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少し前のことを考えてみると

 少し前の世代のことを考えてみるといまの異常さに気づくのだ。何でも検索でき、世界に向けて発言しようと思えばできる。こんな事態は誰も予想しなかった。

 私の学生時代は壁のような蔵書の中から一語を見つけるのに数ヶ月を要し、自らの意見を公にするのに数多の関門があった。それが当たり前の時代に生きていた世代にとっては現代はなんとも野放図である。

 生き方にしても多様な価値観で生きられたはずなのに、今や細かな部分まで序列化され、あたかも共通の物差しがあるかのようである。コンピューターのスペックのように人生を計り、順位付けられることに疑問を感じない。これは明らかにおかしなことである。

 間違えてはいけないのはいまもまた変化の途中ということだろう。現代の基準もいつかは変わる。いま正しいと言われているのものが未来まで通用するという保証はない。時々の流れに叶ったものが評価されているのに過ぎない。

 少し前のことを考えることは少しあとのことを考えることでもある。些細な差を気にしすぎてはならない。

はからずも受け継いだもの

 認めたくはないのだが、自分の風貌が年老いた亡き父に似てきつつあることを自認せざるを得ない。残念だが確実にその方向に向かっている。

 父に対しては複雑な思いがある。苦労人で人当たりの良さで乗りきってきたキャリアであったようだ。子どもの視点で見れば泥酔して帰るだめな父親であったが、面倒見がよかったらしく、部下からの信頼は厚かったようだ。父のおおらかさに救われた人は多かったようである。

 私もその気はあるとは思うが、肝心なところで突き放してしまう冷たさを持っている。深く関わらないことが美徳と考えているのだ。これは相手を傷つけないが、代わりに何も残らない。

 父親は懸命に生きたあまり、無意識の残酷さもあった。自分の尺度でしか世の中を見ることができず、常に調和を重んじ、突出することを嫌った。だから、大きな損失がない代わりに現状打破のエネルギーがなかったのである。これは子どもの可能性を狭めるものだった。

 この方面の精神性はかなりの高い水準で受け継いだ。挑戦よりは現状維持を重視することは紛れもない事実だ。すべてを親のせいにするつもりはないが、環境も含めて遺伝した可能性は大きい。最近、これに気付いた私は結構破れかぶれの行動を厭わなくなっている。失敗する余裕ができたということなのだろう。

 父が亡くなってから、私はその思い出をなるべく封印しようとしてきた。思い出せば何かが壊れてしまうように感じていささか恐ろしかったのである。少し客観的になれるようになっているいま、何を受け継ぎ、何を捨て去るのかを考えられるようになってきた。

 

 

自動改札が人をモノにした

 駅の改札に駅員が並んでいたことを知る世代が少しずつ減っている。改札という言葉の持っていた重みも正比例の関係で軽くなりつある。便利だが大切なことを忘れつつある。

 先日、駅の自動改札機をうまく通れない人がいた。後ろから来る人がぶつかって来た。スマートフォンを見ながら歩いていたのだろう。ぶつけられた人は不愉快な顔をしたが、スマホ男は謝りもしない。改札をうまく通れなかった人が悪の元凶のような風をしている。

 自動改札は人間を通過する物体に変えた。そこに求められるのは支払いを無難に行うことだけである。その人の思いとか、考えとかそういったものはまったくいらない。便利さと引き換えに私たちは乗客から移動物体になったのだ。その居心地の悪さは物体らしく振る舞えなかった他者に対して起きる。ここに私は強い違和感を覚えるのだ。

 こうした利便性と人間性の引き換え現象は随所にある。普段は気にならないがあるときにわかに不快な感情に襲われるのだ。

進化の不思議

 生物学者のエッセイを読んでいると実に不思議な気持ちになる。生物はいつも環境に適応するために自分の身体を変化させ続けているというのだ。世代という単位では気づかないことも多いが、そのスケールを少し拡げるとすぐにその変化に気づく。寿命が極めて短い種の場合はそれがかなり早く起きる。

 人間も同じだ。今の学説ではホモサピエンスはアフリカ大陸にいた共通の祖先から世界中に拡散したという。地球上の各地に拡散するグレート•ジャーニーの途中で各地の気候や地理的な要因に適応した人類は、その形を次々に変えていったことになる。東アジア人の顔が凹凸に乏しいのは、寒冷な気候を過ごすうちに体表面の面積み減らして体温の発散を減らすためだという。

 実は進化の要因は複数の要素の複合の結果であり、単純な説明ができない。それを遺伝子とか進化論とかで何とか理由づけしているのだ。その意味で後付けの説明であって未来のことは分からない。

 ただ、私たちの身体そのものも自然の一部で、適応し子孫を残すために今後も形を変え続けるということだけは確かだということだ。今の姿が過去に遡れる訳ではなく、未来もこのままであるはずもない。

いまの笑顔が未来もそうだとは限らない。これは人工知能に作らせた笑顔のイメージです。

修正する機能

 私たちの脳には不思議な機能がある。それは文字の連続の中に意味を感じ取るこである。木当はただの線と点などの連続に過ぎない文字の羅列に意味を感じ取る。きらにその文字列に間違いがあつたとしても、勝手に脳が修正し、意味を解釈てきるようにしてしまうのだ。

