カテゴリー: エッセイ

天皇杯優勝

 FC町田ゼルビアが天皇杯で優勝したという。私が応援を始めた頃はJFLに昇格したばかりで、観客もまばら選手のほとんどはプロ契約しておらず、少年サッカーのコーチなどを兼任していた。リーグでは佐川急便や武蔵野といったアマチュア界の名門に勝つことができず、ついに優勝できなかったのである。

 J2に昇格できたと思ったら全く勝てずJFLに逆戻りして、その後始まったJ3で何とかプロクラブ扱いになった。町田の地元サポーターが少しずつ増えてくると勝てるようになっていき、J2時代の晩期にサイバーエージェント社がスポンサーになってからは選手補強が可能になって、黒田監督の抜擢もあって勝てるようになった。戦略に関してはいろいろな批判があったが、多くは既存のクラブが新入りに出し抜かれたことへの焦燥の表現だった。批判していたチームが今シーズンは同じことをやっているのだから。

 優勝はめでたいが、何か過去のクラブを知るものとしては別のチームが戦っているように思えてしまう。プロである限り仕方がないことであり、その前提を受け入れなくてはならないことは自明なのだが。かつてはそれ何と言われたクラブが説明なしに認知されるようになったことを素直に喜ぶべきなのだろう。

休養

 なにもかもなげだして休養したい日がある。ただ、それはできないことだとも分かっている。次にやらなくてはならないことがいつも心の底にあって、今はそれをやるための一時的な休憩なのだと考えてしまうのである。

 恐らくそれが当たり前のことであり、完全な休みなどありはしない。何かをし続けることが生きている証なのだろう。

 ただ、やるべきことが今のままでいいのかについては考えてみなくてはなるまい。もっと別のことをやってもいいのではないか。その方が人のためにも自分のためにもなるのではないか。休みの日になるたびに考えてしまう。

懐かしい曲

 金曜の夜は実はかなり披露している。体力の減退もあるが、いまの生活は毎日が全力で行かなければならないという思いが強く、心身ともに困憊してしまうのである。もっと余裕があったはずなのに。それを思うとさまざまな悪い付帯事項が惹起するので、すぐに打ち消すことにしている。

 疲れた夜にするのはなにか。いろいろ試してみるがどれも神経をかえってすり減らしてしまう。そのなかで成功率が高いのが若いころに聴いた曲を聴くことだ。昔夢中になって曲を聴き直してみると、その当時のことがほんの少し思い出される。当時の若く甘い人生観を思い出すとなぜかほほえましく感じてしまうのである。同じ自分であるのに。

 それを今を嘆く材料にしてしまっては逆効果だ。むしろ、忘れていたひたむきな気持ちを取り戻すことを思うのがいいと思う。そして大抵の場合、そういう方面に心は動くのである。懐かしい曲を聴くのは知らず知らずのうちに失われた何かを取り戻すためのきっかけなのである。

寒くなった

 急に寒くなった。ただ、今回はいろいろ身構えていたせいなのか、いまのところ大きな体調の変化はない。毎年、この時期に風邪やインフルエンザもどきに罹る私にとってはまだ油断がならない。栄養を摂ることと休むことが大切なのは分かるがそれができないのが、今の私である。とにかくやるしかない。

警官のネクタイ

 警官のネクタイ着用を自由化する県警が増えているようだ。至極当然だと思う。ネクタイで威儀を糺す必要はない。昨今の異常な暑さの中では業務自体に悪影響を及ぼすだろう。

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 それよりも場合によっては格闘しなくてはならない人にとって、首を縛るアイテムは危険だ。もし付けるとしても、強く引けば外れるような工夫がなされるべきだ。私は日々ネクタイをして通勤しているが、有事の際はどうすればいいかと思うことがある。

 職業に相応しい衣服はあっていい。制服にはそれなりの役割がある。ただ、それが業務に適したものなのかは時に応じて見直した方がいいと思う。

旅の途中

 ごく稀に自分は何でこんなことをしているのだろうと思うことがある。日々の生業にあくせくして、他人からの毀誉褒貶を受けながら、お前は何をしているんだと考えてしまう。子どもの頃から植えつけられた価値観のもとで、何か絶対的な基準があるかのように幻想して毎日を過ごしている。でも、一歩引いてみればそれは恐らく幻覚のようなものだ。多くの人が同時に見ている夢の中でそれに相応しい振る舞いをしているのに過ぎない。

