人生をポジティブに過ごすことの大切さは誰にでも理解できるだろう。だから、できれば弱気は晒したくはない。何があっても我関せずが理想である。
でも、そんなことは出来はしない。我々はいちいち傷つき、いちいち反省する。それが建設的なことのように考え、毎日を切り抜けていく。
でも、出来ないことは出来ないと潔く認めることも大事なのかもしれない。いい加減なことを重ねていてもやがて化けの皮が剥がれるよりは、できませんでしたと認めて次のことを考えた方がいい気がする。
日々の思いを言葉にして
懐かしく思う楽曲に偶然接することがある。F. R. Davidが歌うWordsには最近出会った。誰もが共感しやすい純粋な気持ちを、透明感のあるボーカルで歌うこの曲は学生時代によく聴いた。当時、流行っていたギター関係の雑誌に楽譜が掲載されたのでコードも分かったので歌ってみたこともある。
最近までこの曲の作者がユダヤ系フランス人であることを知らなかった。歌詞が分かりやすい英語であるのは母語ではなかったからなのか。分かりやすい歌詞は語学力のない私にも何とか理解できるのもだった。Words don’t come easy to me. How can l find a way to make you see I love you. Words don’t come easy. は繰り返されるフレーズだが若いころには切なさを実感できた。
1982年のリリースというからもうかなり昔の曲だ。その頃は自分自身が歌詞のような思いにとらわれる瞬間が何度もあったが、いまはそれを懐かしく思い出すばかりだ。なんでも言語化して効率を上げるべきだと繰り返す言説を少々煩く感じることさえある。
最近よく食べる酒のつまみにジャイアントコーンがある。トウモロコシの一種で粒が大きく食べ甲斐がある。それでいてカロリーはさほどではないらしい。腹持ちがいいので助かっている。
このトウモロコシの変種はペルーの一部の山岳地域で栽培されている。他の地域では根づくことがないらしく、生産量は限られている。私が食べたのは油で揚げたものに塩などの調味料で味付けしたもので香ばしくあっさりとしている。
この記事を書こうと思う前は、原産地のことはまったく関心がなかった。つくづく世界の各地といろいろなつながりがあることを思い知るのである。つまみの値段から考えて、恐らく原価は大変安いのだろう。ペルーがどんな国なのか、生産農家がどんな生活を送っているのか、全く分からない。私としては安価でおいしい食べ物を提供していただいていることに感謝するばかりだ。
最近の命名は男女ともに2音節か3音節らしい。私の世代では女性は3音節、男性は4音節が多数派だった。日本人の名前は短くなっている。
親がつける名前について本人は拒むことが出来ない。いわゆるキラキラネームが人生の行く末に影響を及ぼしたとしても、本人はそれを克服するしかない。名前は所詮記号の一種であり、という一見正論に見える論理を展開してやり過ごすしかない。
でも、名前のもたらす影響は意外に深いのかもしれない。つよしと名付けられれば、心身根性のなにかは分からないが強靭であらねばならないと考えるのだろう。実態はどうであれ、心がけとして、強くありたいという気持ちが内包される。
最近の名前は意味よりも音声の方に興味関心があるようだ。漢字を取り合わせて外来語を表現するのはユニークだが、無理があるものもある。譲治や賢人はそれだけで英語のようだが、舞久や実希を男子の名として使うのは抵抗がある。日本語は外来語に寛容な言語であるから、人命に関してもさまざまな可能性があるのだ。
江戸時代の人の名前を奇妙に感じるように、未来の日本語話者は21世紀の人の名前をクラシックとして感じることになるのだろう。彼らはどんな名前になっているのかと想像すると少し楽しい。
アスファルトの僅かな隙間から鮮やかな紫の花をつけた草が固まっているのを見つけた。スミレであった。なかなか可憐な姿をしているのに、たくましい生命力である。
スミレと呼ばれる草花はいくつもあって、パンジーもその仲間だというが、いわゆるスミレは東アジアにだけ分布するのだという。万葉集の山上憶良の歌にスミレを歌ったものがある。それにはスミレを摘みに来たとあり、採取されるべき植物であることが分かる。スミレの種の中には食用とされるものがあり、ネット上に調理法がいくらでも見つかる。憶良の歌にも食用説が古くからある。
スミレはその他の文学の素材としてもしばしば取り上げられ、その多くは魅力的な存在として扱われている。だから、アスファルトの隙間に咲くものを見つけると何か場違いで意外な気持ちになるのだろう。ただ、他の雑草と違って容易に摘み取られない傾向にあるようだ。
