注の話

 現代文の問題を解く際に、本文を読む前に注を読めというのは受験生にとっては常識のはずだ。もし知らなかったら今からそうすべきである。

 注は何のためにあるかといえば、それを理解できなければ設問に答えることができないだろうと、出題者が考えた上で付けている。だから、逆に言えば注は解答へのヒントなのだ。

 そのような視点で問題を見直して欲しい。何でこのような注釈が必要なのか。大体それは設問の主旨と絡んでいる。論文や文学書の注は、本文に盛り込めない脇の知識であったり、自説以外の考え方の紹介であったりする。だから、大抵の場合、注を読まずに読み進められるし、読むとなかなか本文の読解が捗らない。だが、現代文の問題の場合は逆で、注を読まなくては本文が読めなかったり、作問者の意図を取れないことがある。

 一冊の本を読破するのと現代文の一問を解答するのは、読解力が必要とされる点では共通するが、実際の作法には大きな違いがある。大して読書量がないのに国語の問題はできるという人はこの点が分かっているか、問題読解に偏った才能を持っているのかもしれない。

今年のニュース

 この時期になると発表がある10大ニュースという企画がある。読売新聞が発表した読者が選ぶ10大ニュースは、


石川・能登で震度7
大谷 初の「50⁻50」
パリ五輪 メダル日本45個
新紙幣 20年ぶり
闇バイト 続発
衆院選 与党過半数割れ
自民新総裁に石破氏
日航機・海保機 羽で衝突
ノーベル平和賞 被団協が受賞
「紅麴」サプリで健康被害

となっている。
 元日の大地震には驚いた。しかもその翌日に羽田の航空機事故があり、なんという年明けだと誰もが思ったはずだ。死者が出た海保機は能登への救援に向かう途中だというから、なんとも残念でならない。能登は9月にも大雨の被害があり死傷者が多数出た。重なる不幸を痛ましく思うとともに支援を考えなくてはならない。
 経済の分野ではGNPの順位が落ちたことが話題になった。円安に少子高齢化による構造的な問題もあり、この傾向は続く、ドル建てにした一人当たりの名目GDPでは韓国に昨年度から抜かれていたことが発表されている、日本の経済停滞は大問題であり、今後いろいろな問題が噴出する可能性が高い。
 政治の分野で自民公明の与党が衆院で過半数を割り、少数与党に転落したのは裏献金問題が直接の原因だが、経済政策に対して効果が得られなかったことが影響しているのだろう、いわゆるアベノミクスで一時的に衰退をごまかせたが、成長はできず結果として今の事態が起きている。野党は政権交代だけではなく、国民の利益になるような提案を起こして頂きたい。海外ではアメリカやイギリスなどで政権交代が起き、ウクライナやパレスチナの問題は一向に終わらない。被団協がノーベル平和賞を受賞したことも世界的な平和へのメッセージを送りたいということなのだろう。
 スポーツの世界では比較的明るい話題が多かった。オリンピックでのこれまであまり振るわなかった種目での活躍はめまぐるしかった。プロスポーツでは、バレーボールや、バスケットボールなどでの日本代表が国際大会でも勝てるようになってきた。サッカーはアジア大会ではかなり安心して戦えるようになっている。野球はMLBの大谷選手らの活躍が連日報道され、暗い話題が多い中で多くの人たちの救いになっていた。
 闇バイトなどのネットを利用した犯罪集団が多発しているのは残念だ。様々な不安定さが新たな犯罪を生み出す精神的な闇を生み出さないか。来年もそのことには注意しなくてはならない。

元日という言葉

 元日という言い方は古いのだろうか。若い世代では元日という言葉を使わなくなっているのかもしれない。先日、ある場所で若者の話すのを聞いているとどうもその中に元日の意味がわからないという人がいるようだった。1月1日のことだと仲間に教えてもらい。知らなかったと答えていた。どうも、それまでの人生に元日はなかったようなのだ。