 いま正しいと思ってやっていることは、基準が異なれば全く違う評価になる。現実と信じている日常は多くの人がそのようであれと考えている幻覚のようなものだ。何が正しいのか、邪悪なのは何かと言った弁別は言ってみれば時価のようなもので座標軸が変われば全く別の世界が出現する。

 私たちは生きる世界を選択することがほぼできない。個人の理想を追求するのはよいが、それが自分のパートナーにどのように響くのかは全く分からない。自分にとっては理想的な世界であっても、隣人には苦痛そのものかもしれない。誰を基準にするかで世界は大きく変わってしまう。

 だから、いまの身の回りの世界を絶対的なものとみるのはやめた方がいい。たまたまその世界にいて、多くの人がその世界の立ち回り方としてやってきたことを模倣しているのに過ぎないのだ。いろいろな世界がある可能性を忘れてはならない。そんなことが分からない自分はまだ旅の途中にいて彷徨っているのだ。

演出

 平凡な毎日にあやをつけるためにはそれなりの演出が要る。それは一種の生活の知恵であり、必要不可欠なものだ。

 民俗にハレとケの日があるのは、ケの日をより豊かなものとするために、散財してまでもハレの日を設けたのであろう。現代社会は毎日がハレの姿をしているが、実際の日常はしばしば退屈である。その鮮度を落とさずに保つためにも、特別な行事が挟み込まれている。

 ならば我々は人生を送るためにさまざまな演出された毎日を送っていることになる。それが文明人の知恵であり、叡智でもあるのだ。私は民俗学を学びながら、この普遍的事実を忘れかけていた。つまらない毎日と突き放す前に、演出された日常を楽しむことを思い出さなくてはならない。

はね返り

 明日は少し気温が上がり、その後急激に寒くなるそうだ。こうした天候の変化の有り様は都会生活を始めてからは観念的に把握しているが、地方に暮らしていたときはもっと体感的に分かったものだった。

 空気が澄んで山が大きく見えたと思ったら翌日は雷を伴った雪が降る。それが北陸の冬の始まりだった。その頃はそこはかとない覚悟が求められる気がして極度に緊張したものだが、今となっては懐かしい。雪の脅威を感じなくなった時点で東京の人になってしまったのかもしれない。

 明日のはね返りはそのときの緊張感とは比べられない穏やかなものになるだろう。ただ、軟弱になった心身に寒波がいかほどしみるのか分からない。恐らく私はこの方面に於いては過去に学ぶことができない愚者なのである。

忘れてしまったこと

 忘れていることがある。日ごろの雑事に追われて基本的なことを忘れるのである。例えば朝の日の光を迎えること。日没後の暗闇で考えることなど、自然の営みを感じることはとても大切なことなのにも関わらずである。

 自分に合っている環境は今の状態ではないのかもしれない。毎日の生活の中でそれが分からなくなっているだけなのだ。一度積もり積もった日常の塵埃を振り払わなくてはならないのかもしれない。その必要性が刻々と近づいている。

やりたいことシフト

 やりたいことのシフトが必要かもしれないと思っている。やりたいこととできることの差が少しずつ出てしまっているのだ。

シフト

 無理をしても何とかできると思って過ごしてきた日々の中で、実際にできるときとできないときがある。十中八九できなくとも、残りの一二でできれば何とかなってきた。野球選手より気が楽だった。

 でも今はあらゆることがデータとなり、始める前から実現可能性が明示されるようになると、さらに自分の状態が過去のそれとは比べられないほどになると、無謀に何かを続けることだけが良いことではなくなる。できないことはできないと認める潔さも必要だ。

 ならばやりたいことを変えなくてはならない。諦めるのではない。最終的な到達点とか、やり方を修正するのだ。これは逃げではなく新たなる挑戦の仕方である。