今日は少し気温が下がったというが湿度が高く、体感的にはむしろ暑さを感じた。エルニーニョは終息して昨年のような猛暑にはならないという長期予報も出たが全く安心できない。暑さによる気力の減退、それに伴う間違い、失敗が続出しないか心配になっている。
失敗したら、それを教訓にやり直せばいい。人にはそういうが自身のこととなると臆病になってしまう。特に最近はちょっとしたことで体調や心理面での調子を崩しやすいから気をつけている。さしあたり、なんとかなると言い聞かせる自己暗示法が奏功している。あとは読書や音楽への現実逃避の手段もよく使う。
天候は誰にも変えられない。配られたカードで何とか切り抜けるしかない。大負けしなければ勝利したも同然、少しの後退なら必ずまた取り返す。いまはそんな強がりが自分を支えている。
米価がなかなか下がらない。これには複雑な要因があるらしい。いわゆる備蓄米が行き渡るのにも時間がかかっている。これはもしものときのサプライチェーンの構築が甘かったのかもしれない。
さらに輸入米が密かに浸透しつつある。カリフォルニア米はかつての記録的不作のときに輸入されたが売れなかった。当時は国産米への拘りが大きく、味覚的にも格差があったのかもしれない。ところが最近は大手ファストフード店で輸入米の提供を始めている。牛丼など味付けのある料理においては、外米との格差はさほど感じられない。関税を出しても国産米とさほど価格差がないとなれば安定供給できる方を選ぶのは、当然の成り行きだろう。
米作は日本の主食の生産であり、歴史的にも文化的にも重要である。また、田圃のある風景は日本の原風景の一つであり、これがなくなると里山を含めた自然体系が崩れてしまうとも言われる。食材の一つとしての存在にとどまらないことを再考せねばならない。
アメリカの圧力でコメの関税は恐らく引き下げられる。米が安くなって嬉しいということはあるかもしれないが、その結果もたらされるもっと深刻な問題を考えよう。
この齢になるとやろうと思ってもうまくできないことがある。一番の問題は視力の減退だ。誰かから脳の活性化や筋力の維持はある程度なら加齢してもできるが、視力だけはどうしようもないと聞いた。スポーツ選手の引退の要因は視力の衰退にあるという。
確かに視力の低下は大問題だ。単に見えなくなるというだけのことでは済まない。思考や行動の初期判断において出遅れるからすべてに影響を及ぼす。だから思う以上にダメージが大きい。一流選手にとっては引退を促すことになる。
ただ、三流以下の私にとってはそこまで高いハードルではないのかもしれない。速攻はできないが粘り強く続けて少しでも前進するというのが残された手である。トータルで負けなければいいと開き直ることにしたい。若い世代とは違う意味のチャレンジは続けたい。
公園と呼ばれる空間は共有地として機能している。有料の場所もあるが、多くは無料でその維持費は自治体の支出、つまりは税金である。この空間の意味は大きい。
土地が私有制になるとどうしても格差を生み出す。面積もそうだが、その土地の価値がいろいろな側面から決められ、地価となって表現される。土地を所有しているだけで一種のステータスとなり、それが財産として引き継がれる。もちろん相続には税がかかるが、所有が富のもとでとなることは揺るぎない。
持たざるものも出入を許されるのが公園だ。当然、モラルやルールは守らなくてはならず、勝手に居座ることはできない。ただ、法令を遵守している限りは追放されることはない。このような余裕を残しておくことは都市生活を送る上ではかなり大切だと思う。
公園の成立には様々な経緯があり、中にはかなり政治的な事情もあるようだ。それでも私有空間に一定の猶予を設けることはとても大切だと思う。
トランプ政権の理不尽と言える関税の連続は、国内産業を復活させる目的だと推測されている。生産を他国に任せ、安価な労働力を利用しているのがアメリカの現状だ。ブランド力や技術開発力はあるが、それを自分たちで造れるのかといえばかなりの疑問であるという。
例えばiPhoneは大部分を中国で生産しており、国内生産は少ない。労働対価の問題はあるがそれよりも、技術者が足りないらしい。安価でかつ高度な職人技を要求されればアメリカ人の多くは音を上げることになる。今の価格と品質を維持するためには海外の労働者に頼るほかない。この現実を無視したトランプ大統領の思惑は富国どころか亡国に繋がるというのである。
この未来展望を冷笑するのは容易ではあるが、実は日本とて変わらない。多くの製品を海外に依存し、職人技に対しては充分な評価をしてはいない。また、そういった部門の多くは中小企業であり、経営的な危機に常に直面している。
アメリカの政策の恐らく歴史的な失敗は、資本主義経済の行き詰まりと関係している。日本はこの事態にどう対処するのか。国内生産にどれだけシフトできるのか。そもそも国際経済とは何なのかを再考せねばなるまい。