オブスタクル

 オリンピック競技として今回注目された近代五種競技の内容が次回から変更される。馬術に変わってオブスタクルという競技になることになった。オブスタクルといってもなんのことか分からないが、競技の映像を見ればほとんどの人が見たことがあるものだ。

Obstaclesとは障害のいう意味で作り込んだ数々の障害を越えていく競技である。そしてこの発祥の一つとされているのが、テレビ番組のSASUKEであるという。確かに障害の形やその克服法はSASUKEにかなり似ている。

 日本での放送が終わったあとでも海外でこの競技はかなり注目され、さまざまな大会が行われている。加えてこの種目における馬術競技が馬に与えるダメージが大きすぎるので動物虐待ではないかという声も上がっていたらしい。

 オブスタクルが加わったことで超人的競技という位置づけは一層高まりそうだ。

台風が近づいている

 台風が近づいている。数日前の予報と比べると進路が西寄りになり、九州付近で北東方向に進路を変えるコースが報じられている。もしそうならば、関東への影響は数日遅れることになるのかもしれない。

 いろいろな行事がその影響を受けないか心配だ。ただこればかりは如何ともし難い。前回は大きな被害を覚悟してほしいといった報道がなされていたが、私の住まう地域はさほどではなかった。鉄道が止まったことへの不満も聞かれた、

 ただやはり備えは憂いに先立たなくてはならない。オオカミが来たの話の轍を踏まぬように、やはり恐れるときはそうすべきだと思う。

非効率で生きる

 時代に逆行するが私は効率を重視しないことに決めた。他の力を借りて瞬時に終えてしまうのは格好いい。でも、そこに自分の達成感が伴わなかったり、感情移入がないものはあえてやらないことにしたい。

 人様にご迷惑をかけないことを前提に大いなる無駄をやっていきたいと考えた。この夏の成果といえばこのことを再認識できたということだろう。私には私のやり方がある。

 

雨雲レーダー

 雨雲レーダーというものができて便利になった。雨雲の接近が事前に分かるので準備ができる。今後の予測までするので雨止みの時間を予測することも可能だ。

 ただこれも完全というわけにはいかないようで局地的豪雨には間に合わないこともある。また止むという時間の実際より早かったり遅かったりする。あくまで参考程度だ。

 それにしてもこのところ滝のような雨のニュースが時々あるから、こういう情報は大切だ。

神話の意味

 神話には色々な意味がある。神の物語というだけではない。そこにあるのは現代人が求める何かがある。

 神話と言っても例えば土地神話というように、無批判で多くの人が信じているもののことを指す例がある。エビデンスを求めないというより、神話自体が根拠になっているのだ。

 これは古代の神話でも同じで、神々の振る舞いは何かの原因があったから起きたというより、神話それ自体が今起きていることの根拠になっていると考えられている。神々が愛し合うから人間も愛し合い、神々の諍いは戦争の起源と考えられる。

 神話を読むとときに現実では起こり得ないことや話の展開がある。それも神話ゆえに許され、現実の不可解さを語る物差しとなる。いま「百年の孤独」を読んでいるが、これを神話の枠組みで読むと荒唐無稽の展開がわかりやすくなる。そんなことを考えてしまう。

 

米の品薄状態は消費者由来か

 米が店頭で品薄状態になっている。1人1つという張り紙もあった。複数のメディアが報じるところによると、米の在庫は十分にあるが、通常の流通では間に合わなくなっているということらしい。つまり過剰な購入という現象が現れている。

 今夏も異常な猛暑が続き、台風や記録的豪雨の頻発、さらには日向灘での海底地震から発した南海トラフ地震の注意情報もあって非常時への対応が呼びかけられている。食料確保として米が注目されるのは意味がある。

