威厳があった先人たち

 昔、大先輩とか先生とかいう人には風格があった。どうしても近づけないような威厳というものを感じた。それは必ずしも好人物というわけではなく、中には頑固で問題のある人格もあった。ただそれを否定しきるほどのことはできなかったと思う。

 私は気がつけば嘗てのそういった人たちより歳を重ねてしまった。だが、従前の威厳というものが全く身につかない。自分でも過小評価されているのではないかといじけてしまうほどの存在感だ。なぜ、そういう大切なものが身につかなかったのか。人生の厚みが足りないのはどうしてなのか。

 思うに、積んだ経験の質と量が足りていないのだろう。現代は物事が便利になり、なんでも検索し類型的なものの考えに染まっている。だから、風格を育てるだけの修練を積むことがないままに馬齢を重ねてしまうのだろう。

 私はいまさら先人のようになれるとは思わないが、せめて自分のやるべきことにもっと誇りをもって、できないことはできるようになる努力を続けたいと考えた。これは意外と大切なことなのかもしれない。






長崎を訪れるたびに思うこと

 長崎に短期間の旅行をする。長崎に行くときに思うのは自分の人生の根本にまつわることだ。もう何度か書いているかもしれないが敢えて繰り返したい。

 1945年8月9日、プルトニウム型原子爆弾を搭載したアメリカの爆撃機は八幡を目指していた。製鉄所や多くの軍需工場があるこの地域を壊滅することは原爆投下の大義名分となっていたはずだ、ところが、実際に当地に着いてみると厚い雲に覆われ、投下目標点を見つけることができなかった。そこで、急遽攻撃目標を変更し、長崎の地に変更されたのである。私が絡むのは次の事実である。この日私の父は八幡で生活しており、そのために被爆しなかったのだ。

 長崎に訪れ、被爆の悲惨さを聞くたびに思う。もしかしたら父の命を奪っていたかもしれない爆弾によって、長崎の人が多数亡くなったことに説明が難しいひけめを感じてしまうのだ。そして自分のようなものが生かされていることへ、感謝とともに謝罪の気持ちも浮かんでしまう。

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少し先のことを考える

 中学生のときの社会科の教科書に小さなコラムがあった。このままでは、地球の温度が少しずつ上昇するかもしれないというものだった。授業では扱わなかったし、そんなことが本当に起きるはずはないとほとんどの人が思っていた。

 それから続く気象データの異変は、温暖化や気候変動といつた言葉で説明されるようになった。15年以上前のテレビ番組で、もしかしたら将来は桜の開花が1月か2月まで前倒しするかもしれないという内容のことがコメントされていた。その時も大げさだ。SFだと思った。

 残念ながら、それらの予言のいくつかは当たり、あるいはその状態になる過程にあるといえる。気候の変化が災害をもたらし、農業や漁業などに大きな影響を与えている。予め知らされていてももはやどうしようもないと思えるほどになっている。

 より俯瞰的な視点を取れば、地球はこのあと寒冷期に入るともいう。だが、たかだか100年、それにも達しない寿命しかないヒトにとっては、数世代あとまでのことを考えるのが精一杯だ。その間の変動で幾つもの種が絶滅し、そうではなくても深刻な危機が訪れる。人間にとってはそれらがもたらす動揺が動乱やテロ、そして戦争を誘発し、自滅の道を進むきっかけになるかもしれない。

 少し先のことを考えることは大切である。地球規模の歴史を考えると我々は無力であり、いかに今ある世界を保全し後代に伝えるかを考える方がよい。気候変動はそれを気づかせるためのものなのかもしれない。

小さな怪物の正体

 隣町にある図書館に通うことをほぼ日課としている。今日は朝からハロウィンの仮装をした子どもたちの姿をたくさん目にした。どうやら地域が主催したイベントがあったようだ。本当のハロウィンに近い10月最後の日曜日が選ばれたのだろう。カボチャ色のドレス、骸骨がプリントされたジャージ、ディズニーのプリンセス、ゲームのキャラクターなど様々だった。ほとんどが小学生低学年以下の子どもであった。

 ハロウィンの趣旨をどれほど理解できているのか、親の望みにただ従っているだけなのではないか、などと思いもするが、いい大人が乱痴気騒ぎをするのと違って可愛らしくも微笑ましくもある。これは子どもの行事であると改めて考えさせられた。

 子どもが家々を回り、門付けの芸能人を行い、代わりに報酬を受けるというスタイルは、我が国古来の民俗にもある。神の代理として家々を祝福して回る者で、広く言えば芸能人の元祖のようなものだ。今の芸能人は電波やデジタル信号に乗って芸を見せるが、かつては本当に各家を巡回していたのだ。その子ども版もあったのである。

 ハロウィンがそれと同じとは言えないが、キリスト教の普及以前からあった民間信仰が背景にあることは想像できる。その類似性がこの行事の受容を容易にしているのだろう。得意の和風化によって、大人のハメ外しにしたのは良くなかった。韓国の悲劇も間接的に影響を与えてしまったのかもしれない。

 恐らく根幹にあるのは収穫感謝と先祖崇拝であろうと考えている。アメリカのジャコランタンは先祖を迎えるための道具のように思えてならない。先祖の役を子どもが行うことに意味があったのではないか。

 ちっともキリスト教的ではない風俗が、むしろそうであるからこそすんなりと受け入れられたと推測する。仮装することばかりが注目されるが、その意味について考えるのは無意味ではない。