富士山

 年賀状に書く元旦の方はもっと分からないのだろう。1月1日の朝を意味するこの言葉を知らなければ賀状の意味は理解できないし、年賀状のお返しに元旦と書いてしまうことになる。もっとも最近は年賀状を書くこと自体が減っているからこの心配は無用なのだろう。

 旧暦においては元日は皆が一斉に歳をとる日であり、神を迎え共に御膳をいただく神聖な1日だったはずだ。今は単なる通過点に過ぎない。あえて言えば商店等が休業になる所が多いということだけが他の一日と異なるだけなのだろう。

 今年の元日は能登の大地震が発生し、大変驚いた。何があるかわかないが、石川啄木の「何となく、今日はよい事あるごとし。 元日の朝、晴れて風無し。」のような1日になってほしいと願うばかりである。

蕎麦湯の楽しみ

 蕎麦湯はそばの茹で汁のことで、一部の蕎麦屋で無料で提供されている。蕎麦に含まれる栄養素が溶け出しているとのことで意味のある飲み物である。だいたいはもりそばやざるそばといった冷し蕎麦に合わされるが、私はかけそばなどの温かい蕎麦にも頼むことにしている。

蕎麦

 かけそばなどを食べ終えた後に、椀に蕎麦湯を入れてしまう。するとつゆがマイルドになり、飲みやすくなる。関東のつゆは醤油が強いのでそばつゆで割るとちょうどよくなるのだ。

 かなり前に蕎麦湯を飲むなんて邪道だよと先輩に言われたことがある。何をもって正邪の差があるのか分からないが、この件については邪道を貫こうと考えている。

即席麺

 寒くなるとラーメンが美味しく感じる。ただ、本当のラーメンはそこそこ高く、給料が上がらない日本人には日常食の域にはない。味に敬意を払うか、やけくそで飲んだあとにしめで食すかになっている。

 でも、同じラーメンでも即席麺は庶民の味方だ。カップラーメンは出先でも簡単に食べられるし、いわゆる袋麺の類は家庭での調理に耐える。店で食べる本格ラーメンとはまったく別のものとして考えれば結構いける。

 韓国のドラマでラーメンを食べるシーンをみると大抵が即席麺である。プデチゲのように見事に即席麺のポテンシャルを引き出したものもある。韓国メーカーの即席麺は日本でも手に入るが、大雑把に煮て食べるのは、日本製の面倒な拘りがない分楽だ。

 即席麺の発明者と言われる安藤百福は日本統治時代の台湾出身であり、日本での成功の前に別人物が類似品を販売していた記録もあるようだ。彼らも台湾系で、即席麺のルーツは台湾にあったというのは間違いではない。ただそれを商業ベースで成功させたのは日本であったことは間違いない。その後の展開からしても即席麺は「日本食」の一つと言える。

 東アジアに共有される味覚を持ったインスタントラーメンが世界各地に広まったのは、ある意味世界的なニーズに答える食品であったからだろう。

 私が子どもの頃から好物であるチキンラーメンはいまだにあるし、昭和のある時期にはノンフライの高級インスタント麺が大流行した。その旨さに感激したのを覚えている。今から考えればやはりそれなりの味だったのだが。

 カップ麺が普及してからは、調理をしなくなった。熱湯を注ぐだけの調理法なので、いるのはやかんだけ。電子ポットを置くコンビニが増えたので、そこで給湯して路上で食べるというスタイルが当たり前になった。

