牛久シャトー

 久しぶりに立ち寄った。企業としては一度倒産し、市の補助もあって保っている。建物の一部が実は重要文化財であり、日本遺産にも指定されている。

 ただここの魅力はワインの醸造の現場を見学し得ることであり、ワインを飲みながら料理が食べられることであった。博物館のとしての機能も大切だが、その場で体験できる何かがあるとなおいい。まだレストランはやっているようだが、もう一つ何か人を引きつける何かがほしい。

 絵になる風景ではあるので、映画やドラマのロケ地に利用できるし、何らかの定期的イベントを行ってほしい。そのための資金をどこから調達するのか。思案のしどころだ。

不老の夢

 もし老けなかったらという妄想は何度も繰り返している。不老不死ははるか昔からの永遠の課題だ。玉造小町子壮衰書は岩波文庫で読んだ。小野小町ではないのだが、歴代の読者は「花の色はうつりにけりな」の名歌に絡めて、そのように読み取り、不死の美女の晩年の寂しさを感じ取った。この読者史の末流に立つ私は不死に夢を託せない。

 不老不死ではなく不老有死ならどうだろう。まったく老いることはないのだが、寿命はあってあるとき突然死を迎える。これならいい気もする。いわゆるピンピンコロリである。人生の最期まで現役でいられることは夢のようではないか。

 でもよく考え直すならば、何か違う気がする。死の直前まで全力で機能し、あるときそれが急に絶える。これは機械と変わりがない。身体という道具に乗った生命が電池が切れるまで動く。その後は途切れるというのは、おかしな話だ。我々にはやはり老化が必要なのではないか。死へのデクレッシェンドがあってこそ、人生の意味を考えることができるのではないだろうか。

 死にたくはないと思うのは当たり前であった。そのためにはあらゆる抵抗をしたいと考えていた。それが少しかわりつつある。やはり長生きはしたいが、限度はある。それが思秋期の悩みなのだろう。

働きたい人には

 統計上では日本人は勤勉ではないという結果になるのだそうだ。かつては過労死が社会問題になるほどであり、強制的に労働を中断することが雇用者の義務となった。残業は悪とされ、仕事が速いことが褒め言葉として定着した。ただその結果、競争力は削がれ、独自の展開を目指す者も減ってしまった。

 よく言われる効率性という点でもランクダウンが続いている。仕事をする時間を削った分だけ、効率が上がったならば意味がある。しかし、実際はそうはならず、単なる縮小をもたらしたのだった。

 もっと働けとは思わないし、人に強要されたくはない。だが、自主的に働こうとする者には自由を与えてもよいのではないか。そしてこの成果についてはより高い報酬を支払うべきではないかと考えている。ワークホリックを一律に禁じることなく、十分な待遇を用意してもっと働いてもらうことも大事だと考える。これは強要ではない。あくまで働こうと思う意志をくじかないようにするべきなのだ。

 いわば第2勤務時間のようなものを設けて、それに対して正当な報酬を行うこと、それが今後の日本には大事だと考える。

羽アリの日

 隣町のコンビニを訪ねたことろ、窓辺に大量の羽アリがうごめいていた。一部は店内に侵入し、若いバイト店員はその処置に当惑しているようで、掃き集めさえしない。レジ台にも虫がいてあまり気分は良くなかった。

 この時期になると羽アリが突如発生する。巣分けのときにアリは羽を思い出すらしく、新しいファミリーの形成のために空を目指す。その中で交尾が成功したごく一部の番がアリの家族の主となるらしい。もっとも生き残るのはメスだけのようだが。

 羽アリの日を迎えたことは一つの僥倖と捉えるべきなのだろう。都会の中にあって、生命の営みの重要な一場面を目撃できたのであるから。

傘

 今日は少しだけ雨が降ったようだが私自身はそれに当たらなかった。常に折りたたみを持ち歩いているので、傘に悩むことはめったにない。これからも梅雨の霖雨が続くようだ。

憧れの人

 憧れの人というのはかなり怪しい。なぜなら、あこがれはどんどんインフレを起こし、実態以上になってしまうからだ。私の中で理想と考えるものがいくつかあって、それらは過度に理想化されている。そのことに気付いたのは歳を重ねた後だが、いまでも完全に客観視はできていない。

 韓国ドラマでは初恋の人が特別扱いされている。おそらく実際はそういうことはめったになくていわば理想型として考えられているのだろう。韓国ドラマをみる限り、我が国よりも理想に関する思い入れは大きく高く、妥協点は高所にある気がする。

 私の場合は、基本的に現状を受け容れる立場であり、まさに妥協だらけの人生だ。かといって、現状に不満がある訳ではない。今ある状態を結果的に最良の選択をしていると肯定的に認めることができる。それは私の場合の長所であり、欠点であると自覚している。

 憧れの人といったときに若い頃は異性の恋愛対象が思い浮かんだ。でも、今は性別ではなく、自己実現をするために努力を惜しまない人にそれが向かうことが多い。いわゆる偉人でなくてもいい。巷間の雑事にあって自分の信念を貫き、活動をし続けている人々に羨望の念を抱くのである。

 そして密かに自分自身がそういう人になりたいと思い続けている。敬われたいとは思わない。たとえば、通り過ぎた後に、しばらく経って、ああああいう人は貴重だったなと追認されるような人になれたらいいと考えている。

 最近、心身の変節点を感じることが多い。先述した希望を叶えるためには残された時間は少ない。誰にも迷惑をかけたくないが、誰かの役には立ちたい。そんな夢想をいつまでも続けている。

