カテゴリー: エッセイ

文化交流は別

 日中関係に暗雲がかかり始めている。高市首相の台湾有事をめぐる発言を機に、中国政府が反日政策を展開し始めているのだ。これまでにもこのようなことは繰り返されており、大規模なデモが発生したり、日本製品の不買や、店舗や製品の破壊といった暴挙が起きたこともあった。さすがにそのような国際批判を受ける行動は今の中国の国際的立場を考えるとできないと考えているのだろう。今のところは暴動は起きていないようだ。

 ただ、中国政府がとったと思われる文化交流への弾圧はいかがなものだろう。日本人の中国での公演を禁じる策は、中国の国民にとっても疑問を抱かせるものに違いない。政治問題とは無関係な局面での統制はやり過ぎであり、両国民の感情を同時に悪くするはずだ。

 大切なのは日本側が追随しないことだろう。政治上の主義主張と文化面の交流は別次元であり、同一化してはならない。日本には伝統的に中国文化を尊重する歴史がある。そして根本的にはそれは変わっていない。いまでも中国古典文学は学校で教えられ、大学受験の問題にさえなっている。現代の中国文化については限定的だが、知られている。映画やドラマなどは多くの人に愛されている。

 日本の中華料理など日本化が進んだものもあるが、本場中国料理は現在でも尊重される対象である。恐らく多くの中国人よりも中国古典文学の知識に詳しい日本人は多いかもしれない。それは文化として尊敬しているからだ。

 そういう尊重する気持ちを大切にして、自国について過度な虚栄心を起こさないことが、今求められることだと信じる。

寒波の前の静けさ

 明明後日くらいから寒波が関東にも流れ込むらしい。マフラーや手袋がいる段階に入る。でも今日はかなり暖かい。というよりこの程度の寒冷に順化してしまったようだ。ここから冬へ向けてのギアチェンジが要る。

 気象の常として、寒波の前には一時的な快適な期間がある。あたかも悲劇の始まる前の緩和のシーンのような感覚である。北陸に住んでいた頃はそれを痛切に感じたが、この列島に住まう以上は程度の差こそあれ、似たようなものだ。小春日和の後に猛烈な寒波が来るのかもしれない。

 私たちは暖房器具を持つ建物を有し、防寒の具も幾つか身につけている。昔の人たちはさぞ大変だっただろう。そのことを思えば、今の生活の安楽を喜ぶべきなのかもしれない。

もう終わりですか

 霜月も今日で終わり。あまりにあっけない。もちろんこの月にもいろいろなことがあり、得ることも失うことも多かった。それにしても痩せ細った秋のように、この月はあっという間に終わってしまう。

 明日からは十二月ということは年末ということになる。私の生活体系においては単なる通過点に過ぎない。でも、やはり年が変わることには特別な感情が伴うものである。

 残り1か月で何ができるのか。そういう考え方をしなくてはならない。私の基本的な考え方として、残された時間で何ができるのかという期限付きの思考がある。だから、あっけなく過ぎていく時間に対しては少し敏感にならざるを得ない。

瞬発力が衰えても

 何かを理解しようとするときに働く頭脳の瞬発力はたしかに年々遅くなっている気がする。大学の入試問題などを見ると、よくもこの量を試験時間内に解ききることができるものかと感心してしまうが、かつては自分も似たようなことをしていたのだ。知的瞬発力なるものがあるとしたら、やはり若いころには誰にでもそれがあったといえる。

 人間の場合、この即応的な能力に加えて、経験の蓄積による能力が個人の判断力を補完する。年の功が勝ることがしばしばあるのはこの経験の蓄積によるものが大きい。結果的に急激に衰えてしまうこと顕在化することは少ない。人類が長寿でいられるのはそうした脳の使い方を進化によって獲得できたらからだろう。

 同じことを考えたり行動したりする初動で若い世代には勝てない。私としてはじっくりと考えて初歩の見過ごしや見誤りを集成して堅実な知識とすることを心がけで起きたい。そのためには粘り強く考え続ける習慣を作らなくてはならないのだ。

第三世界

 トランプ大統領は第三世界諸国(the third world countries)からのアメリカへの移民を禁じ、給付や補助を行わない旨の表明をした。アフガニスタン出身の人物が州兵を殺害した事件をきっかけにしたものであり、彼の基本的な政策である移民制限の口実としては最適な事案であったことになる。発砲事件は許されることではないが、それがすぐさま拡大解釈されるのが今のアメリカの政権である。

 第三世界という言葉は冷戦時代においては東西両陣営のいずれにも属さない地域のことを言ったようであるが、冷戦後は経済的な格差を基準としたものに変わり、発展途上国とかグローバル・サウスなどと呼ばれているが、明確な定義がなく、その線引きは難しい。トランプ大統領がここにきてこの言葉を持ち出したのは、明らかな蔑視の態度の表明なのだろう。

 さまざまな未来予測があるが、現在第三世界に属する国や地域の中には急速に発展することが考えられている国や地域もある。世界情勢は常に動いていて変化を続けている。単純な世界の分類はますます分断の可能性を生み出す気がする。またあたかも第1から第nの国があるかのような単一基準のランキングを設定してしまいそうだ。この考え方は大国のリーダーだけではなく、我が国の国民にも急速に広まりつつあると私は感じている。

スマホの写真

 スマホで写真を撮ると最近はアプリがいろいろな提案をしてくる。露光を変えるとか背景とのコントラストをつけるとか、あるいは一部を動画のように動かしたりとかいろいろある。また時系列順に並べて見せたりとか、同じような構図の写真を並べてコラージュしたりもする。

