カテゴリー: エッセイ

核兵器は必要なのか

 与党の幹部なる人物が核兵器保有の必要性をメディアに話したという。オフレコ扱いと断ったコメントがリークされたのだというが、政府関係者としては舌禍そのものであり、大失敗だ。核兵器を持たないという立場はわが国が国際社会にアピールできるものでありそれが絶大な抑止力として機能していた。その機能を著しく汚してしまったのだ。

 ある統計によれば日本の軍事力ランキングは世界8位であり、先の戦争以来軍事に関与していない国のそれとしてはずば抜けている。それなのに軍事大国扱いを免れているのは専守防衛の基本姿勢と、非核宣言があるからだ。その一角が崩れると結局より強大な戦力が求められる。

 日本が核兵器を持てば当然、韓国や台湾も保有に動くはずだ。すると日本付近は極めて核の密度が高い地域となり、日本だけではなく隣国の動向によって壊滅へのシナリオが開かれてしまうことになる。核は使わなくても、核を保有する基地へのゲリラ的攻撃やサイバー攻撃などに常に脅かされる。

 こう考えてみると核兵器を持てばいいという考えはまったく当たらない。核保有が安上がりと述べた政治家が話題になったが、実態はまったく逆で保有にかかる費用に加えてメンテナンスとその防衛にかかる費用が加算され、国家予算を逼迫させる要因にしかならない。

 この話は当時、相当話題になったのに、今回の要人の不用意な発言は重大な問題である。もしかしたら日本の国際的地位を失墜させようと目論む闇の組織の一員なのかとさえ考えてしまうのだ。核兵器は持つべきではなく、それを発言し続けることが、結果として協力な防衛力になるのだ。

中国語は構わない

 中国政府による日本への渡航自粛要請が出て、観光地では変化が起きているという。中国からの団体客が来なくなったために観光客は減少したらしいが、今のところ他の国からの観光客も多く、インバウンド頼みだった観光業が日本人向けの料金設定に戻したことから、かえって旅行客が増えたところもあるという。ただし、こういう報道は偏向が強く働くものであるから事実は分からない。

 中には日本で中国語を話すのは危険だというデマが流れているようだが、日本では話す言語による差別はない。マナー違反は不快に思うが、何語で会話しようと構わない。台湾の人がわざわざ自分は台湾人だというバッジを用意しているというニュースもあったが不要である。郷に行っては郷に従えの思いがあるのなら何の問題もない。事実私の住む街では普通に中国語で話す人はおり、彼らに特別な視線を送る人はいない。

 日本には中国文化に対する敬意が根本にある。漢字は子供の頃から繰り返し学ぶ文字だが、それを今でも「漢」字と言う名で呼んでいる。一流大学に合格するためには中国の古典文学を理解する能力が不可欠だ。かなり日本化されてはいるが、いわゆる中華料理を月に一度も食べない日本人は少ない。

 もっともそれは中国だけではない。若い世代は毎日いわゆるK-Popに熱狂しているし、韓国料理もキムチだけではなく様々なものが気軽に食されている。欧米の料理は言うまでもない。服飾も世界各地から輸入され、程度の差こそあれ、普通に着用されているのだ。エンタメの世界ではまさに多国籍な展開が見られる。日本はハイブリッドが得意というより、伝統的にそうして発展してきた。自国のものが唯一絶対と考えた期間は歴史上ほとんどない。むしろ自国にはない要素を歓迎して摂取していく傾向がある。

 グローバル化と言う名のデフォルト勢力の価値観の押し付けにはさすがに抵抗感がある人も多い。それも例えばインターネットの世界におけるプラットフォームが他国本位に推移していることに慣れきって、麻痺しつつある。大切なのはどの国とも付き合いよいものは取り入れ、自分なりに合うようにアレンジしていくことなのだ。ネットの世界ではその和風化が上手くできないところに焦燥がある。

 今回のように政治的な要因で旅行客が増減しても日本文化の本質は変わらない。置かれた条件においてほどよくアレンジしていくのがこの国のあり方なのだから。だから恐らくこの文書を中国人が読むことはほとんどないだろうが、偶然読んでいただけたなら申し上げたい。日本旅行を希望されるならいらっしゃっていただきたい。そこに差別はないと。

