下旬

 6月も半分が終わった。やるべきことが終わらないまま、過ごしてしまったことになる。どうも来週はかなり暑い日々になるようだ。煮え切らないというより、湿り切らない梅雨が続くことになる。

 なんとかしなくてはならないと思うほど、何もつかめなくなると感じる。できなくて当たり前と割り切るようにしたい。他人に迷惑をかけない限り、オウンペースで切り抜けたい。

 

濡れた傘の持ち方

 雨が降ると傘のことが気にかかる。電車に乗って移動することが多い私にとって濡れた傘をどうするかは大きな問題だ。満員電車に乗ることが多いので一層困っている。

 傘は持ち方によっては他人を濡らしたり、先が当たってけがをさせるおそれがある。だから、私は折り畳みを利用するが、これだと今度はそれをどのように持つのかが問題になる。いまは傘についている袋を濡れたままでも無理やり入れてしまって、傘を小さく収納している。それでも雫は気になってしまう。

 おそらくすでにあると思うが、その袋に入れると速乾する素材のものがあればいいと考える。その都度、水を切ればいいと思われるかもしれないが、都会に住んでいるとそれもなかなか難しい。傘の持ち方の工夫はこれからも考えていきたい。

狐の役どころ

漢文の授業で「戦国策」にある「虎の威を借る」という件を扱う。虎に捕えられ絶対絶命の狐が、天命によって百獣の王に任ぜられたものと偽ることで危機を逃れるというあの話である。

 弱い者が機知によって強者に勝つという話のように思うが原文に当たると話の目的が異なることが分かる。隣国から送り込まれたスパイのような者がこの話を語るのだが、その中では虎は王の比喩であり、狐は実力者である重臣を例えている。そして、重臣が王の権威を蔑ろにして、自らを王の力を持つものと僭称しているというのだ。王と臣下の信頼関係を貶めるための話ということになる。内紛を狙った工作の話は他にもあるから、その一つであることになる。

狐はあくまでも狡猾な立回りをしたまでで、機知を賞賛する気分はなかった。絶対的な王制の時代に王臣の関係を覆すことが推奨されることはないだろう。現代人が狐を賢い者と捉えるのは、既成権力にも知恵を使えば立ち向かえると考えるからだ。反面、権威に対する敬意を失っているとも言える。

 現代人が社会で行っているのは狐の知恵なのだろうか。

五月晴れというより

 今日はかなり暑くなりそうだ。東京でも真夏日になる可能性がある。先日梅雨入りしたばかりだが、早くも中断した。

 昔の言い方だと五月晴れなのかもしれない。今日は旧暦で言うと5月17日であり、皐月の只中なのである。ただ、伝統的季節感とは異なり、気温が高すぎる。五月猛暑なる言葉はないがそう言いたくなる。

 暑熱順化が整わない今頃の方が熱中症に罹りやすいと聞く。日々の気温差も身体にダメージを残しやすい。意識して給水、汗をかくことを厭わないことが必要だ。

駅の紫陽花

駅の紫陽花

最寄駅の構内にある植え込みに咲く紫陽花はこれからが見頃だ。元は日本のガクアジサイであり、それが国内外で品種改良されて今に至るという。シーボルトの逸話も有名であり、この花への接点はいくらでもある。

 その中に蓄える毒のことなど、実に奥深いが、梅雨空の癒しとしてこの花の果たす役割は大きい。地質により色変わりするという繊細な生態も魅力だ。

 紫陽花に救われる日がこれから増えるのだろう。花に報いることはできないが、せめて霖雨の季節を乗り切ることを目指したい。

納豆巻

 私がコンビニで購入する品目の上位に納豆巻きがある。納豆自体がかなり癖のある食品で日本人でも苦手という人が多いが私にとっては好物である。発酵食品は健康によいとかいう能書きの前に純粋に好きなのだから、理屈はいらない。

 ちなみにコンビニの納豆巻きの包装は実に巧妙にできている。海苔が飯に接触せず、フイルム一枚で断絶されている。いよいよ食す時となって、それを触れ合わせる。海苔の乾燥した食感と、飯のしっとりとした感覚がここで初めて融合する。実に巧い組み合わせである。

 納豆の味を見出した先祖に感謝、また絶妙な納豆巻きの包装の発明者にも敬意を表する。

梅雨入り

 関東地方も梅雨入りした模様だ。今日は朝から雨、いまは止んでいるがいつ降ってもおかしくない感じがする。

 気象関係の会社のコメントによれば今年の梅雨はかなりメリハリのあるものになりそうだとのこと。降れば土砂降り。晴れれば猛暑。これを梅雨と呼んでいいのかと思う。果たして本当はどんな季節になるのだろう。

 唱歌の「夏は来ぬ」に描かれる。五月女の田植えや水鶏の独特な鳴き声など水田の風景は今の住まいからは別世界だ。恵みの季節になってほしいと願う。

妄想不足

 学生の頃、小説のようなものを書いた。いま考えても愚かな内容だ。日常にあるきっかけで変化が起きる。それまで出来なかったことが急にできるようになり、それゆえに世界観が激変するという内容だ。

 ただ、自分だけ変わっても結局何もできない。その無力さに気づくと持っていた能力が失われてしまい、虚しさに苛まれるといった筋である。当時よく読んだ小説の二番煎じだ。味付けを当時の生活に引きつけて書いたので、それなりにいいとは思ったが、もう原稿はどこかに行ってしまった。

 同じような内容を今書こうとしたら無駄な注釈をたくさん入れてより理屈っぽいものしかできないだろう。最近、感じるのは妄想ができないことだ。創作にとって大事な一歩目が踏み出せない。

 だから、このブログのような短いエッセイしか書けていない。それでも書けるだけまだましと自分を励ましている。突飛推しもないことを書くのはしばしば創作の代替行為である。嘘は書いていないつもりだが、事実でもない。妄想したいができない自分の苦しみの跡なのだ。

明日にも梅雨入りか

 今日は薄雲が一日中多い、夕刻には雨がぱらついた。天気の週間予報を見ると明日からおおむね雨か曇り、おそらく関東地方も明日には梅雨入りするのだろう。

 梅雨というのは梅雨前線と呼ばれる停滞前線がその地方に継続的にかかる状態をいうそうだ。今日の天気図をみると、本州の南海上に梅雨前線がつながっており、九州南部はそれが一部接している。これが北上すると本格的な梅雨が始まるということだろう。

 関東地方の梅雨入りの平均日は今日(6月8日)らしく、今年はほぼ平年並みの梅雨入りとなりそうだ。例年、梅雨末期に水害が発生する傾向にあるので、これから備えておく必要がある。といっても私のできることは限られている。雨に降られても何とかなるように着替えを職場に用意しておくこと、ズボンの上に穿くレインコートを用意しておくこと。折れない傘を用意しておくことなどがある。おそらく、そのどれかを忘れて慌てふためく自分の姿が思い浮かぶ。

 適量ならば恵みの雨だが、最近の天気は過激で変動が大きい。被害が出ないことを心より願う。

歌の力

 古典文学の世界のお約束に和歌は特別というものがある。現況の困難を歌が解決するという話は類型が多く、読解の鍵となる前提条件だ。

 地の文が理を述べるのなら、歌は情の表現であり、古人が何れを尊重していたのかを窺い知れる。

 現代では情的なメッセージは副次的なものであり、ときにはノイズの扱いを受ける。どちらがよいというわけではないが、現代社会の息苦しさの一因が情の軽視にあることは間違いないのではないだろうか。