脚本家の出番

最近のドラマなり演劇のストーリーはかなり凝っていてかえって生の感動を得られない。これは私だけの感想なので根拠のない言説である。でも、そんな世間擦れした私でも感動のツボに入ってしまうことがある。これを提示できるのがプロの脚本家なのだろう。

私の場合、趣向を凝らした複雑な筋より単純に感情移入出来るものの方が好みである。そのためにはありそうでない展開を組み合わせ、受け手の感情を揺さぶることが求められる。日常の連続のように見えて、少しずつ創作の意図に引き込み、最後に飛躍する。そういう展開は感動しやすい。

人工知能に条件を指定してストーリーを作らせたところ、設定や展開は一応できていたが、感動させる飛躍の幅が大きすぎる気がする。無理矢理結末にもっていったという感があるのだ。この点の塩梅はやはり脚本家の出番なのだろう。

プラス2.36

今年の日本の夏の暑さは平年より2.36℃高く、観測史上最高なのだそうだ。昨日も9月の始まりとは思えない猛暑で気候変動が夢物語のように語られていたことが遥か昔日の感がする。

パリ協定の目標値が産業革命時から1.5℃の上昇に抑えることであったと記憶している。夏だけの日本の観測地とは条件が異なるが、どうもこの人類の悲願は達成できそうもない。僅かな気温上昇が氷河を融解し、海面上昇が多くの人々の生活圏を奪う。誰のせいか分からないが気がついたら、人間が住めない地域が増えていたということがSFレベルを越えて現前している。

ならばお前からエネルギーを節約する生活に変えよと言われても現実的ではない。車に乗りたいし、遠くの産地の美味しい食材もほしい。できる範囲で何ができるのかを考えた方がよいとしか言えない。

いまだに温暖化人為説は陰謀だとか非科学的だとか、地球史的には今後寒冷化に向かうとかさまざまな言説があるが、いまできそうなことを試してみることは必要だろう。

不器用な現実

 結果的にうまくいくということもある。それはそれで評価すべきだと思う。最近は完璧な展開から理想解に達することを求め過ぎている気がする。実社会はもっと不器用なものであり、不規則でもある。

 情報化社会に人工知能の技術も加わって私たちは効率化とか省力化とか、そういう無駄を排除する考え方に染まってしまっている。どこかの成功例を検索してその通りにやろうと思っても、条件がいろいろ違う自分の人生にはそのまま援用することはできない。できないとあたかも自分の能力が劣っているかのように考えて、ますます惨めな気持ちになっていく。

 手本を知らない誰かに求めるのはやめた方がいい。いろいろ違うのにその通りにできるとは考えない方がよいということだ。向上心は身近な目標に求めるべきなのだろう。そして自分を含めた私たちを幸せにする方法を追求するべきなのだ。

 他者を出し抜き自分だけが優位に立とうとするやり方をこのところの社会は奨励してきた。自分の利益になることは徹底的に求めるくせに、対立する考えは無視したり攻撃の対象にする。これではその場では勝てるかもしれないが、結果的に幸福感は持てず、周囲の人も不幸にしてしまう。このやり方に違和感を覚える人が私の感覚だと少しずつ増えてきている気がする。

 目先の利益で行動することが結果的に何をもたらすのかを分かってきたならば、安易に他者と比較したり、非難したりするのが得ではないことに気づく。不器用な現実に立ち向かうならば、それなりの覚悟と寛容さが必要だ。失敗を重ねてその結果ようやくたどり着いた解答が間違っているかどうかはそんなに簡単に評価できるものではない。

食洗機のし残したもの

ファミリーレストランに行くと、価格の安さには驚くとともに企業努力には感心するが、やはり一言言いたくなることもある。恐らく機械で洗浄したものをそのまま客にだす食器類にはよく見ると細かい洗い残しがある。衛生基準的にはクリアしていてもやはり気になりだすとどうしようもない。自分で拭いて使えるようにしている。

 恐らく将来のこの国の姿はもっとこうした傾向が強くなっていくはずだ。おもてなしの国といっても何がおもてなしなのか分からなくなり、機械に頼って省力化して効率化を上げれば成功だとされる。客側の基準も下がり、職人技的な接客は超高級店のみのものとなり、多少の無作法は容認されるようになるのだろう。