振替輸送

 年に数回ではあるが鉄道の事故などの影響で振替輸送を使うことがある。遠回りすれば別の路線でも辿り着ける所に職場があるので、最終手段として利用するのだ。

 普段乗らない路線を通勤時間に利用するのはちょっとした覚悟のようなものが要る。どのように利用すればよいのかという情報がないからだ。もちろん、振替輸送のときは大抵改札はフリーパスになる。ただ、何号車のどの位置に乗るべきなのか、改札に近いのはどこかなどといった詳細な情報が足りないのだ。振替輸送で平常より混雑した車内において、こうしたことは大切なのだ。

 逆に言えば普段使っている路線に関して、様々な注意をしながら乗車しているということなのだ。混雑が少しでも少なく、下車時に苦労しない場所を日々の経験によって習得しているということなのだろう。振替輸送は非日常の世界を感じさせてくれるきっかけだ。利用する機会がない方が良いのは決まっているのだが。

知らない島の風景

 Googleマップのストリートビュー機能で訪れる場所のイメージを掴んでおくことがある。車で初めて訪ねる場所などはこれをやっておくとかなり安心である。 逆に何も用意せずに訪ねるのは少し不安である。 Google マップの使い方として これは 標準的なものであろう。

 もう一つ楽しみとして ストリートビューを使うことがある。 それは、おそらくこの先一度も訪れることがないはずの場所に仮想的に訪れてみるという経験を持つことである。 知らない島のストリートビューをしてみると、そこには人気のない海岸に1軒だけ建つ小屋を見つけたりすることがある。こんなところにも人の営みがあるということに素朴に驚いてしまう。

 すると、他の島にも訪れたくなり、Google マップをあちらこちらに移動させて、島のあちこちを疑似散策する。この楽しみは半年に一度くらいの割合でマイブームとなり、旅情を掻き立てられる。しかし、現実の波がそれを砂の城のようにたちまちに崩してしまうのだ。

 本当の旅に飢えているのかもしれない。本当に知らない場所を訪ねて、素直に感動してみたい。そんな気持ちにこのところずっと取り憑かれている気がする。

原付は125まで

 知らない間に、正確には私がぼおっとしている間に原付の規定が変わっていた。原付は125ccまでだそうだ。かつての50㏄からすれば倍以上だ。もっとも出力制限があり、2人乗り禁止、最高時速30キロの制限は変わらない。

 原付は免許を取るときに一度乗っただけで、実は経験値がない。ただ風を切って走れる自転車よりも楽で速い乗り物には魅力を感じてきた。恐らく地方都市に住み続けていたら買っていたかもしれない。

 今となっては自動車と同じ道を走ることに恐怖を感じてしまう。もう少し若い頃ならばなどと様々な言い訳を考える。いつか乗る機会はあるのだろうか。

高温予報

 気象庁は年末にかけて記録的高温傾向になるという予報を発表した。10年に一度のレベルだという。関東地方では平年より2.2℃高いとのことだ。

 このくらいの差なら誤差の範囲ではないかと思ってしまうが、そうでもないらしい。1週間以上この傾向が続くと農業分野では大きな問題になるというのである。具体的なことは分からないが、作物の生育には日光や降水が必要なだけでなく、寒冷な気候も不可欠なのだという。

 とりあえずホワイトクリスマスはなさそうだ。などと呑気なことを言っている私は自然から離れた不健康な生活をしているということなのだろう。

百年構想リーグの偏り

 Jリーグは来季から秋冬制になる。この移行期間に百年構想リーグが開催されるが、J1リーグの組み分けが発表された。東西に分かれることになったが、その東地区はことごとく関東地方だ東京都が3クラブ、神奈川と茨城と千葉が2クラブ、それに埼玉が1クラブだ。西地区は東海、関西、中国、九州と幅広い。

 日本の人口の34%は関東地方の住民だ。日本人の3人に1人は関東地方のどこかに住んでいるということである。どの国にも人口集中はある。アメリカ合衆国では39%の人が南部諸州に住んでいる。韓国ではソウルや仁川などのいわゆる首都圏の人口が50%近く、極端な人口集中が見られる。だからJ1リーグのうち半分が関東地方であっても無理はないのだが、北海道や東北、北陸のクラブがないのは残念であり、長期的視点ではこの興行のためにはよろしくない。

 プロスポーツが成功するためには地域の発展や、スポンサー企業の存在が欠かせない。都市部はそれが集っているが、地方は少ない。でもスポーツクラブはそういう現実を忘れさせるような夢を売る存在であるはずだ。百年構想の中には地域振興という柱がある。大企業がなくても地方のクラブが東京のクラブを倒す、そんな醍醐味を見せてくれるのが理想だ。

