イスラエルやパレスチナの問題に触れるたびに、人間の限界を痛感してしまう。相容れない民族が近接するときにいかに危機を逃れるのか。それが現生人類には解決できないのである。
理解できない相手がいる場合、戦いを選択するのは非常に愚かな手段だ。双方が傷つき、禍根を残し末代まで争うことになる。争うことを生き甲斐にし、同胞の死をも快感とするのなら話は別だ。そんな民族は実はいないはずだ。でも、主義、宗教、信念などの違いで簡単に争いが始まり、勝敗を決めることが自己集団の目的であるかのように振る舞ってしまう。争いは争いを呼び、その間に起きた憎しみは新たな憎しみを呼び出す。
そのような闘争を目にすると、戦わないことがあたかも悪のように思えてくる。結果として無駄な殺戮を繰り返し、多くの悲劇を生み出す。戦わずして自らの利益を守る方法を人類はまだ獲得できていない。ために結果的に同乗する船を傷つけ合い。やがてその船そのものを沈め、全体の死を迎えることになってしまう。こうした見通しは誰にもできるのに、結果として避けることができない。
中東だけの問題ではない。人類の知恵の段階として、こうした不幸は今のところ避けられないようだ。民族の利益のために人類全体の運命を想像できるほど進化はしていないのだ。それを思い知らされることに痛切な悲しみを感じざるを得ない。
私の人生のスパンでこの問題は解決しそうもない。未来はどうなのだろう。未開な21世紀は無駄な争いをしていたと後生に嘲笑されるならばよいが、この愚を繰り返し、全体の終焉に近づいていくシナリオが待っているとしたら残念でならない。