 実は前段落に意図的に誤植をしてみた。気づかれた方が多かったろう。それが5箇所あることはおわかりだろうか。わからなくても仕方がない。それが脳の働きなのだから。

 不完全な情報に一貫した意味を感じることはおそらく長い時間をかけて人類が獲得した能力なのだろう。大抵の場合、手に入る情報は不完全かつ断片的であり、それを元に判断しなくてはならない。類推する能力が高ければ、危険回避の可能性は高まる。

 この類推する能力は最近のAIに接したときの人々の反応にも見て取れる。先日、生成型AIの講習を受けたとき、講師がチャットの回答はAIが単語の連続の確率で組み合わせているだけで、言葉の意味を理解しているわけではないと説明した。すると同僚の一人は回答文には感情が感じられるので、講師の言っていることは間違っているという感想を述べていた。これも類推の能力がなせるわざなのだ。

 AIの作成する回答に人情を感じ取るのは、文章を読むときの私たちの基本的な姿勢のせいなのだ。文字列の乱れを勝手に修正して読むように、実は確率的な語彙の羅列であっても、そこに意味を感じ、心まで読み取る。AIとの付き合いでこのことが余計にはっきりとしてきた。

 逆に言えばこの能力こそ機械にはできないものの一つであると言える。豊かな想像力とおおらかな推測力、矛盾を乗り越える何かは人間の生物としての能力なのだろう。

 

応援

 スポーツ観戦での声出し応援が再開されている。応援など無意味な自己満足だと思っていたが、この制限下においてそれが間違いであったことが明かされた。スポーツはやはり気持ちが大きく左右する。人間の行うことはそこが違うと感じた。

機械化した分、面談に

 提出物をバーコードで管理することにした。完成しているプログラムをお借りし、試したところ使用に耐えることが分かった。少々カスタマイズが必要だが、これで数十分から一時間程度の業務時間短縮ができそうだ。

 浮いた時間で何をするか。それは個別面接の機会を増やすことだろう。私が業務を機械化したように、生徒も学習活動の一部もしくは大半をコンピューターで行っている。活用の仕方が間違っている場合は、思考の過程を飛ばして答えだけを書いてきてしまう。

 教員として心がけたいのは結果より過程ということだ。何をどう考えたのか、それをどのように説明するのかを指導しなくてはなるまい。テストやレポートの採点結果より、重視すべきなのは解答の作成過程である。

 ただそれを評価することは難しい。学習の場面に立ち合うことはできない。できたとしても学習者の妨害にしかなるまい。だから、次善の策として提出後に面談を行い。どのように学んだのか、学んだことは何かを自分の言葉で語らせるようにすればいい。

 いままでは業務時間内に事務的な仕事を終わらせるので精一杯で、面談にかけられる時間は限られていた。人間が不要な部分は思い切って機械化し、対人指導に注力しよう。生徒には煙たがれるが、今はそれがもっとも効果的な気がしている。

AIは著作権を知らない

 AIのChatGPTなどで質問するとたちどころに回答がある。しかし、これはAI自体が考えたものではなく、既存のデータから適当なものを拾い合成しているようだ。だからときにキメラ的な回答になることもある。

 とても便利なのだが少なくとも今私が無料で使っているものの場合、典拠は示されず、どのような改変をしたのかも分からない。だから、AIが独自に考えたように見えるのだ。

 イタリアでは著作権侵害などの理由でこのシステムの使用を制限するらしい。著作権に関しては厳しいEU諸国が追随する可能性は高く、AI検索システムには一つの関門ができた。

 とはいえ、画期的な検索方法を使わないという選択はあり得ないだろう。典拠や回答の生成情報を付記することはさほど難しいこととは思えないし、著作権法に対応した運用もなされるはずだ。

 私は著作権に限らずこの自動検索の過程に意味的理解がなされていないことが懸念事項と考える。配慮とか尊敬といった考え方が存在しないと思わぬ結果になり得る。それをクリアすることが何よりも優先すべきことである。

自然音との調和

 現在、使用中の国語の教科書には坂本龍一氏のエッセイが掲載されている。音楽とはなにかを語りながら、人の生き方に迫る名文だ。

 我々が音楽と称しているものの大半は調律された音階と、規則的なリズムとで構成されており、それが評価基準になっている。でも、それは極めて人為的な不自然なものであるというのだ。

 実際の音は極めて多彩で偶然性に溢れている。それにこそ魅力がある。これはなんでも他人の基準に合わせることが正しいとする現代人の価値基準と対立するがそれ故に魅力的なものの見方である。

 流麗なメロディーメーカーの意見として玩味すべき文章だ。逝去の報に接し残念でならない。

間違え方

 人間の人間らしいところは間違えるということだろう。間違えてもすぐにやり直す。また間違えたところから始めるので結果的に新しいものが生まれることもある。それを踏まえて人間を考えるべきだ。