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ノートは先生の言ったことの記録ではなく

 学生の頃、恩師の講義はもれなく記録しようとしていた。ときには小型カセットデッキを持ち込んで録音したこともある。ただ、いま考えると一字一句書き留めることには、それが講義そのものの記録を目的にするものでない限り必要ではなかったと考えている。講義の中で何を講師が伝えようとしているのかをまとめればよいのだ。

 その意味においてノートは講義の記録ではなく、講義で得た知見を自分の中に内在化させるための手段の一つなのである。教わったことを自分が使えるものにするために場合によっては自らの経験や知識を加味してまとめ直すことが行われる場なのだ。

 このことは中等教育の時点で教えておく必要を感じる。単に黒板の文字を写しておしまいではなく、それを自分の言葉で説明できるようにしておく。そのための作業をするための空間がノートなのだと言える。

 きれい書くとか、カラフルに書くといった指導は要らない。本人にとって自分の思考が展開できるものであればよいのだ。よく、有名大学生のノートを模倣すべきだという発言があるが、これも絶対的なものではない。個人にとって使えるものであればなんでもいいのだ。講師との対話、もしくは自分自身との対話が模擬的に行われるスペースなのだ。

 ノートに関しては私自身も最近は講師の話を批判的に聞き、メモには自分の考えも加えている。その方が余程記憶に残るし、使える知識になりやすい。

ノートの取り方模索中

 ノートの取り方をいろいろ考えている。私自身のノートもそうだが、生徒諸君に提案することを前提にしている。様々なノート術の本や動画サイトを見て、実現かつ持続できそうな方法を考えているのだ。凝ったレイアウトは始めはいいが、その都度線を引くのは続かない気がする。

 ある人の意見と重なるところもあるが、今考えているのは以下の方法だ。

  • ノートは必ず見開きで使い左ページの左端4〜5センチは何も書かない。
  • 習慣化するまでは線を引いて仕切ってもいい。
  • 左ページの残りの部分を授業や講演のときのメモ欄にする。
  • 右ページはメモを取った情報を短文にまとめ直すために使う。
  • さらに書き足したいことがあればここに追加する。

 これは話を聞きっぱなしにせず、自分の言葉で置き換えることを日常化するための手段である。

 現代文のノートを思い出していただきたい。教師が黒板に書いたことをただ写すだけで、後で読み返してもなんのことか分からない。授業では分かったつもりになっても時間が経つと何だか曖昧になっている。それは教師がまとめた言説を表面的に写しただけで本当は理解できていないからだ。

 理解するためには自分の言葉で説明できる必要がある。その過程をノートで可視化しようという訳である。

 さらにこの方法は他人に自分のまとめ(言い換え)が正しいのか検証する段階がいる。ノートの右ページを相互評価し、過不足を点検する機会を設けたい。これを習慣化させることができれば国語力の向上につながるはずだ。

後で書くのがノートの奥義

巷のノート術を読んでわかったこと

 講演などのノートをとるとき、多くの場合スライドや板書(黒板などに書くこと)された文字や図だけを移すことになる。書かれなかったことでも大切だと感じたとことはメモをとることが多い。ただ筆記に熱中しすぎると肝心の話の内容が理解できなくなる。ノートの目的はあとで思い出せるようにするための鍵となる言葉や図を書いておくことなのだ。

 さまざまなノート術の本やサイトを巡覧するに、ノートには次の3つの記入欄をつくり、一覧できるようにレイアウトするのがいいらしい。

  • ① 講演を聞きながらメモを取る欄
  • ② ①を読み返しながら、その見出しを作る欄
  • ③ ②の整理に基づき、自分の言葉で内容をまとめ直す欄

見出しをつけて内容を整理する

 ②は雑然ととったメモにまとまりをつけるための作業である。つまりあとから見出しをつけることだといえる。先述したノート術指南書のなかにはここを質問形式にしてみるといいとあった。例えば「もっとも効果的なノートのサイズは?」の様に書いて、①の欄を隠して再現できるのかをチェックするのだという。それもいいが、私はそれぞれの話のエッセンスを俳句くらいの長さ(つまり17音)くらいにまとめる方がいいのではないかと考える。たとえば「書きやすく持ち運ぶにはB5メモ」とか「ノートのサイズはA4がいい」などである。これは話の要素を短くまとめる作業だ。