 映像をパターンとして認識して分類したり合成したりするのは、人工知能の得意とする分野のようだ。便利であり、ときには楽しく使っている。

 ただ、写真を見る人の気持ちまでは推測できないらしく、過去の自分と今の自分を並べた写真を見て何を思うのかは分からないようだ。10年余りでここまで変わり果てるのか、そういう思いはコンピュータには理解してもらえないのかもしれない。

おせち料理の意味

 最近はいろいろなところにおせち料理の予約の広告がある。贅沢な具材をふんだんに用いて数万円という価格で予約を受け付けている。すでに受注終了というシールが貼られたものもある。私などはどうしてここまで投資しなくてはならないのかと考えてしまうが、価値観はさまざまあってよい。

 おせちの原点は節日の供物にあるのだと考える。季節の節目に神に季節の収穫物を備えることで、神に満足してもらい、次の年の豊年を予祝する。神はここまでやってくれたのだから来年もという気持ちになると古人は考え他のだろう。だから、あくまで神饌であって、人はそのお下がりをいただくのに過ぎなかったはずだ。

 それがいつのまにか人間がその贅を尽くすためのものと考えられるようになる。信仰の枠から外れれば、限りなくその内容は形式化し、高級食材を使う方がよいとされていく。神様を忘れ、自分が神であるかのように振る舞うが、神である資格は経済力に裏打ちされたものだ。変動の激しい基準である。私のようにいつまで経っても神様になれない人もいるが、神になったり、落ちぶれたり、その繰り返しをしている人もいるはずだ。

 おせち料理を食べるとき、一瞬でも自分の信じる神もしくは尊敬すべき人やモノを思い浮かべるといいのかもしれない。するとその重みがその味を荘厳なものに変えてくれるはずだ。¥ではない単位の幸福が得られるかもしれない。

信念を述べるだけでは

 首相の信念を国会で述べたことで、大きな国際問題が出来している。中国としてみれば日本政府に付け入る糸口を、首相自身が示してくれたのだから、これを利用するしかないと考えたのだろう。想定内の対応のはずだ。残念ながら、しばらくは日本経済にマイナスの影響が出続けるだろう。

 よく言ったと評価する向きもある。恐らく、国際問題に関して距離をおける立場の人にとっては、国としての立場を明言するリーダーは頼もしいはずだ。支持率の高さもそれを反映している。

 ただ、例えば中国との交易や、交流の前線にいる人たちにとっては非常に迷惑な発言だったはずだ。多くの商機が奪われ、またさまざまな交流の機会が失われることになったのだから。

 特定の国が嫌いで国交を断てとまでいう人もいるが、多くの場合は本当に断絶した後に起きる事態への考察をしていない。思考停止して、国益のことなどを考えないのだ。彼らの無責任さが何を犠牲にするのかは考えてみなくてはならない。

 首相が自分の信念を語ることは大切だ。しかし、それがどのような影響を及ぼすのかという推測はしなくてはならなかった。もっと賢く、場合によっては抜け目なく真の目標を達成していくのがリーダーとしての役割だと考える。今回の件でそれが実感されたはずだ。今後を期待している。

止まっていると

 最近できなくなったと感じることに沈思黙考がある。かつては私の得意な思考法でこれでいろいろなことを解決してきた。雑音から隔絶してひたすら自分の世界に引き篭もる。それによって新しい考えが生まれ突破口が見えてくる。そんな経験を何度もしてきた。






 しかし、最近はこれが機能しない。まず沈思黙考できるだけの体力と気力が欠けているのかもしれない。世間から隔絶するとすぐに睡魔が襲う。慢性的な睡眠不足と極度のストレスの蓄積が集中力を一気に奪い去る。だから、最近は気づいてきた。私には一人でじっくり考えることはあまり期待できないと。

 ならば、雑音の中に身を晒して、その中でアイデアを捻出するしかあるまい。人真似なのか、オリジナルなのかよく分からないが、とにかく考えたことを言葉にして、運がよければ理論化する。この方法で何とか生き残るしかあるまい。じっくり考えればいい考えが浮かぶという段階を私は過ごしてしまった。流れに身を任せてその中できらめくものを掴み取るしかないのだ。

 集中力が保てないのは自覚のなさのせいだと考えてきた。それもあるが、それ以上に自分の能力的な問題もあったのだ。ならば先に進むしかない。衰えた集中力を補いそれ以上の実績をもたらすための行動だ。私はそれを妄想ができる力と考えている。根拠のない空想をどれだけ言語化できるのか。それが私に残された善後策である。突飛なことを臆せずいう。それが老兵の戦い方と心得るのである。

紅葉見頃

 先日、紅葉もしくは黄葉を見てきた。近隣の公園であるがそれなりの見応えがあった。いわゆる名所の紅葉は確かに綺麗なものだが、純粋に季節の移ろいを味わいたいのなら、混雑のない近隣の公園や雑木林を見るのがよい。その意味では東京はこれでも植生が残っている都市である。

センター南のライトアップされた黄葉

 個人的にはユリノキの黄葉と落葉はダイナミックでよい。大きな葉が舞い落ちる様は見応えがある。葉の形も変わっていて、落下時には風に舞いやすい。ほとんどが黄色になる黄葉だが、稀にアントシアニンが生成されるらしく、赤みを帯びたものもある。

 紅葉を楽しむのは心やりとしてはいい。ただ、公園などでは落葉してからの処理に多くの労力が使われているはずだ。管理している方には感謝するしかない。