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応援

 スポーツ観戦での声出し応援が再開されている。応援など無意味な自己満足だと思っていたが、この制限下においてそれが間違いであったことが明かされた。スポーツはやはり気持ちが大きく左右する。人間の行うことはそこが違うと感じた。

機械化した分、面談に

 提出物をバーコードで管理することにした。完成しているプログラムをお借りし、試したところ使用に耐えることが分かった。少々カスタマイズが必要だが、これで数十分から一時間程度の業務時間短縮ができそうだ。

 浮いた時間で何をするか。それは個別面接の機会を増やすことだろう。私が業務を機械化したように、生徒も学習活動の一部もしくは大半をコンピューターで行っている。活用の仕方が間違っている場合は、思考の過程を飛ばして答えだけを書いてきてしまう。

 教員として心がけたいのは結果より過程ということだ。何をどう考えたのか、それをどのように説明するのかを指導しなくてはなるまい。テストやレポートの採点結果より、重視すべきなのは解答の作成過程である。

 ただそれを評価することは難しい。学習の場面に立ち合うことはできない。できたとしても学習者の妨害にしかなるまい。だから、次善の策として提出後に面談を行い。どのように学んだのか、学んだことは何かを自分の言葉で語らせるようにすればいい。

 いままでは業務時間内に事務的な仕事を終わらせるので精一杯で、面談にかけられる時間は限られていた。人間が不要な部分は思い切って機械化し、対人指導に注力しよう。生徒には煙たがれるが、今はそれがもっとも効果的な気がしている。

AIは著作権を知らない

 AIのChatGPTなどで質問するとたちどころに回答がある。しかし、これはAI自体が考えたものではなく、既存のデータから適当なものを拾い合成しているようだ。だからときにキメラ的な回答になることもある。

 とても便利なのだが少なくとも今私が無料で使っているものの場合、典拠は示されず、どのような改変をしたのかも分からない。だから、AIが独自に考えたように見えるのだ。

 イタリアでは著作権侵害などの理由でこのシステムの使用を制限するらしい。著作権に関しては厳しいEU諸国が追随する可能性は高く、AI検索システムには一つの関門ができた。

 とはいえ、画期的な検索方法を使わないという選択はあり得ないだろう。典拠や回答の生成情報を付記することはさほど難しいこととは思えないし、著作権法に対応した運用もなされるはずだ。

 私は著作権に限らずこの自動検索の過程に意味的理解がなされていないことが懸念事項と考える。配慮とか尊敬といった考え方が存在しないと思わぬ結果になり得る。それをクリアすることが何よりも優先すべきことである。

自然音との調和

 現在、使用中の国語の教科書には坂本龍一氏のエッセイが掲載されている。音楽とはなにかを語りながら、人の生き方に迫る名文だ。

 我々が音楽と称しているものの大半は調律された音階と、規則的なリズムとで構成されており、それが評価基準になっている。でも、それは極めて人為的な不自然なものであるというのだ。

 実際の音は極めて多彩で偶然性に溢れている。それにこそ魅力がある。これはなんでも他人の基準に合わせることが正しいとする現代人の価値基準と対立するがそれ故に魅力的なものの見方である。

 流麗なメロディーメーカーの意見として玩味すべき文章だ。逝去の報に接し残念でならない。

間違え方

 人間の人間らしいところは間違えるということだろう。間違えてもすぐにやり直す。また間違えたところから始めるので結果的に新しいものが生まれることもある。それを踏まえて人間を考えるべきだ。

コメント

 通知表に何を書かれたか。それを覚えている人は少ないだろう。小学生の時の一言で性格を書かれたコメントは大概納得がいかなかった。親にはうなずかれても自分ではそうは思わなかった。そんなによくも悪くもないと思った。

 人の気質なりコンピテンシーなりをそんなに簡単に言い表せるはずはない。書けたとしてもそれは一人の視点から見たもので、神の視点によるものではない。もしあなたが親ならば、そのことを踏まえて子に助言すべきだ。

 逆にこんな見方もできるという可能性を示したものとして捉えるならば意味が出てくる。生徒自身の考える自分と、親が我が子に対する見方とは別に他人からはどのように見えているのかを知る一つの材料とすればいい。それは絶対的なものではない。人の評価など自身も含めて容易ではない。色々な視点を集めてようやく全体の中の一部分が照射される。そういうものだろう。

