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 通知表に何を書かれたか。それを覚えている人は少ないだろう。小学生の時の一言で性格を書かれたコメントは大概納得がいかなかった。親にはうなずかれても自分ではそうは思わなかった。そんなによくも悪くもないと思った。

 人の気質なりコンピテンシーなりをそんなに簡単に言い表せるはずはない。書けたとしてもそれは一人の視点から見たもので、神の視点によるものではない。もしあなたが親ならば、そのことを踏まえて子に助言すべきだ。

 逆にこんな見方もできるという可能性を示したものとして捉えるならば意味が出てくる。生徒自身の考える自分と、親が我が子に対する見方とは別に他人からはどのように見えているのかを知る一つの材料とすればいい。それは絶対的なものではない。人の評価など自身も含めて容易ではない。色々な視点を集めてようやく全体の中の一部分が照射される。そういうものだろう。

画像生成

 AIによる画像生成の技術は見るものを驚かす。最近はキーワードを入力するだけで絵画や写真のように見えるものをごく短時間で作り上げる。知らない人が見れば人が描いたものと見間違うほどだ。

 おそらく私たちの画像認識というものはある程度パターン化している。それをコンピューターは膨大な映像データベースから抜き出し、それに近いものを組み合わせてくるのだろう。組み合わせの仕方にもある程度の型があるから、それを使えば自然に見える絵になる。チャットするプログラムと基本的には同じなのだ。だから、ときには奇妙な絵になってしまうこともある。

 今のところは、絵画や動画生成を瞬時に行うことは難しいようだ。それが可能になれば、言語プログラムと作画プログラムを連動させ、ホログラムのような表現で投影すれば、リアルタイムで会話する疑似人間ができあがる。ロボットテクノロジーが追いつけば形而下の世界に現れることになるのだろう。

 言葉でも映像でも騙されやすい私たちがこうした事態にどのように対処すべきだろうか。そのためにも問題発見力とメタ認知の力を身に着けさせるべきだろう。これこそが教育のやるべきことなのだ。

リモート強盗

 フィリピンで収監中の囚人が、日本の強盗事件の指示役であったというニュースが連日報道されている。このニュースの不思議はいくつかある。まずは囚人がどうして外部と連絡可能であったのかということだ。テレグラムというアプリが使用されたことは分かっているがなぜそれが使用可能だったのかということになる。

 この点については現地の担当者が犯罪者側に買収され、収賄の上で便宜を図っていたことが分かってきた。現地の司法システムの問題点をついたということになる。これは現地の法に従って処罰していただくしか方法はない。しかし、もっと不思議なのは海外の囚人の指示でなぜ現行犯のグループが活動したかということだ。

 犯罪を犯すにはかなりのリスクを伴う。というよりほとんどの確率で失敗に終わるはずである。にもかかわらず、どうして実行犯たちは動いたのだろう。これが一番の問題だ。実行犯は犯行で強奪した金品の分配をフィリピンの指示役に任せたようで、その出来具合によって報酬が決まっていたらしい。あたかもリモートワークのような仕組みであったことが分かる。動けない指示役の差配をかたくなに守り、自らの危険の報酬を人任せにするという実行犯たちの自主性のなさに逆に恐ろしさを感じてしまう。

 どのように実行犯たちの精神を操ったのだろうか。それが今後私が最も関心のあることだ。人間の行動の一側面を浮き彫りにしたものとして注目している。

軍艦

 子どものころ、軍艦のプラモデルをたくさん作った。単純に機械としての魅力が大きかった。それがかつて多くの人を殺害し、多くの人がそこで死んだ場所であることを知っても、実感できるまでには時間がかかった。

 子どものころと同じようにいままた分からなくなりつつある。機械はただ目的に沿って動くだけであり、それをどのように解釈するのかは人間の側にある。人間の心のあり方で機械はどのようにも見える。いかなる役割も果たす。

 軍艦はその代表であり、そんなに大きなものではなくても、殺人兵器でなくても同じだ。何ために道具は作られ、作られた道具が結果的に何をもたらすのかは、何歳なっても予測できない。何らかの悩みを解決するために作られたものが、新たな悩みを生み出す。

 作られたものはある意味で人の願望の理想形であり、その外見は魅力的だ。それゆえにまた人を惑わす。道具を作ったつもりがいつのまにかに使われているということになりそうだ。

味覚

 何を美味いかまずいかという尺度はどのようにできあがるのだろうか。普遍的な感覚に思えるが実はまったく特殊なものだ。

 外国人が顔を背けると言われる納豆などの伝統食は確かに日本人でも嫌いな人もいる。そもそも醤油味が苦手だという人には日本は住みにくい国だ。逆に海外の料理の中には味覚的に受けつけないものがある。

 人種による感覚器の違いだという話はあまり聞かない。やはり、食文化が総体的に味覚に影響を与えるのだろう。

 味覚だけではなくすべての感覚にこうした文化的なフィルターがかけられていることは時々思い出さなくてはなるまい。同じものを見ても触っても食べても、別の感覚で捉えられていることを前提にコミュニケーションすることが必要だ。国際問題ではそれが顕著だが、隣人もまた同じ態度で臨むべきなのかもしれない。

記憶の中の人物像

思い出の中ではどんな人?