 ただ、必要以上の備蓄は流通の混乱をもたらす。やはり、計画的な購入と消費が必要なのだろう。米などは調理が可能かといった視点でも考えておかなければならないだろう。

俳句どころではない豪雨

 ゲリラ豪雨に遭遇した。職場から駅まで小降りの方だったので結果的にはうまくやったのだが、駅につくとまさに滝のようなあめで屋根からの排水が追いつかず溢れ出していた。

 夕立というのは歳時記的な季節の風物詩だが、ここまで酷いと俳句も作れない。少し経つと止んでまた蒸し暑さが戻って来るのも何とかならないものか。

 最近は常に傘を携行している。この様子だとレインコートも持っていた方がよさそうだ。

多様性を認めるためには

 見逃せないことは息苦しさに直結する。最近、正義を語ろうとするあまりに多様性を蔑ろにすることが増えているように思う。印象で評価された事実が無批判で支持される。それが本当に正しいか否かは考えられず、時々の多数意見で物事が判断されてしまう。

 同調圧力の大きい我が国の国民性は、うまくいけば自律的な社会を形成するが、大抵の場合衆愚に陥りやすい。そうならないために常に教育というサポートが不可欠なのだ。

 しかし、それが最近機能していない気がしてならない。多数意見が必ずしも正しいとは限らないという批判精神を今の教育システムでは伝えにくい。与えられた公式に当てはめて、効率的に正解にたどり着けとしか教えない。だから、同調することへの親和性は高いが、それを検証することは難しい。

 だから、常識人であればあるほど既存の価値観に沿って物事を判断し、逸脱しているものには容赦ない非難を浴びせる。彼らはそれを善行と信じているから、自分が他人を傷つける行ないをしたという自覚はない。自分の価値観に合わないものは劣勢なるものと決めつける。その結果出来するのが自警団に監視された日常である。

 世界は多様であり、価値観も多岐にわたる。それを考えて言動を決めるべきだ。それが今の時代に求められている本当のスキルなのた。

中身は変わっても

 先日、鶴岡八幡宮に行ったとき、例の境内の銀杏がかなり育ってきていることに気づいた。台風で倒壊したときは歴史の終わりのように感じたが、よく考えてみれば、公暁が隠れた木そのものは、それ以前にも倒れていたのかもしれず、結局そのままのものが残っていたという保証はない。

 法隆寺や薬師寺のように木造建築がそのまま残っている文化遺産もある。ただ、これらの建造物も何度も修復作業を経ていまに至っているという。コンクリートより素材の劣化が遅いことや、部品の組み換えが可能なこと等が長寿の原因だ。

 物質的なものはいつかは亡失する。大切なのはそのものの価値を忘れず、どんな形であれ守り通すという意志を持ち続けることなのだろう。中身は変わっても、価値観は変わらない。そういうものが古典とか伝統とか言われるものなのだ。

 私たちが何を大切にしているのか。それを知ることが歴史学なり民俗学なり、文学なりの目的の一つだ。表面的には激変しているように見えて、その奥にあるものは変わらないといったものはいろいろある。

夏休み終了。

 8月も後半に入ったというのに酷暑が続いている。最近は30℃でも涼しいと感じることがあるので完全に皮膚感覚が狂っている。バグっているというのが最近の流行だ。それでも私にとってのいわゆる夏休みは今日で終わりだ。思えば時間があれば何でもできるというものでもないことを証明してしまった。

 何もしなかったわけではないが、何かをしようとして考え抜いて結局何もできなかったということはたくさんある。その方が印象に残るから結局徒労感が先に立っている。やり方を間違っているといえばそれまでだが、あまりにうまく立ち回ろうとしすぎた。もっと失敗してもよかったと考えている。

 ただ、収穫もある。例えばどうしてもうまくいかないときはいっそのこと放棄してしまってもいいという考えを獲得できたことで、ストレスはかなり解消した。できる方法の中でやれることをやればいいというのは一見逃げに感じるが、実は方法論の再検討をした結果だともいえる。できないことは人に任せ、自分ができることを追求するというのでいいのだと考える。そして、結局は小さな積み重ねでしか物事を成し遂げられないことも痛感した。

 昔は夏休みが終わることにこの世の終わりのような悲壮感を覚えたのだが、今はそれほどでもない。むしろやるべきことがある程度決まっている毎日の方が楽な気がする。それほど自分の時間を自分で作っていくことは楽しいが苦しいのだ。これからは日常の中に自分の時間をいかに作っていくか。それを楽しみたいと思う。