画像生成

 AIによる画像生成の技術は見るものを驚かす。最近はキーワードを入力するだけで絵画や写真のように見えるものをごく短時間で作り上げる。知らない人が見れば人が描いたものと見間違うほどだ。

 おそらく私たちの画像認識というものはある程度パターン化している。それをコンピューターは膨大な映像データベースから抜き出し、それに近いものを組み合わせてくるのだろう。組み合わせの仕方にもある程度の型があるから、それを使えば自然に見える絵になる。チャットするプログラムと基本的には同じなのだ。だから、ときには奇妙な絵になってしまうこともある。

 今のところは、絵画や動画生成を瞬時に行うことは難しいようだ。それが可能になれば、言語プログラムと作画プログラムを連動させ、ホログラムのような表現で投影すれば、リアルタイムで会話する疑似人間ができあがる。ロボットテクノロジーが追いつけば形而下の世界に現れることになるのだろう。

 言葉でも映像でも騙されやすい私たちがこうした事態にどのように対処すべきだろうか。そのためにも問題発見力とメタ認知の力を身に着けさせるべきだろう。これこそが教育のやるべきことなのだ。

リモート強盗

 フィリピンで収監中の囚人が、日本の強盗事件の指示役であったというニュースが連日報道されている。このニュースの不思議はいくつかある。まずは囚人がどうして外部と連絡可能であったのかということだ。テレグラムというアプリが使用されたことは分かっているがなぜそれが使用可能だったのかということになる。

 この点については現地の担当者が犯罪者側に買収され、収賄の上で便宜を図っていたことが分かってきた。現地の司法システムの問題点をついたということになる。これは現地の法に従って処罰していただくしか方法はない。しかし、もっと不思議なのは海外の囚人の指示でなぜ現行犯のグループが活動したかということだ。

 犯罪を犯すにはかなりのリスクを伴う。というよりほとんどの確率で失敗に終わるはずである。にもかかわらず、どうして実行犯たちは動いたのだろう。これが一番の問題だ。実行犯は犯行で強奪した金品の分配をフィリピンの指示役に任せたようで、その出来具合によって報酬が決まっていたらしい。あたかもリモートワークのような仕組みであったことが分かる。動けない指示役の差配をかたくなに守り、自らの危険の報酬を人任せにするという実行犯たちの自主性のなさに逆に恐ろしさを感じてしまう。

 どのように実行犯たちの精神を操ったのだろうか。それが今後私が最も関心のあることだ。人間の行動の一側面を浮き彫りにしたものとして注目している。

軍艦

 子どものころ、軍艦のプラモデルをたくさん作った。単純に機械としての魅力が大きかった。それがかつて多くの人を殺害し、多くの人がそこで死んだ場所であることを知っても、実感できるまでには時間がかかった。

 子どものころと同じようにいままた分からなくなりつつある。機械はただ目的に沿って動くだけであり、それをどのように解釈するのかは人間の側にある。人間の心のあり方で機械はどのようにも見える。いかなる役割も果たす。

 軍艦はその代表であり、そんなに大きなものではなくても、殺人兵器でなくても同じだ。何ために道具は作られ、作られた道具が結果的に何をもたらすのかは、何歳なっても予測できない。何らかの悩みを解決するために作られたものが、新たな悩みを生み出す。

 作られたものはある意味で人の願望の理想形であり、その外見は魅力的だ。それゆえにまた人を惑わす。道具を作ったつもりがいつのまにかに使われているということになりそうだ。

味覚

 何を美味いかまずいかという尺度はどのようにできあがるのだろうか。普遍的な感覚に思えるが実はまったく特殊なものだ。

 外国人が顔を背けると言われる納豆などの伝統食は確かに日本人でも嫌いな人もいる。そもそも醤油味が苦手だという人には日本は住みにくい国だ。逆に海外の料理の中には味覚的に受けつけないものがある。

 人種による感覚器の違いだという話はあまり聞かない。やはり、食文化が総体的に味覚に影響を与えるのだろう。

 味覚だけではなくすべての感覚にこうした文化的なフィルターがかけられていることは時々思い出さなくてはなるまい。同じものを見ても触っても食べても、別の感覚で捉えられていることを前提にコミュニケーションすることが必要だ。国際問題ではそれが顕著だが、隣人もまた同じ態度で臨むべきなのかもしれない。