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効率化は早く帰ることとは違うようだ

Excelの関数を少しずつ覚えたおかげでできることが広がった。かつては手作業でやっていたことの大半は関数の知識だけでもなんとかなる。プログラムを施せばもっとできることが増えるのだろうが、いまのところ人の作ったもののマイナーチェンジが関の山だ。ただ、これらを使って仕事の時間が減ったかといえば答えは否である。

 私の仕事は対面的なものなので、結局人と付き合う時間は確保しなくてはならない。コンピュータ任せにした仕事で浮いた分を、個人とのコミュニケーションに費やすから、仕事時間はあまり変わらない。対人時間を増やした分だけ仕事のやり甲斐は向上した。単純作業に費やす時間は減らした方がいい。

 働き方改革政策の影響で退勤時間は厳しく制限されるようになった。時間内に終わらせる為に自動化はやはり欠かせない。そして、その分直接対象者と話し合う時間を設けるべきだろう。私の職場の話なのだが、これは我が国の復活のためにも不可欠だと考える。

始めのコンピューター

初めて使ったコンピューターについて書いてください。

 日本人だけが知っている事実かもしれない。私が学生の頃は日本独自仕様のNECやエプソンが販売していたコンピューターがあった。私の最初のコンピューターは日本電気のPC9801‐RA21で定価で50万円近くしたものだ。奨学金を注ぎ込んでしまった。フロッピーディスクをメディアとして使い。ワードプロセッサの松や、ロータスという表計算ソフトを使った。いまから考えると恐ろしく低スペックなものだったが、当時としては画期的だった。

 このパソコンでいくつかの文章を書いた。学生時代は論文を書いた。インターネット普及以前だったので、やれることは限られていたが、それ以前に使っていたワードプロセッサ専用機に比べていろいろなことができるのが、魅力的だった。ドットインパクト式のプリンターを繋いで一丁前の文筆家気取りにもなれた。

 一人暮らしをしていたのでゲームにはまってしまったのも、この機械のせいだ。睡眠時間を削ってまでやったこともあったが、その内容はほとんど覚えていない。無駄な時間を使ったかと思う反面、ゲームをやっても何も変わらないという学びを得た。いや、紆余曲折があっても簡明なストーリーが人を惹きつけることを学べたのかもしれない。

 その機械は大事に使っていたのだが、ある日水を被ってしまいあっけなく壊れた。その後ノートパソコンを使い始めて、いまはもうデスクトップを所有する機会がなくなってしまった。コンピューターを大事に使っていたあのころの気持ちを思い出さなくてはならないと思う。

 

ブログを書く人工知能

 このブログのアイコンは先日始まったWordPressのアイコン生成AIサービスを利用して作ったものだ。瑠璃色、別荘などとプロンプトを並べたらできた。タイトルを決めてくれたり、要約を書いてくれたりもする。これらも使ったことがある。何なら本文も書いてしまう。整然とラベリングとナンバリングを施した文章を立ちどころに書く。これだけは採用していない。その椅子を取られたらもう私の居場所がなくなる気がするからだ。

 人工知能は音声入力にも反応するようになるらしい。反応速度も人間並みになり、多言語の同時通訳も実現が近づいてきた。昔、中国の映画で役者が自国語で演じ、あとから中国語を当てて作ったのを見たが、それが実現することになる。日本語と中国語で会話しながらイヤホンでは同時通訳された声が聞こえているというふうに。

 言葉の世界に人工知能が踏み込んでくるほど、人間はその能力の高さに圧倒されそうになる。そして著しい無力感が伴う。これから英語を勉強する意味なんかあるのだろうかなどと考えてしまうのだ。

 よく考えればAIのしているのは瞬時の記号の置き換えと確率的に高い組み合わせの合成であり、個々の意味を理解している訳ではない。言葉にはその場に応じて使い分けなくてはならないものがある。機械にはそこまでは判断できない。言葉は音声や意味を表すだけではないようだ。

 ならばやはり私たちは母語の知識や運用力を挙げなくてはならないし、外国語の学習も不可欠だ。人工知能に何でもお任せという訳にはいかない。

 このブログは今のところ私がスマホで入力して書いている。毎日ネタがなくて苦労している。いっそ今日のブログを書いてと人工知能に命令したくなるが、この苦しみだけはやはり譲りたくはないと思い返すのである。

手書き入力

 スマートフォンで手書き入力をためしてみた。意外と正確に反映出来ることに驚いた。画数の多い漢字は片手持ちの親指書きではさすがに難しいが、それ以外はむしろ思ったよりいい。

 タブレット端末等を机上で使うときは手書き入力にしようと考えた。その方が思考のスピードに合う気がする。文字を忘れないようにするためにもいい。

 音声入力もかなり精度が上がっている。ただこれは周りに人がいるとき、図書館などの静粛が求められる空間では使えない。手書き入力の可能性をもう少し追求してみようと考えている。

