昨日から気温が急上昇し、日中は春の陽気である。それは嬉しいのだが、花粉の飛散も本格化したようで症状が出ている。対策薬を飲んできたのだがこれからはいろいろ気をつけなくてはならなくなる。
明日も高めの気温で暫くは暖かさの恩恵と苦しみを味わう日々になりそうだ。
日々の思いを言葉にして
東京の地理感は鉄道の路線で把握している。だから、実際に歩いてみると意外に遠かったり、逆にかなり近かったりするのだ。意外と起伏があったり、川が隔てていたり、歩いてみないと分からないことがある
初めてアイススケートをしたのは福岡のスケートリンクだった。年の離れた従兄が小学生の中学年だった私を連れていってくれたのだ。従兄は大学生だったと思う。
その頃は高度経済成長期で地方都市でも景気はよかったようだ。決して安くはない入場料と貸靴料を払うと、ほとんどがスケート初心者の危うい集団の仲間に入ることができた。ただ、そのなかには少数の中級者がおり、群衆の中を巧みに避けながらかなりのスピードで滑走していた。
私はスケート初日にして転倒し、顔に小さな傷を負ってしまった。従兄がひどく恐縮して親に報告したことを覚えている。親は笑うばかりで特に管理責任を問うこともなかった。私も従兄のせいだとは少しも思わなかったが、スケートは怖いものという先入観が完成してしまったのは事実だ。
その後、中学生になって東京で暮らすようになり、近くの代々木オリンピック体育館のリンクで何度かスケートをしたことがある。相変わらずよく滑れなかったが、転倒することはなく、周回くらいはできるようになった。
私にとってはスケートは決して日常とはなり得ない特別な行いなのである。それがときとしてとてつもない憧憬としてあるいは辿り着けない幻想として浮かんでくるのである。
その後、日本にもフィギュアスケートで活躍する人が出たり、スピードスケートでも日本人選手が活躍することがあってスケートへの関心は高まったが、私にとってはスケートは冬のある時期のさらに極めて偶然の動機によるものだった。
私にとってのスケートの思い出はかくして極めて断片的で非論理的な何かの塊だった。
教育改革についてさまざまな意見がある。その中で私が重視したいのが学習者の情に訴える方法である。これは両刃の剣であり、扇情的な手法はしばしば悲劇を生み出してきた。でも、人の心を動かし、未知の能力を引き出すにはこの方法が一番優れている。
最近の教育環境は過酷である。世の中にの役に立つと考えられることはすぐに舞台の中央に引き出され、その関係者は少しだけ優位な世界を展開できるものの、その栄華はとても短く、新たな別の思いつきにその座を奪われる。知識は検索して借用するものに位置づけられて、獲得の途中の経緯は軽視されているから、知ることそのものへの喜びは得にくい。苦労しない分、忘れるのも早い。忘れてもまた検索すればいい、なんなら人工知能に自動化させればいいと考えてしまう。
そういう風潮にあってやらなくてはならないのは、知ることの喜びなり、苦しみなりの手応えを目に見える形にすることなのだろう。教育現場はそれを実演し、実行させる場所であるべきなのだ。決まった答えを決まったやり方で行うことをよしとするやり方は少し整理しなくてはならない。要領よくやることの前には自力で何とかやってみる経験が欠かせない。
日本人が嫌いなことの一つにルール変更がある。自分のチームが不利だと分かるとルールそのものを変えてくる。ここがゴールですよと決めてそれを目指してきたのに、うまくゴールに入れられるようになったあとで、やはりゴールはここじゃなかったんですと急に変えてくるのだ。これは理解しがたい。
ただ、国際社会においてはこれは当たり前らしい。ルール自体は全員に公平です。ただ今のルールでは特定のチームに有利なので変えます。という論理だ。既存のルールに特化してそれを追究してゆく我が国の気質は、突然のルール変更に何度も苦汁を飲まされている。
スポーツの世界ならば何とか我慢できるが経済の表舞台でそれを殺られるとダメージが大きい。結局、ルールメーカーにならなくてはならないということなのだろう。今の日本にそのようなチャンスは限られているが、もしかしたらやらなくてはならないのかもしれない。コンピューターのOSトロンを気前よく開放したり、カラオケの特許を申請しない国民性がどこまで現実的になれるのかは甚だ疑問ではあるけれども。
東急の電車には監視カメラが付いている。出口前の照明の一つにカメラがあるのは周知の事実であり、緑色のランプが点いて稼働中であることを知らせている。車内で起こるさまざまなトラブルを抑止するためにも必要だと思う。
ただ、私たちの日常は以前よりはるかに監視されていることを自覚しなくてはならない。商店や個人宅に設置された録画機能付監視カメラに加えて、自動車に搭載されたカメラも日常を記録し続けている。かつてはどんなに録画しても、それを解析するのに時間がかかるので無意味と言われていたが、人工知能の機能を活用すれば驚くべき短時間で記録の検索が可能になっている。