 食文化にとってよかったのか否かは色々な意見があろうが、即席麺の発明には感謝しかない。

回転寿司店の名前

 不景気な外食産業業界にあって回転寿司店は熾烈な競争をしているようだ。親の家がある地方の小都市にもこの業界大手のチェーン店の支店がある。それもかなり近接している。そこそこの集客はできているようだが、地元の個人のすし屋にとってはいい迷惑だ。もっとも求める客層は違うはずだが。
 さて、売り上げ規模から考えると1位はスシロー、2位はくら寿司、3位ははま寿司である。ちなみにこの町には4位のかっぱ寿司、5位の元気寿司の支店まである。おそらく多くの地方都市が似たような状況であり、寿司はやはり国民食であるであることが分かる。
 さて、店の前に大きな電光看板があるのを見て気づいたことがある。くら寿司はKURA SUSHIであり、はま寿司はHAMA-SUSHIなのだ。ほかも寿司の部分がSUSHIになっている。スシロー以外は日本人なら「ずし」と読むにも関わらずである。ちなみにはま寿司はもともとHAMAZUSHiと表記していたが、今の表記に改めている。
 容易に想像がつくように英語表記を読む対象となるのは外国人であろう。彼らにとって日本料理はsushiであってzushiではない。だから、実際の表音をあきらめて外国人にとって分かりやすくしたのだろう。調べてみると上掲の5位までの全てにSUSHIが入っていることになる。スシロー以外は「sushi」とは発音しないのにも関わらず。
 外食産業は潜在的な人手不足になっており、従業員に外国人を雇用することも多い。寿司店に外国人を雇用するのは抵抗がかつてはあっただろうが、いまはそんなことを言っている余裕はない。そのうち外国人の板前の作った回転寿司を外国人がこれぞ日本の味と称賛するときが来るのだろう。いやもう来ているのかもしれないが。私は何人が作ってくれても技能さえ素晴らしければいいとは思う。

椿と山茶花

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 冬の花として椿と山茶花は寒風に負けず鮮やかな花を見せてくれる。両者は一見似ているが、山茶花が10月ごろから咲き始めるのに対して、椿は12月ごろからで花期が違う。ただ12月以降は品種によっては重なって咲く。
 葉の大きさが大きく、つやがあるのが椿であり、小さ目で細かな毛があるのが山茶花であるが、決定的に違うのが花の咲き方と散り方で、椿の花はカップ状に咲くが、山茶花は平たく開ききる。また、椿が花ごとぽとりと落ちるのに対して、山茶花は花弁がばらばらになって散る。これが最も分かりやすいようだ。
 山茶花は日本固有種ともいわれており、学名もCamellia sasanquaと日本語がそのまま採用されている。ちなみに椿はCamellia japonicaだが朝鮮半島や台湾にも分布するらしい。ヨーロッパに紹介したGeorg Joseph Kamel(ゲオルグ ジョセフ カメル)という宣教師兼植物学者の名前を冠してこのような名前になったようだ。日本の花として紹介されたということになる。
 園芸種としても珍重され、さまざまな品種改良がなされている。なかには椿と山茶花を交配したものもあり、それは両方の性質をもつものもあって既述した区分で分けられないこともあるという。
 ついでにいえば茶の原料となるチャノキもツバキ科であり、Camellia sinensisという学名だ。sinensisは「中国の」という意味らしい。椿と山茶花と茶の木が実は近縁種であったとは。身近にも知らないことは多いものだ。 

サンタクローズ

 クリスマスの主役はサンタクロースであると信じていた。しかし、英語のSanta Clausはどう聞いてもサンタクローズなのである。むかしアメリカの映画に「Santa Clause(サンタクローズ)」という作品があった。clauseというのは条項という意味らしい。映画はサンタクロースの役割を果たすという契約を結んでしまった男が引き起こす心温まるファンタジーであった。似た発音にかけた洒落のようなものだと思っていた。ところが、実は発音はまったく同じだと知って驚いたのである。サンタクローズさんだとは知らなかった。

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 英語の発音が日本にカタカナ語として取り込まれたとき、発音が変形してしまうのはいろいろある。Cupがコップとなったり、カップとなったりするのがその例だと思って知らべると、コップはオランダ語由来、カップは英語由来であるという。また日本語では取っ手のないものはコップであるが、取っ手がつくとカップになるのだという。日本語で言うコップに当たるのはたいていがglassと英語では言うのだとか。ならば取っ手のない紙の容器はpaper glassかといえば、paper cupと言わねばならないらしい。取っ手の有無より素材の方が優先する。
 クリスマス(ちなみにX’masは間違いで、Xmasだという)の楽しみは子供にとってはサンタクローズが持ってくるプレゼントだが、大人にとっては実は英語ではグラスというのが正しいコップで飲むビールだったりする。もっともこれは別にクリスマスには限らないけれども。