余裕を求める時代に

 いろいろなことがコンピューターで制御され、無駄を極力防ぐ技術が開発されている。その成果は人工知能の発達とともにより高度化され、効率化という大義名分を達成するために活用されている。それはそれで意味がある。人手不足で停滞気味の産業を支援するのには機械の補助が欲しい。農業などの高齢化が進む産業では、コンピューターのアシストで労働力不足が補えるし、若い世代の参入の可能性をもたらす。このようなことはほかにもいくらでもあるだろう。

 機械に仕事が奪われるという恐怖は積年の懸念材料だが、これは避けられそうもない。私のような教員は機械化から最も遠い職業といわれていたが、最近の教育テクノロジーをみるに従来型の教員は比較的早い時期に機械化できるかもしれない。目的と手段がはっきりしていて、一定の効果を期待する産業においては機械化と親和性が高い。いうまでもないが、既存の産業の大半はこれである。

 すると、決まりきったことを無駄なく遂行することに関しては機械に代替される時代は比較的早く来そうだ。残念ながらこの潮流は決定的であり、もう変わりそうもない。だから次を考える必要がある。ある程度の仕事は機械がこなす。かなりの水準でやり遂げるので、その意味では生活の水準は上がるのかもしれない。でも、いろいろなことがコモディティとなり、特別なものが見当たらなくなる。そこで重宝されるのは、効率化ではなくむしろ個性を生かした特殊性であろう。アートの領域が尊重されるようになると推測できる。

 個人の創意が評価されるには、その創意を形にしたり音にしたりして何らかの表現をすることが必要である。そうした作品を作り出すには心の余裕がいる。数多くの駄作とともに、その中にかすかに生まれる傑作を待たなくではならないのだ。余裕のある生活を送るためにはどうすればいいのだろう。

      

意味の組み合わせ

 生成型AIを使っているとやはり意味の解釈という段階において難があると感じる。よく言われるようにAIは意味を理解しているのではなく、語の結合の確率の高さで回答を組み立てている。

 ただ、それならAIを辞書代わりに使えることの理由はなんだろう。例えばある熟語の意味を説明せよと指示するとかなり適切な答えが返ってくる。反対語や類義語を聞いてもそれはできる。おそらくこれはAIが得意なことのひとつなのだろう。それはある語の意味を検索して答えることには、少々複雑な表現になるが意味の解釈が行われていないからだ。

 最初に述べた意味の解釈をしていないというのは文脈の中で他の語との関係でいかなる意味を表現しているのかということなのだ。今のところこれが機械が苦手なことなのでChatAIの珍回答が生まれてしまうのだろう。

 文脈の中で解釈するとは国語教師の口癖のようなものだ。つまり、この物言いは人間らしい思考とその表現をせよということだったことになる。

道具を大切に扱うことの意味

 海外でプレーしたスポーツ選手が驚くのは、日本のように道具を大切にする国は少ないということだそうだ。日本では道具を大切に扱うことを幼い頃から教えられる。それは道具の値段が高かった時代の習慣が残ったのものともいうがそれだけではなかろう。どうも私たちは道具に特別の意味を見出そうとする伝統を持っているようだ。

 すべてのものに霊性が宿るという多神教の考え方には、日本人の考え方の基底となるものがある。道具を大切な扱うのはその道具にも霊性を感じているからというのは言い過ぎだが、少なくとも自分の大切な道具は単なる物質ではない。そこに何かを感じるからこそ、愛着も湧き感謝の心も起きる。針供養をする文化は細部に亘って様々な価値観を創出している。

 現代でも私たちはロボットに名前をつけ大切にする。そこに人間的要素を見つけようとする。道具に霊性を見出そうとする行動様式は現代も継続している。

 最近、ファミレスなどで動き回っている配膳ロボットの中には猫のような言葉を使うものがある。自動運転式移動ワゴンに動物的な要素を付け加えたのだ。このロボットには一見無駄かと思われる機能がある。機械の一番上のあたりを撫でると喜んだり、怒ったりするというものだ。配膳作業には無関係だが、ロボットに親しみを感じさせる役割を果たしている。霊性を感じさせるための余計なしかし大切な機能だ。

 私たちが道具を大切に扱うことをごく自然に行えるのはこうした民俗が影響している。大量生産大量消費を前提とした西洋文化に批判がなされ、持続可能性が強調されている今、この考え方は見直されてしかるべきだ。

教科書2冊配布もしくは

 義務教育の教科書は税金で賄われている。裏表紙にはこれは国民の税金で提供されているものだから大切にするようにという注記がある。しかし、この教科書が重い。

 いくつかの教育委員会では教科書を学校において帰ることを許可している。荷物を軽くするためには仕方がないという訳だ。タブレットやパソコンは持って帰れという。私は逆がいいと考える。