 そうならないようになる道はある。人工知能がより高度化されるといわゆる文系的人材はもちろん、理系的な人材の多くが不要になる。彼らが就くのは機械では実現できない人間的な仕事だ。細かな顧客のニーズに対応して、ケースバイケースの対応をするサービス業務が辛うじて生き残る。いまは外国人労働者に委ねている労働の多くも、将来の日本人の働き場所となる。そのためには待遇改善が欠かせない。職人技に対する評価がこれまで以上に高まる時代がくるはずだ。

 逆にいまは高給取りの職の多くが人工知能などに代替される。汗をかかなければ収入が期待できない時代がこの後すぐに出来しそうである。農家や芸術的な工芸職人がエリートになる時代になるのかもしれない。

 恐らくそういう時代に私はもう生きていない。ただ、いまの常識がいつまでも続くとは思わない方がいいとは後輩に伝えたい。

9月病になる前に

 明日から新学期だ。気持ちを切り替えて再び始まる日常に臨もう。もしかして、明日からの日々に不安を抱えている人もいるのではないだろうか。私もその一人だが、でも敢えて言いたい。明日からの日々はきっと面白いものになると。

 夏休みが休養になると考えていた時代はよかった。今は夏休みは文字通り耐える時期である。今日もとても暑く、およそ何もする気になれなかった。冷房を付けてネットに接続してしまえばいつもながらのコーディネイトされた快適世界が展開されるが、どうもこれは違う。画面に現れるのは過去に閲覧した情報をもとに類似情報を集成して出来上がった偽の世界であり、現実の乱雑さとは別物である。本当は街に繰り出して自分の予想だにしない世界に触れる機会であった。それをこのばかばかしい猛暑がさえぎってしまったのである。

 だから9月からはリアルな現実に向き合える楽しむべき季節が始まると考えればいい。快適なことだけではない、性に合わないむかつく現実にも直面する。クッキーが選択しないどうしようもない現実が次々に襲い掛かってくる。それを恐怖とみるかエンターテインメントとみるかで暮らし方は変わる。若い皆さんには言いたい。世の中で優位にふるまっている人々や、いわゆるマウントをとる人たちの栄華は短い。大切なのは不如意であっても現実を生きることだ。決してアレンジされた仮想現実に逃げ込んではいけない。

 9月病なる言葉は昔からあって、乗り越えなくてはならない課題のように考えられてきた。たしかに生活のリズムが変わるのは負担が大きい。でも、失敗しても間違っても全く構わないのだ。周囲の人々に笑われるのが怖いという人がいるが、周囲の人はたまたまその場にいるだけで、自分の価値観と合わないだけなのかもしれない。いまは小さな世界だけに拘束される時代ではない。他人の評価は参考意見くらいに考えて受け流そう。

 自分以外の価値観を認められなくなった人は哀れだと思う。今その人がどんなに裕福であっても、どんなに有名であってもいつかそれは破綻するきがする。自分の価値観がいつまでも他人に理解されるとは思うべきではない。むしろ理解不可能なのが人間というものである。それを他人に押し付けるのではなく、他者のへんてこな考え方をいかに理解するのかがこの世を生きるためのコツのような気がする。

 明日から始まる生活に不安を持っている人には特にこう言いたい。不安を持つことは現実に対してまじめに取り組んでいることでよいことだ。予想を超える事態が発生するかもしれないが、それも楽しもう。他人の評価は気にすることはない。もしかしたらとても尊いことをしたり考えたりしているのに周りが理解に追い付いていないだけなのかもしれない。

存在していることを確認するために

ブログを書くのはなぜですか ?

 内容の質は低いが毎日文章を書いているという事実だけは自らも誇りとしている。参加賞狙いの毎日である。

日記を書くのがなぜ続かないかと思ったら、それは読んでくれる人の存在の有無であろう。私のブログはアクセス数がかなり少ないのだが、それでも頻繁に読んでくださる人もいる。流行りのこととか、有名人の話とか、特別な情報などはないこのブログにお付き合いいただける方がいらっしゃるだけでもありがたい話だ。

これからも思ったことを思いついたままに書いていくから、繰り返しも、矛盾も、誤謬もあるだろう。ただ、文章を書くことによって自分の存在を自分自身が確かめるという営みとしてこれからも続けていきたい。