 隙間を埋めるリーグの開催が地方都市の存在意義を考えるきっかけになればいいと思う。

太鼓の先生

何かに初めて参加した日 (学校、会社、親としてなど) のことを教えてください。

 初めて親元を離れて地方の職場に就いた日は、思い出すとなかなか大変な一日だった。新幹線と特急を乗り継いで、ようやく到着した地方都市は思った以上に静かな街で、夜8時になるとほとんどの店は閉まった。コンビニが1軒もなく、いわゆるスーパーマーケットも車で行かなくてはならない距離にあった。都市部の住人であった私にとってはまさにコペルニクス的展開の人生が始まった。

 ただ、私には性に合っていた。寂しくなってしようがなくなった夜に、下宿先のアパートを出ると満天の星、さらにすぐ近くの用水路には蛍の光が見えた。寂寞の情が通り過ぎると意外に快適な時間が広がった。誰にも拘束されない時間と空間を手に入れた気がした。

 新しい職場に初めて行った時に、そこの最高責任者から、太鼓の先生、こんな田舎にありがとうと言われた。音楽科の教員と間違われたのだろう。面倒なのでいやどうもよろしくお願いしますと答えた。思えば呑気な時代だった。

 その後色々あって職場が立ち行かなくなり、撤退することが決まって私の夢のような時代は終わってしまった。本当に残念なことだった。そのままあの地で仕事ができたなら、きっとやれたことは大きかったのではと妄想する。

 東京に戻ることになり、微妙に職種を変えたために何事も上手くいかない日々が続いた。今も続いている。似たような仕事なのだがやることは天と地ほど違う。自分には向いていない職とは知りながら、ついに辞めることなく続けてしまった。

 初めて新しい職場に行った日を、忘れないでいたいと思っている。でも、日々の喧騒に追い立てられてその時のときめきとか、新鮮な感動とかを次第に忘れつつある。太鼓の先生と誤認された日のことをこれからも忘れないでいたい。

雨は夜更け過ぎに

 近隣に今季初めて雪の予報が出た。と言っても恐らく降っても白いものが雨に混じる程度で、それも夜更けた後のことだろう。それでも朝から薄暗い雲がかかり、最高気温が二桁にならないというのだから、冬の日の一日になるのには違いない。今日は仕事があるので気を抜かないようにしたい。

伯楽

 高校1年の漢文の教材に「雑説」がある。韓愈による名文とされる批判書といえる。世の中には名馬はいつもいるのだが、それを見分けられる伯楽はいつもいるとは限らない。才能があってもそれを見抜けず、結果としてその潜在力を無にしてしまうというのだ。

 漢文の常としてこれは馬の飼育方法の話ではないことは明らかだ。才能があってもその才を発揮する機会を得られなければ世間には現れないままだ。だから、人がその才能を発揮するためには、それを認め、引き出してくれる存在が必要なのだ。それが伯楽であり、今でいうなら師匠であり、監督であり、コーチである。企業で言えば上司がそれにあたる。

 この話の要点は人を育成するには個々のタレントを評価する能力がいるということなのかもしれない。日本では若い頃に人生を仕分けることに対して、大きな抵抗感がある。実際には生まれた環境によって、個人の人生はかなり決まってしまうものでありながら、わが国の教育は個人の努力の成果を強調する。ある程度のステータスの昇降は個人の努力の成果だと言って憚らない。

 結果としてステータス上昇のための学歴が偏重され、それが絶対の尺度のように扱われることもある。業界によっては学歴以外の基準がある。しかし、それも個人の能力の一端を可視化したものに過ぎず、本当の人物評価に資するのかといえば、疑わしいものもある。人間の可能性など他人には簡単に理解できない。それをあたかも人事の秀才のように振る舞う人は、あくまでその人自身のものの見方が当面うまくいっているのに過ぎない。

 伯楽は常には有らずという事実は考えてみれば深刻な事態だ。いや、それなら自分から世界の現場に飛び込んで非難と批判に曝されながらも、やりたいことを連呼するしかない。我は駿馬なりと臆せず語ることができるのか。現代社会は伯楽がいないときは自己責任でアピールせよという。理にかなってはいるが何とも殺伐としている。

 思うに他人の才能を見出せる人物になることは大事だと思う。利己的にしか考えられなければこの発想は出ない。自ら伯楽になる志を持つことが肝要なのである。