「む」の話

 文語文法の必須の知識に助動詞の「む」がある。これには意志、勧誘、推量、婉曲、仮定の用法があると学ぶ。そして主語が一人称のときには意志、二人称なら適当・勧誘、三人称なら推量であり、文中で使われるときは推量の意味は弱く、その意味が弱い婉曲かわずかにその意味が残る仮定の意味になるという。受験生としてはここまで覚えていれば完璧だ。

 ただ、同じ語がどうして一見離れた意味を表すのかを考えるのは難しい。意志は「しよう」であり、推量は「だろう」で勧誘は「のがよい」である。これらを一語で言えるはなぜなのだろうか。

 思うに、「む」は対象に対して気持ちが向かうということなのだろう。私が主語のときには、その対象に対して気持ちが向かうので、意志の気分になる。それを自分ではなく話相手に対象に対して向き合うことを求めると勧誘になる。その度合いが弱いと適当になる。三人称ならば対象に向かう気持ちは確信が持てない。だから、推量という形になる。

 文中の連体形の「む」が婉曲の用法になるのはなぜか。基本が対象に向かう気持ちならば、意志や推量の気分が強くなるはずではないか。これが大きな疑問である。ただ、どうもこれは日本語のもっと大きな文法によるものらしい。日本語では物事の確信的判断というものを避ける傾向にある。「なり」「たり」といったいわゆる断定の助動詞を使った表現も、確信というよりも現状追認という意味の方が強いように思える。「なり」や「たり」に含まれる「り」は「あり」の短縮で、そのような状況で存在しているという現状追認と思う。話者の判断による断定ではなく、そうなっているという報告なのだろう。

 ならば「む」が連体形で用いられるとき、そこに話者の判断はなされず曖昧な推量がなされることになる。結果として推量の意味が極めて弱い表現としての婉曲が成り立つことになる。

 かなり恣意的に話を進めてきたので識者からみれば反論はいくらでもあるはずだ。批判を受け入れる用意はある。というより、この疑問を解いていただけるならば幸甚極まりない。

 ただ古典文法を技能として教えることに疑問を持ち始めてしまった者に対する救済を求める次第である。

冬至の祭り

 2024年は12月21日が冬至に当たる。二十四節気のうちの大きな節目である冬至は一年で最も昼の長さが短くなる日であり、逆に言えばこの日から昼の長さが少しずつ長くなる。その意味では復活の日ともいえる。古人は物の影が最も長くなる日として把握していただろう。多くの節気が暦の存在を前提としているのに対し、直感的に感じ取れる当時は特別なものであったはずだ。

 冬至の記録上の初出は『続日本紀』の725年11月の記事である。当時は聖武天皇が国家仏教の考えのもと様々な行事を行っていた時期であり、冬至を祝うのも大陸の風に倣ったものであろう。ただそれ以前から、冬至に関する民間伝承はあったはずだ。たとえば天岩戸神話が冬至に行われた祭祀と何らかの関係があったのではないかという説は有力である。世界を見渡してもクリスマスのようにこの時期の前後に何らかの宗教行事を行う文化は多い。しかもそのテーマが復活や再生であることは自然現象に対する人間の素朴な信仰に端を発しているのかもしれない。気象学的には厳冬期に入る直前の季節であるが、日の長さが長くなる事実は人々にとっては頼もしいことであり、生命力の再興を想起させたのだろう。

 南瓜を食べたり、柚子湯に入ったりとさまざまな民俗があるが、今よりはるかに過酷であった冬季をしのぐための生活の知恵が形を変えて定着したものと考えられる。現代人はその理由をすでに理解できなくなっているが、おそらく切実な願いが背景にはあったのだろう。空を見上げることも、明日の天気を占うこともおろそかになっていることを反省するのである。