時間は流れ、そして消えてゆくものであったはずなのに、それが記録され蓄積され、ときに目的に応じて再生される。何とも窮屈な時代になったものだ。私は今だけに生きたいが、過去をむしかえされる恐怖に常に怯えなくてはならないのだから。
さしたる悪事も善行も積んでいない身でかような心配は杞憂であると言われそうだが、いわゆるパノプティコン社会で暮らす身の生きづらさは、微かながらも確実に我が身に迫ってくるのである。
高校生の頃、国語の教科書の後ろにある年表に掲載された作品をどれだけ読んだことがあるかを競っている級友がいた。漱石や鴎外だけではなく、文学史では名前を聞いたことがあるが読んだことはないという作品を彼らは面白かった、そうでもなかったと論じていたのである。私はついにその輪に入ることはできなかったが、密かに対抗心を燃やして読んでみたものもある。多くは意味不明で理解不可能だった。私は読み始めたら、とにかく最後のページまではめくらなくてはならないと勝手に思い込んでいたので、難行苦行の読書体験が続いた。
それでも島崎藤村の詩集にであったことは私にとっての幸運であった。自然主義文学の世界はどこか納得いかなかったので、同じ作家の作品とはなかなか判別できなかった。西田幾多郎の哲学の本とか、葛西善蔵とか太宰治とか読んでも実感がわかない小説とかもとにかく濫読してその多くは内容も忘れてしまった。文学者になる人との分かれ目はそういうところにあるのだろう。
そして受験勉強の大義名分をもとにそうした目的なき読書は中止してしまった。大学の教養時代に少しだけ復活したが、世は効率を求める時代になっており、何がいいのか分からない読書の経験は価値が低いものと考えてしまったようだ。
でも、愚直にあの網羅的読書を続けていたら私の人生はもっと違ったものになっていたのではと思うことがある。その方がよかったのかどうかは分からない。ただ、先人があれこれ悩んだことの経緯をショートカットしないで辿っていたら、今のような器用だけれど実感を持てない味気ない毎日はなかったのかもしれないなどと勝手に考えてしまうのである。
高校時代に読書自慢をしていた彼らはどうなったのだろう。その輪にはやはり入っていた方がよかったといまでは思う。
ミラノ・コルチナオリンピックの中継を観ながら、冬季種目はつくづく自分にはできないことだと思う。もちろん例えば陸上競技でもアスリートにはとても叶わないが、まだ競技場を走ることはできるが、スキーもスケートもできない私にとってはとても真似のできないことをやっている。
スケートは日本選手も活躍している。スノーボードもメダルを取った。ただアルペン種目やノルディック種目はほとんどがヨーロッパ選手が上位を占め、アメリカとカナダの選手がそれに混じるというのが現状だ。アジアの選手は日本を除けば中国と韓国の選手が少しだけ。明らかに欧米中心の大会だ。
雪や氷の上で行うスポーツの性格上、競技人口は限定される。ただ、夏の大会では存在感が薄い北欧の選手が脚光を浴びるこの大会は価値があるのだろう。日本のように四季があり、さらに地域差もある国は世界的には稀であり、どちらの大会にも出場出来ることは幸運だと言うしかない。
日本企業が世界で主導権を握れないのは検証をしすぎるからだという意見がある。万一のための試験を繰り返し、失敗をしないように実験や調査を繰り返す習慣が、国際的競争力を奪っているのだという意見だ。ある意味当たっているのかもしれない。せっかくいいものを作り出しても、検証に時間と資金を使っているうちに他国との競争に敗れてしまう。そういう話はいくつも聞く。
日本がこのように慎重になるのは、過去の公害や健康被害などの経験を繰り返しているからだろう。それは大切な教訓であり、消費者利用者に対する信用を極めているということなのだろう。だから、この慣習をあながちまちがっているという批判はおかしい。それでも、現状では日本の技術開発なり、商業戦略なりは負け続けることになりそうだ。だから、できたところからすぐに公開して利益を出していくということは大切なのだろう。人材不足は今後の課題である。少子高齢化に加えて、海外企業への転出が続く中で、優秀な人材は貴重になる。人工知能などの活用で、機械的な作業は極力省力化して、クリエイティブな方面の人材を増やすことが必要になる。
教育の方面もただ就職するための学歴を磨くというより、想像力や創造力を発揮できるような基礎知識と自由な発想をする機会を提供することが必要になるはずだ。それはもしかしたら、今のようないたずらな情報処理能力の追求ではないのかもしれない。もっとじっくり物事を考え、これまで考えもしなかった独創性を発揮できるようにするべきなのだろう。
日本チームがオリンピックでメダルが取れているのは選手の能力と努力はもちろんであるが、それを引き出すような環境が揃っているからだという。長期的なものの考え方と機を見て方針を変えていく思い切りの良さをとを両立させることが求められている。
話は単純ではなく、さまざまな方面を効力してそれを統御していかなくてはならない。個人の力をまとめて、それを実現していくより俯瞰的なものの考え方が求められているのかもしれない。その見極めのできる能力こそが未来を拓いていくのだろう。