休みは終わっても夏は終わらない

 8月もあと2日というのに今日は猛暑になっている。予報によっては東京は今年の最高気温になる可能性を指摘している。朝からかなり暑く、外を歩いてきたら冷房のある室内でも汗が出続けている。かなり異常な状態だ。ウェザーニュース社の予報では東京は38℃、埼玉は40℃という最高気温予想が出ている。

 この暑さは数日続くらしい。9月2日まで猛暑予想で涼しくなるという表現がふさわしくない3日も30℃の予報である。明後日までは最低気温が27℃以上ということで明らかに東京は熱帯である。来週からは新学期も始まり心機一転というつもりでいたのだが、しばらくは夏対策を続けなくてはならない。

芸術を目指す

 AIの作り出すさまざまな作品に圧倒されているうちに何が大切なのかを考えている。人工知能が参考にするのはデジタル化された言葉や映像であり、それを高速に検索して合成する。この工程においては人間に勝ち目はない。

 いわゆるハルシネーションなる脱線もだんだん少なくなっていきつつあるらしい。実行例を重ねるほど精度が上がってゆくのである。

 ならばどうしても人工知能に処理できない非デジタル情報を活用するしかあるまい。手触りなどの感触、インスピレーションなどの定量化しにくい何かをどれだけ発揮できるのかを鍛えるしかない。ただ、それもコード化すれば同じことになる。デジタル化できないものをそのまま表現する力が差別化の鍵となるようだ。

 それは個性であり、独創である。結局、芸術と言われているものが重視されていくのだろう。この方面の力をつけるためにも、規格品、他人と同じ価値観に甘んじることからは離れなくてはならない。どこまでできるか分からないが、私もそれを少しずつ目指して行きたい。

イヌサフランもしくはコルチカム

 イヌサフランという名前を持つ秋ごろに咲く花をかつて植えた頃がある。コルチカムというらしい。サフランに似ているがよりバリエーションがあり、秋から初冬の花壇を彩るのによい。

 かつて住んでいたところがこのコルチカムの産地で、近くの園芸店やホームセンターで袋詰めで売られていた。水耕栽培ができるほど生命力が強く、ほとんど何もしなくても開花するのは怠け者にはありがたい。

 ところがこのコルチカムには毒性があり、決して口にしてはならないものらしい。ギョウジャニンニクの芽とよく似た形なので事故例もあるという。花はけっこう綺麗なものだが、それ以上の欲を出してはならないということだ。

 イヌサフランという和名のイヌとはまがいものとか、役に立たないといった意味がある。タデに対するイヌタデのようなものだ。サフランは確かに綺麗だし、雌蕊は天然の食物染料である。ただ、サフランもまた食用になるのはそこだけらしく、他には毒性がある。本家とイヌとの差は人間の恣意的な区別に過ぎない。

 いま植えられる球根は何かを調べていたらサフランの類があると知った。馬鹿げた猛暑が去ったあと、心を慰撫してくれる鉢植えを考えている。今仕込めるのはなんだろうか。

感動のツボ

 最近、感動のツボが変わってきている気がしている。凝りに凝った仕掛けよりも、純粋に当事者の人間性が垣間見えることが感動の種となっている。作り込み過ぎた仕掛けはそれが人工知能の作った精巧なフェイクであつても感情移入できない。

 私自身のことしか言えないが、おそらく大抵の人たちにとってもこれは当てはまるはずだ。どんなに上手く作ったストーリーも、実話に劣ることがある。創作者はこのことを意識して、創作を限りなく実際のことのように装う。

 最近はかつてディープフェイクと言われていたものが簡単にできるようになっている。作られた偽物が氾濫するようになると、人々が求めるのは多少辻褄が合わなくても人間らしさがあるものに惹かれるようになる。そこにはさまざまな矛盾があり、辻褄が合わないこともある。それを含めてリアルな実感を覚えるのである。

 先日、人工知能に一定の設定を指定してシナリオを書くように指示してみた。数分の間にかなり凝ったストーリーを作り、体裁も整っていた。内容も一見するとよくできていて驚いた。そこに足りないのを敢えてあげるとすれば、意外性ということだと思う。論理の飛躍を意図して行うということは人工知能には今のところ苦手なようだ。

 何に私たちは感動するのかを詳しく研究することで人間とはどのようなものなのかが分かるのかもしれない。