Podcast Episode: 反・反教養主義

Pip: 瑠璃荘の書斎へようこそ。AIが何でも答えを出してくれる時代に、人間がわざわざ教養を積む意味があるのか——そんな問いが今回のテーマです。

Mara: Mitsuhiroが書いた記事を取り上げます。教養主義への批判を、さらに批判するという入れ子構造の議論です。では、反・反教養主義の話から始めましょう。

反教養主義への反論——人間に残された力とは

Pip: 「教養は特権階級の道具だ」という批判は長い歴史を持ちます。でも今、その批判が行き過ぎて、学ぶ意欲そのものを削いでいるとしたら、話は変わってくる。この記事が問うのはまさにその逆説です。

Mara: 問題意識の核心はここに置かれています。「現実世界の問題は決して単一の論理で解決できない。相反する考え方の乱立する中で一つの方針を決めなくてはならないことの方がむしろ普通なような気がする。」

Pip: つまり、正解を素早く選ぶ力ではなく、矛盾を抱えたまま判断できる力こそが問われているということです。それはAIが最も苦手とする領域でもある。

Mara: その点で、現在の教育トレンドへの懸念が示されています。大量の問題を短時間で処理させる方向性は、情報処理能力を鍛える一方で、内容への興味を失わせる可能性がある。そして皮肉なことに、その情報処理こそAIの得意分野だという指摘です。

Pip: 入試問題は解けても、その問題が訴えているメッセージを深く考えない——有名大学のエリートにすら当てはまるという観察は、かなり手厳しい。

Mara: 一方で、反教養主義への批判も丁寧に受け止めています。知識の独占が社会的地位を固定化してきた歴史は事実として認めた上で、今は状況が違うと論じています。

Pip: 「自分のことを棚に上げて理想を言う」と最初に断ってから議論を始めるあたり、自覚はある。

Mara: そのうえで、今後の教育は実体験や読書体験の蓄積を問う方向に動くだろうという予測が示されます。ただし「そこに至るまでにはもう少し時間がかかる」とも。

Pip: AIに代替されない力を育てる教育へ——その転換が来る頃、書いた本人はすでに現役ではないかもしれないという一文が、静かに重い。


Mara: 教養を積む理由が「AIに負けないため」になる時代は、それ自体すでに何かが変わっているのかもしれません。

Pip: 問いを立て続けること自体が、まだ人間の仕事ですね。次回もお聴きください。

反・反教養主義

 自分のことを棚に上げて理想を言うことにする。これからの知識人はもっと幅広い教養が必要になるのではないか。なんでもAIが答えを生成する時代になり、その真偽を見極め、人工知能を操る力を持つためには様々な価値観を持った現実をそのまま受け入れる人間としての力が必要になると考えられるからである。現実世界の問題は決して単一の論理で解決できない。相反する考え方の乱立する中で一つの方針を決めなくてはならないことの方がむしろ普通なような気がする。

 それなのにいまの教育がどちらかというと情報処理能力の方に傾いているのが心配である。大量の問題を短時間で解答させ、その大意をつかませることが教育界のトレンドだ。確かにこれも大切なことであり、情報があふれる現代社会においては欠かせない能力だ。でも、この作業こそ人工知能の得意分野であり、むしろ代替してもらうことが必要な能力になるのかもしれない。こればかりをやらせていると、人々はその内容に興味を持たなくなる。短時間で設問を解答することに関心が向きすぎてしまうのである。

 教養ばかりを重視する風潮を批判する動きがある。一部の特権階級が知識を独占することは不平等であるというのがその理由であった。確かに教養の独占は長い歴史があり、それが社会的地位を固定化してきたことも事実だ。しかし、現在は学ぶことをそれ自体の意欲を削ぐような動きが教養の意味を変えている。有名大学に入るようなエリートであるのに読書量が少なかったり、知識に伴う経験が乏しかったりする。入試問題は解けても、その問題の中で訴えられているメッセージに関しては深く考えない。

 おそらく、この後の教育の動きは人工知能のできない人間的な問題を解決する力の涵養に動くのだろう。様々な実体験、およびその疑似体験、その一部としての読書体験をどれだけ積んできたのかを問う形に変わっていくと予測している。おそらくそれまでにはもう少し時間がかかるだろう。その時、私はすでに現役ではないがそういう教育の在り方を見てみたい気がする。

今の脳力に対する手当

 認めたくはないが、やはり加齢による影響は思考にも現れる。その一つが短期記憶と集中力の減退ではないかと考えている。いまはそれを補うための工夫をして何とか乗り切っているが、この先はさらなる手当てが必要になるのかもしれない。

 まず、短期記憶が弱くなっていることに関しては常に小型メモを持ち歩くことでカバーしている。捨ててもよい小さなメモとボールペンは欠かせない。最近、家族からもらった小型カメラ兼レコーダーも役に立ちそうだが、まずは手書きのメモだろう。

 集中力に関しては対策が十分ではないが、30分以上は続けないということをとりあえずの目安としている。昔のように数時間にわたってやり続けるということは今の状況では難しい。ならば初めから30分したら別のことをするとか、休憩するということに決めた方がかえってうまくいくことが多いようなのだ。

 ただ困ったことにこの方法では気持ちの継続性が途切れやすく、創作的な文章が書きにくい。感情のつながりがうまく表現できないのである。これも短編を書くことで満足することにした。それをつなげばなにかができるかもしれない。いまのところ、その見込みはないけれども。

 今の脳の力を考えればできることとできないことがある。できることを優先し、できないことは無理しない。それが今の戦略である。