最後の真夏日

 都心で最高気温が30℃に達したという。観測史上最遅記録である。10月下旬に真夏日があるというのはなんともおかしなことだ。

 ただ、来週からは一気に低温傾向になるらしい。最低気温が12℃となるという予報が出ている。まさに急降下、つるべ落としとは日照時間に対して使うらしいが、気温もまた同様らしい。秋が侵食されているとしか言いようがない。

 猛暑の年は大雪になりやすいとも聞く。最近は様々な自然災害が発生しており、心配の種が尽きることがない。何事もないことを祈るしかあるまい。

 

忙しいときの思考

 仕事などで多忙なとき、場合によってはとても集中できていることがある。特に締め切りが迫っているときは、なんとかしたいと思うからか、結果的にうまくいくことが多い。もちろんそうでないときもあるのだが、記憶の濃淡を辿ると明らかに成功例が多い。

 恐らくそれは努力と妥協との産物なのだろう。余裕があるときはさまざまな選択肢を並べてその中での最適解を求めようとする。大きな間違いをしないための大切な段階だろう。しかし、切羽詰まったときには選ぶべき候補が揃わない。結果的にできることを今やるしかない。そういう思い切りが結果的にうまく運ぶのかもしれない。

 決して余裕のない選択の方が良いなどとは考えない。ただ、極めて短期的に立ち回ることだけに集中したときには、いまある状況の中で何ができるのかを考え、それを構成した方がいいのかもしれない。緊張感はどんなときでもあった方がいいようだ。

晩秋の満月

 旧暦九月十五日の満月はいわゆる名月ではない。一昨日の十三夜がそれであり、今日のはただの満月ということになる。

スーパームーン

 ただ天文学的には今年、最も地球に近づく満月でスーパームーンなどと呼ばれる。最遠の月と比べるとかなり大きいそうだが、ただ見る限りではその差は分かりにくい。大きいと言われればそんな気がする。

 新暦でも10月も下旬であり、来週からは一気に冷え込む予報が出ている。震えずに月見ができるのも最後ということになる。 

典型的な日本人とは誰のことなのか

日本人の代表を選ぶとしたら誰だろう。予め言っておくが、最も優れた人を選ぶという訳ではない。リーダーとしての人材でもない。日本人らしさの代表である。大谷翔平も橋本環奈もその意味では選ばれ得ない。

 ならば、もっとも日本人らしい人は誰か。とたんに難しくなる。そんな人はいないというのが正解かもしれない。でも、敢えて一人を選ぶとしたらという問いに答えることはできるだろうか。

 平均顔というものがある。日本人の顔のバランスを数値化し、平均を取ると出来上がるものらしい。信憑性は分からないが合成された顔を見ると、悪くない。むしろ美男美女と言えるものになる。これは合成された顔が左右均等でバランスのいい配置になりやすいことからおこるらしい。出来上がった平均顔はどこにでもいそうで決してどこにもいない顔だ。

 性格や言動も平均が取れるとして、まとめ上げたらやはり理想的なキャラクターになるのだろうか。興味深いがそんな人物も限りなく気味が悪いものになる可能性がある。やはりこれこそ日本人だと言える人物は存在しないのだろう。

 時代を越えて好まれるのがいわゆる日本人論と呼ばれるテーマである。書店に行けば必ずこの手の本があるし、一定量売れるようだ。そして定期的にベストセラーになる書が現れる。日本人は自国民がどのような存在なのかに関心が高いようだ。

 何を持って国民を論うか。実は極めて曖昧で恣意的な問題だが、それに対する関心は捨てられない。平均顔の写真を見ていろいろ思うのと少し似ている気がする。

十三夜は今日

 10月も半分終わったことになる。日中はまだ夏日が続いているので、かなり違和感はあるものの今日は後の名月である。

 十三夜の由来には諸説あって定まらないようだが、豆や栗を供える習慣から一種の収穫感謝の儀礼であったとは考えられる。満月直前の月影を名月とするのは独特の感性だ。これは日本独自の風習らしい。

歳時記によれば空も澄み、中秋の名月よりも秋の深まりを感じさせるのでよいとか。どちらかだけ見るのは縁起が悪いとかいろいろ言われている。それも民間で長く伝承されてきたゆえだろう。

スポーツ

 最近、スポーツと呼ばれるものをやっていない。毎日、約12,000歩ほど歩き、立っている時間も同年齢の中では多い方ではないかと思う。でも、これは必要にかられてやっていることであり、自主的に行うスポーツとはかなり違うものである。

 なんのためにスポーツをするのかは、人によって違う。いわゆるプロ選手は収入のために行うのであり、その収入は他者より優れた成績を取ることで達成されることが多いから、身体をはって行う。そこに楽しみを感じられれば幸せだけれども、必ずしもそうもいかない。

 健康のためにスポーツをする人もいる。勝利よりも継続することの方を重視する。これは健康という報酬を前提とする。勝敗は無関係というが、何かしらの目標がなければ続かない。意図せずとも他人と比べることになってしまう。そして健康という勝利が実感できないと精神的に不健康になる。

 スポーツは交流の機会という側面もある。試合が終われば互いの健闘を称え合うことで輪が広がる。そういう目的があって、実はかなり大切だ。最近は一人でできるスポーツやそれを行う施設が増えてきた。そしてそれが輪を広げるというスポーツの大切な効果を無にしている。

 スポーツとは何か。そして何をしなくてはならないのかを考える1日であった。