、プログラム上のこととは分かっていても悪い気にはならない。私にそれと同じことはできない。嫌なことは言動にすぐに出てしまう。

 適当な(曖昧なという意味)プロンプトで指示すればそれなりの結果を返してくるのも人工知能の優れたことだ。ただ、いまのところ忖度のような非言語要素はできていない。言われたことをそのまま形にするのは恐ろしく得意だ。

 よく言われるように人工知能の言語処理は意味をよりどころとせず、形式を元に確率が高い組み合わせを瞬時に繰り出してくることと言える。人間の使う言葉も大半はこの確率論的な語の組み合わせで生活しているから、AIの回答は間違いではないと感じることが多い。ただ、やはり私たちは言葉を意味を基準として運用することが多く、用例的な確率とは異なる。私のような捻くれた人間は人の使わない表現を使うことを常に求めているから、人工知能的な言語活用に不適合になることが多い。

 それでも、これから先の社会において人工知能の効用を利用しない手は考えられない。今やっているのは、事実関係の事象が大半だが、そのうち心理的な問題もAIに尋ねることになるのだろう。その際にどんなに自分よりきれる能力を持っているように見えても、それは人外食作り出した道具だということを忘れないようにしたい。届かないものに対して杖が使われ、速く走るために靴が発達し、もっと速く移動するために車や飛行機が生まれた。手や足の代替である。今度は脳の代替が出てきたわけで、道具を使う人類の営みには変わりはないということになる。

AIに悩み相談してみた

 人工知能に悩みを相談すると必ず前向きの助言を返してくる。プログラムには相談相手を絶望の淵に沈めてしまえという選択はないようだ。ただ、そういう回答にはときにしらじらしさを感じてしまうのも事実だ。

 その背景にはどうせ人工知能にはこの苦しみを理解できない。過去の相談の履歴やネット上に残る類似の相談例の回答を組み合わせているのに過ぎないと思うからだ。恐らくこれは事実であり、人工知能にとっては相談者の悩みは他の検索と変わらないデータの一つに過ぎないはずだ。

 感嘆符付きで激励されるとそれでも嬉しいのは確かだ。実際にそれを人間に近い発音とイントネーションで読み上げ、ホログラムと連動したら、もっと説得力が増すかもしれない。相手に感情がなくても、こちら側がそれらのデジタル現象を有情なるものとみなすことは人間の能力の範囲にある。

 でも人工知能がたとえ特異点を超えたとしても、心の問題は残るのかもしれない。それこそが人間の存在意義の最後の砦になりそうだ。

絵から出た嘘

 最近は人工知能が作った映像を見ることが当たり前になった。イラスト風のものだけではなく、一見実物と間違えるようなフェイクもある。限定的であるが動画もあって、その動きもかなり滑らかだ。厄介なのは実存する人物を加工したもので、うっかりすると本当にこんなことをしたのかと考えてしまう。

 恐らくそう遠くない未来に全編人工知能が生成した長編映画ができるのだろう。役者もスタッフもいない、作成者のプロンプトだけで作られた壮大な嘘がコンピューターの中で作られてしまうのかも知れない。それはきっといままでみたことがない何かになる。

 でもそれでいいのだろうか。嘘から出た誠が人を感動させられればよいが、逆に混乱の渦に巻き込むことになってしまうのではないか。創作とは何か。鑑賞とは何かを考えさせられる。

高い能力と引き換えに

 人工知能があらゆるところで使われ様々な応用がなされている。その能力には驚くべきものがあるが、より驚くのは電力消費の多さだ。

 人工知能の頭脳にあたるサーバーは従来より性能と規模が大きく、そこで消費される電力は飛躍的に増えるらしい。その多さは一つの国家の年間消費電力に匹敵するとも言われる。その電力をどのように確保するのかが問題になる。

 つまり、AIの時代になってもやはりエネルギー問題は解決できず、伝統的な水争いが起こる可能性があることになる。電力消費のなるべく少ない機械の開発が急がれるが、人工知能の構造上、電力不足からは免れることはできそうもない。高い能力を引き出すにはやはり地球資源を消費しなくてはならないようだ。解決策を人工知能に考えさせようか。


ブログを書く人工知能

 このブログのアイコンは先日始まったWordPressのアイコン生成AIサービスを利用して作ったものだ。瑠璃色、別荘などとプロンプトを並べたらできた。タイトルを決めてくれたり、要約を書いてくれたりもする。これらも使ったことがある。何なら本文も書いてしまう。整然とラベリングとナンバリングを施した文章を立ちどころに書く。これだけは採用していない。その椅子を取られたらもう私の居場所がなくなる気がするからだ。