自分の言葉でまとめ直す

 ③が実は一番大切で、ほかは実は何でもいい。聞いた内容を自分の言葉でまとめ直すのは知識を内在化し知恵に深めることの手助けになる。この際大切なのは教師なり講師の話し方や用語そのものに拘らず、あくまで自分の持っている言葉でどんな内容だったのかを記すことだ。この方法だと正確な記録にはならない。ただ、個人がもつノートは公式記録である必要はない。自分勝手なまとめであるべきだ。逆に言えばこの自分なりの言語化ができなければノートを取る意味は半減する。

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 ビジネス用途の場合は、もともと識者の見解を正確に覚えることよりも、それを自分の仕事の中でどのように応用するかという方に関心があるはずだ。偉い先生が何を考えていようと構わない。要するにそれは使える考え方なのか、使えるならば使ってやろうというのが目的のはずだ。ならば、この欄は自分ならばこう使うという視点でまとめればいい。学問の世界とこの点は違う。

ノートの取り方は誰に習う

 学校でノートの取り方を習ったことはあるだろうか。ノートの大きさや大体のレイアウトは教えられても、どのように書くのかは教えられない。まして何を書けばいいのかとか、そのように書くのはどんな意味があるのかといったことも習わない。せいぜい字はきれいにとか、落書きするなとか、板書したことは書きなさいとかだろう。実はわたしはこれらを今は言わないようにしている。

 字はきれいな方がいいがノートの場合は自分が読めればいい。人に提出するものは別だ。落書きは関係がないものはだめだが、授業を聞きながら思いついたものなら絵でも漫画でもなんでも書けばいい。ただし、熱中しすぎると肝心なことを聞き落とすので細かく描くのはお勧めしない。板書したことを全部書く必要はない。それも話し手の思考整理のために書いているのに過ぎない。自分があとで思い出すために必要だと感じるだけ書けばいいし、足りなければ書いてなくても付け足す。

 ただし、復習の際に書くのは日本語(自分の一番使える言語)の文章でまとめるようにする。図表にだけにするとわかったつもりになってしまっていることもあるので、きちんと言語化したい。その際に自分の感想を付け加えてもいいが、まずは話されたことは何かをまとめてから、それとは別に「以上の話を聞いて」とか「以下は私の感想だが」などで書き始めるようにする。こういったことは中高生のうちに学校で教えるべきだろう。

まとめ

 以上から考えるとノートを取るにあたって復習ということがいかに大切かということだ。話を聞きっぱなしにせず、今日はどんな話をきいたのかを思い出し、それを自分の言葉でまとめ直す。その作業をどれだけ繰り返すかが学びの成果に大きく関わる。そしてこういうノートの使い方は学校で教える必要がある。

写経という学び

 中世の学僧が残した写経の展示を見てきた。写経が歴史の中では重要な修行となっており、多くの写経僧が存在したことは承知していたが、実際の文書を見るとその情念の深さが伝わってきた。

 写経のようにノートをとるなとはよく言われる。これは黒板の文字をただ写すだけでは学習効果は上がらないという意味だ。ただこれは本来の写経の意味を取り違えている。

 写経は経典をただ書き写す行為ではなさそうだ。写しながら学びとるものがたくさんあったのだ。写経を通して仏教の教えを体得するのだ。その意味で写経は決して受動的な行為ではない。

 現代でも写経に心の安定とか鎮静を意図して行うことがあるという。決して単なる書き写しではないなにかを感じているのだ。

紙とペンと

 学習効率を上げるためにはやはり従来型の紙に書く方法が今のところは一番いいらしい。なんでもコンピューターに委ねられるほど人間の脳は進化していないのだ。

 そこで私は原稿用紙を持ち歩くことにした。百均の原稿用紙とそれをいれるケースを鞄に入れて歩けばいいことに気づいたのである。ペンは本当は万年筆で書きたいが外出先ではサインペンでいい。筆圧をかけずにかけば万年筆のようにも書ける。

 このブログで書いているような雑記的なものを原稿用紙にも書き始めている。この方は推敲して後日何らかの形で公開したい。手書きのほうが慎重に書くので少々内容も異なる。

 ペンで書くこということは意外にも大切だと再認識した。思えば人生の半ば辺りからキーボードに筆記行為を委ねてきた。あるときには不可逆な流れとも思ったが、いまは手書き文字でも簡単にデジタル化できる時代になった。いろいろ考えると自分の能力では手書き文字を書くほうが効率も上がるようだ。