 人の性格や行動は実はかなり複雑だ。優しい人にも厳しい一面はあり、陰険と思われている者が影では善人であったりする。本当は一言では言い切れない。それを強引に分類していまうのが私たちの日常である。

 こうした人物像の簡略化は、時間とともに進行するのかもしれない。相手との交渉がなくなると、過去の記憶の中でその人物を想起する。その思い出の人物像はすでにまるめられており、時間とともにさらに末端が削られる。故人に対してはもう出会う機会はないから、時間とともに固定していく。

 写真に例えてみる。撮影の時点でその人の典型的な姿が選ばれる。それでも何枚もの写真の中にはその人物の様々な一面がほのみえる。ところが時間とともにその中の写真の大半は失われ、数枚だけがその人の思い出として残るのだろう。

 人物像はこのような仕組みでできている。さらに英雄伝説に誇張がありがちなように、このわずかな印象も変質を始めていく。本当はどんな人物だったのか容易には分からなくなる。人を考えるときにはこうした仕組みを思い出さなくてはなるまい。

風景画

 きれいな風景を描いた作品はそれだけで価値があるように思える。そこがどこであろうと作品の評価には関係ないはずだ。実際はそうではない。どこの風景で何を描いているのかは作品の鑑賞にかなり影響を与える。

 富嶽百景は相手が富士山であるから、東海道名所図会は名所を描くから価値が上がる。絵画となったから名所となる例もあるが、その前に画家は名所を描こうとしたのだ。地名の価値はその意味で大きい。

 私たちが何かを見るとき、そこに審美的な行動が伴うときには、どうも対象そのもの以外の情報も関与する。風景画も地名があることで価値が上がる。極端なことを言えば、名もなきものを取り上げるのは難しく、名のあるものだけを見ているともいえる。

偏見

 脳に事実を曲折する機能が織り込まれていることが最近読んだ本に書かれていた。偶然だが同じような言説に出会うことが多い。これをバイアスと言ったり偏見と言ったりしたあるいは錯覚と言ったりしている。

 このような現象は脳の不完全さを示すだけではないようだ。むしろ、現実の生々しさを軽減して受容できる形にするために遺伝的に形成されたのだという識者もいる。首肯すべきだ。

 ただ、森の中で生きてきた先祖と、機械に多くの作業を任せている現代人とでは生き残るための戦略が異なる。にもかかわらず錯視の中で生きるのには問題があるのだろう。

 少なくとも自分の見たこと聞いたことが世界の真実だとは思わないようにしなければ。錯視の風景をそれなりに楽しむことが必要だと思う。

声援

 声援に意味があるのかという素朴で根本的な問いを考えてみる。言わずもがなの結論であると先に述べておく。

 何かをするのは当事者であり、どんなに周囲が動いてもそれだけでは意味がない。手を貸したり、資金的援助をしたりと何らかの実質的な支援をするならば別だが、声をかけるだけの行為に効果はあるのだろうか。

 私たちはそれが有意義であることを経験的に知っている。それは私たちの行動が言葉によっているからだ。私たちはごく自律的な身体行動を除けば言葉によって行動している。どのような言葉で行動するかによって行動の程度が大きく変わるのだ。

 だから行動を加速する言葉は効率を上げ、抑制する言葉は過度な刺激から身を守るきっかけになる。だから、声援には意味がある。

師に出会うなら

 教育において師匠の模倣が大切だということは日本の教育に根強く残っている考え方である。ただ、この基底には弟子の師匠に対する無批判かつ無根拠の信用が欠かせない。よく分からないがなんだか素晴らしいと思う人物に出会ったとき、学びの効果は最大限に発揮される。これは伝統的な武道や芸事の世界では普通に見られることだ。

 ところが、今日の学校教育ではそれが通用しない。教師が生徒を評価するのと同様に教員も常にだれかに評価されている。教員としての自尊心は早くから傷つけられ、産業的効率性の中に位置づけられ数値化される。教え方がうまいか下手かが例えば、教えた生徒の受けた数回の試験で計測されていく。これでは伝統的な師は生まれない。学校にいるのは常に自らが淘汰されないかをうかがう労働者に過ぎない。

 伝統的な学びの発動をもたらしたいのなら学校はやめた方がいいのかもしれない。むしろ私塾のような場所で自分の習いたいことを習える環境を作った方がいいのかもしれないのだ。自分にとっていい師を見つけるのは実はとても大変だ。たいていはまやかしかも知れない。でも本当の師匠を見つけた弟子はきっと師を超えることができる。これが東洋的な教育なのだと思う。わずかに大学院の研究室などにそれが残っていると信じたいが、どうなのだろう。

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