 人工知能は音声入力にも反応するようになるらしい。反応速度も人間並みになり、多言語の同時通訳も実現が近づいてきた。昔、中国の映画で役者が自国語で演じ、あとから中国語を当てて作ったのを見たが、それが実現することになる。日本語と中国語で会話しながらイヤホンでは同時通訳された声が聞こえているというふうに。

 言葉の世界に人工知能が踏み込んでくるほど、人間はその能力の高さに圧倒されそうになる。そして著しい無力感が伴う。これから英語を勉強する意味なんかあるのだろうかなどと考えてしまうのだ。

 よく考えればAIのしているのは瞬時の記号の置き換えと確率的に高い組み合わせの合成であり、個々の意味を理解している訳ではない。言葉にはその場に応じて使い分けなくてはならないものがある。機械にはそこまでは判断できない。言葉は音声や意味を表すだけではないようだ。

 ならばやはり私たちは母語の知識や運用力を挙げなくてはならないし、外国語の学習も不可欠だ。人工知能に何でもお任せという訳にはいかない。

 このブログは今のところ私がスマホで入力して書いている。毎日ネタがなくて苦労している。いっそ今日のブログを書いてと人工知能に命令したくなるが、この苦しみだけはやはり譲りたくはないと思い返すのである。

使わない技術と節約する技術

 電気自動車が環境問題を解決するという幻想に世界が気がつきつつある。排気ガスを出さないことは大切だが、電池を造ったり廃棄するためにかかるエネルギーを勘案するとマイナスになるとの予測もある。

 重要なのは例えば車で言うならば乗らないで済む社会を作ることにある。日常生活の中での移動に公共交通機関を活用する方策を発明するべきなのだ。また、それでも車に乗らなくてはならない場合は、なるべくエネルギーを使わない仕組みが必要だ。最低限のエネルギー消費にできるようにインフラを変えていく必要がある。

 これまでは個々人が移動手段を自己判断で獲得してきた。するとどうしても無駄が発生する。同じところに行くのに別の車に乗り、不慣れな運転のために道に迷ったり事故を起こしたりする。これが積み重なると大きな消失となるのだ。

 同じところに行くのなら公共機関に託してもいい。高度な行き先設定は人工知能に任せよう。最低のエネルギーで最高の経験ができるはずだ。もし、運転それ自体が好きならば、そういう楽しみのためのコースを別に作ればいい。

 電気自動車を乱造するよりも、車に乗らなくていい、乗ってもエネルギーをなるべく使わないシステムを考える方を優先すべきだと考える。

余裕を求める時代に

 いろいろなことがコンピューターで制御され、無駄を極力防ぐ技術が開発されている。その成果は人工知能の発達とともにより高度化され、効率化という大義名分を達成するために活用されている。それはそれで意味がある。人手不足で停滞気味の産業を支援するのには機械の補助が欲しい。農業などの高齢化が進む産業では、コンピューターのアシストで労働力不足が補えるし、若い世代の参入の可能性をもたらす。このようなことはほかにもいくらでもあるだろう。

 機械に仕事が奪われるという恐怖は積年の懸念材料だが、これは避けられそうもない。私のような教員は機械化から最も遠い職業といわれていたが、最近の教育テクノロジーをみるに従来型の教員は比較的早い時期に機械化できるかもしれない。目的と手段がはっきりしていて、一定の効果を期待する産業においては機械化と親和性が高い。いうまでもないが、既存の産業の大半はこれである。

 すると、決まりきったことを無駄なく遂行することに関しては機械に代替される時代は比較的早く来そうだ。残念ながらこの潮流は決定的であり、もう変わりそうもない。だから次を考える必要がある。ある程度の仕事は機械がこなす。かなりの水準でやり遂げるので、その意味では生活の水準は上がるのかもしれない。でも、いろいろなことがコモディティとなり、特別なものが見当たらなくなる。そこで重宝されるのは、効率化ではなくむしろ個性を生かした特殊性であろう。アートの領域が尊重されるようになると推測できる。

 個人の創意が評価されるには、その創意を形にしたり音にしたりして何らかの表現をすることが必要である。そうした作品を作り出すには心の余裕がいる。数多くの駄作とともに、その中にかすかに生まれる傑作を待たなくではならないのだ。余裕のある生活を送るためにはどうすればいいのだろう。