パソコン前のメモ

 パソコンの前に置くメモ帳というものが売っている。高さがなく、横長という寸法だ。確かに狭い空間に置くのに相応しい。真似してみようと考えた。

仕事柄、いわゆる裏紙、つまり余ったり失敗したりしたコピー用紙には事欠かない。環境問題などを口にしながら、この用紙を捨てることも多い。ならば、裏面を利用して最大利用しようと思う。ただB4やA4のままではかさばるし、結局邪魔ということになる。そこで例のパソコン前サイズに切ってクリップで留めるといいことに気づいた。

 ペーパーレスと言われ、電子メモアプリも使うがやはり手書きほど便利ではない。しばらくは短冊のような紙の束のお世話になる。

ノートに書き出す

 小型のノートをいくつもの持っている。ほとんどが着想をメモするためのものである。でも本当にやりたいのはテーマごとに自分のアイデアをまとめる随筆集を作ることだ。

 私の場合、雑多な思いが未整理のまま浮かんではすぐ消えていく。その中にはなかなか面白い考えだと自己満足するものもあるが、大抵は忘れてしまう。これをなんとか記録したい。

 このブログはもはや雑記帳のようなものだが、キーボードなりスマホのフリックなりをしていると、瞬時の発想を残せない。

 それを手書きのメモに書き込めばかなり記録はかなり捗る。ただ書き取るのではなく自分なりにまとめ直したり図表化することも簡単だ。実はこのブログの記事の中には、始めは手書きのメモだったものがかなりある。

 逆にブログに書いたものをノートに書き出すこともやってみたい。ただ写すのではなく推敲しながら完成形にしてみようと思う。

なんでも写すな

 学生の頃、指導教授の講義を徹底的にノートしたことがある。それこそ速記のようだった。一部に記号を使い、時間短縮した。細かい言い回しや余談までもれなく書いた。こういう方法は今の学生諸君には勧めない。

 ノートを写すのに熱中しすぎるとかえって大切なことを聞き逃すことになる。私が速記方式にしたのは先生の学説というより、お人柄、人間性、さらにはそこから滲み出る表現方法に心酔していたからであり、必要な情報を受容したいのなら、こういうノートは取るべきではない。どうしても記録したいのならボイスレコーダなりを潜ませればいい。きっと再生することは稀だろうが。

 おすすめするのは要点のみ箇条書きでメモし、その後に自分の感想や疑問点を書くことである。人の話を聞きながら、自分の考えを書くということになる。質疑応答の時間があればその場で質問し疑問を解消できる可能性がある。なくても授業や講演のあと、調査するきっかけができる。

 なんでも写すな。自分の考えを書けというのが最近の私のノートの取り方だ。

創造心

 何かを新しく作るということには様々な魅力があります。それは希望でもあり夢でもあります。

 まったく新しいものなどは作りようもありませんが、せめて自分なりのアレンジをして結果的に少しずつ変化させ結果的に新しいものにたどりつくということを考えています。そのためにはいつも現実に向き合って妥協をしないという態度がいるでしょう。

 何になるのか分からないけれど気になることは気にとめ、場合によっては記憶しておくという習慣が必要です。その意味でノートや手帳、このブログのようなデジタルデバイスを活用すべきでしょう。

 次のためにいろいろな下積みをしておくことは新しいものをつくるためには大切なのです。

仕事始め

 私の職場は今日が仕事始めです。今年は仕事の仕方を本格的に変えていかなくてはならなくなる事態に至ります。

 効率もしくは生産性を下げることなく時間を削ることが焦眉の急である現実の中で必ず取らなくてはならないのが同僚とのコミュニケーションです。自分だけうまくやっても集団としての力が生まれなくては生産性は上がりません。連絡の時間を確保しながら、互いの時間を阻害しないことを第一の計画目標としなくてはなりません。

 私のような職の場合、相手に合わせて業務内容を変えることも重要です。すると自分のやりたいことだけをしていても無意味です。場合によっては計画変更が大きく起こることもあります。それでも対応できるように余裕と、常時計画の見直しとをしていく必要があるのです。

 これらを行なうための道具として、ノートとスマートフォン、さらにこのブログを使っていきます。ノートは思考の整理のために、スマートフォンは計画を持ち歩いて参照するため、そしてブログは反省と決意を示す手段として。もちろんそれだけではないのですが。少ない時間を活用するためにできることから始めていきます。