 教科書類が重いのは事実だが、大抵の場合、毎日の詰替ができていないことで必要以上に重くなっている。資料集などは自宅に置かせ、授業で必要なものだけを持参させるのがよい。パソコンやタブレットは学校に置いて行かせ、充電もできるようにすればいい。鍵のかかる充電器具の確保などの設備投資はいるが。

 家でネット検索をさせる必要はない。多くの家庭では子どもに貸せるパソコンを持っているかもしれないので、家庭での検索は禁止などと言っても無意味だろうが、少なくともデジタルデバイスで宿題をやらせるべきではないだろう。

 紙媒体の教科書による学習効率はやはり高い。だから、家では伝統的な学習法に集中させた方がいい。この方が成果が上がるはずだ。子どもの頃からデジタル機器になれさせるべきだ。使えないと困るという親は今のデバイスの使いやすさを知らないのかもしれない。少なくとも義務教育の間にプログラミングやデジタル処理技術は教える必要がない。余裕があり、趣味的にやりたいならば学ぶべきだが、少なくとも他の基礎的学習の時間を削ってやる必要はない。

 それでも鞄が重いというならば、検定教科書の2冊目を有償で販売してもいいと考える。価格設定は高めでもいい。1冊の教科書に書き込んで使い尽くす方がいいと思うが、必要な人には売るという方法もある。コンピューターを使って考えたふりをするよりも遥かに期待できることが多い。

面倒な文章は

 ビジネスの場面にはほとんど意味がない文章のやり取りがある。手続き上出さねばならないが、実は受け取る側もよく読んでいないというものである。よく考えてみれば無駄だ。

 ならばやめてしまえばいいのにとも思うが、そう簡単ではない。言葉を使ってやり取りがなされたという実績を残す必要があるのだ。そうすることで丸く収まる。

 こういう考え方をする限り、ならばいっそのことこのような文書は機械に任せてしまおうということになる。いまでもかなりの分野はテンプレートを少し触っただけの心のこもっていない文書がやり取りされている。それを少々問題視する向きもある。注目されてしまえば書かざるを得ない。この前と同じコピーが届いたと言われる前に。

 そこで登場するのが生成AIである。ある程度の注文を行えばそれなりの文章を作成する。その都度、少しだけ気の利いたことを含めば、素っ気なさは解消できる。ただ心がこもってないことは変わらない。少々人間らしい文章を書いて相手をごまかそうとしているだけだ。

 相手もこのことは十分に承知しているから、相手の心のこもっていない文書を、心を込めずに読む。しばらくしたらこの読むのも自動化されるはずだ。相手の文書を読んでその内容を分析し、相手の誠意なり、信憑性なりを数値化して示してくれるアプリを使うことになるだろう。

 コンピューター同士が相手の動向を考えて処理する中で、人間はますます人間関係の機微を考えられなくなる。相手の会社にはいかない方がいい。ボロが出てトラブルを引き起こすことになるだけだ。

 文書作成のレベルならもうかなり高水準で自動化が達成されているし、これに静止画や動画を加えることも後わずかで実用化しそうだ。われわれは、コンピューターに全てを委ねてはなるまい。考えなくなった脳はたちまち退化し人間の可能性を著しく低めることにつながるだろう。

副操縦士

 マイクロソフトは生成AIを組み合せてIT業界のゲームチェンジャーになろうとしている。WordやExcel、PowerPointなどのソフトウェアに生成AIを組み合わせることで画期的な事務系ソフトウェアを作ろうとしている。しかもその名はCopilotという。

運転手は君だ? 車掌は僕だ?

 副操縦士を意味する言葉を商品名に置いたのは、あくまでも主体は人間であり、AIはその補助役だと言いたいのだろう。ただし機長の座は安泰ではない。副操縦士が優秀すぎるのだ。

 Excelで自動作業をしようとすれば、これまではマクロとかコンピュータ言語の知識が不可欠だった。それが将来的には日本語で指示するだけでプログラミングしてくれることになりそうだ。もうこうなるとソフトウェア自体がブラックボックスだ。箱に入れるだけで見事に求めるものを出してくれる。ただ箱の中身で何が行われているのかは知らない。

 そういう時代がすでに始まっている。便利だが説明できないものに囲まれる環境に覆われつつある。シンギュラリティは近い。

 私たちは機長席を死守すべきなのだろうか。安全で無事故率が限りなく100に近いなら、副操縦士の昇進を祝うべきなのか。

 私としては少なくとも自家用セスナにおいては機長であり続けたいと考えている。その結果墜落死しても構わない。いつまでも飛び続けますがどこに行くのかは教えませんというよりましな気がする。おかしいだろうか。