投稿者: Mitsuhiro

雨のち黄砂

 冷たい雨が降る一日だった。恐らく少し前の陽気から考えるとこれでもかなりの暖かく感じるはずだ。体感は相対的なものである。一度温かさに慣れてしまうと少しでも寒さに耐えられなくなる。

 ただ、予報によるとこの雨が止んだあとに黄砂がやってくるという。あるときは空が霞むほどの黄砂が飛来したが今年はどうなのだろう。砂漠の砂が遥かに到達するのだという。砂上に臥すとも笑うなかれのあの西域の砂である。月並みだが、地球は地続きということを痛感する。

 季節が大きく変わるときに私は人生の次のステップに踏み出しつつある。もう言い訳はしない。今ある状況の中でやるべきことをするだけだ。

生の現実

 私たちがものを見るとき、実はその対象をそのまま捉えているわけではなさそうだ。眼の前にあるものを見ながら、実は見ていないということになる。見たままを感じるというのは一種の理想としてある。いわゆる写生の論などはその延長上にある。

 しかし、私たちはやはり外界にあるものをそのまま受け入れることはできない。それは私たちには言葉というものがあるからだろう。言葉は外界の現象をあるまとまりで分けて把握する。「いぬ」といえば犬として持っている特定の性質の共通する性質をもとに区分している。それは猫ととは違うものであり、それがあるゆえに私たちは犬と猫を一瞬で見分ける。その区分になっているのは言葉で形成されたものである。言葉を覚えた瞬間から私たちは外界を言葉のフィルターを通して見ることになる。

 この様な性質上、言葉が物事の把握に大きく影響を与えていることになる。そしてその言葉とは母語であり、私にとっては日本語だ。日本語が自分の世界を作っていることになる。このブログは海外の方からもアクセスしていただいている。私は日本語でこのブログを書いているが、それは日本人の価値観とか世界観でものを捉えていることになる。日本語が持っている様々な性質を踏まえて私は世界を見ていることになるのである。

 ならば、言葉を覚える前の世界に身を置くことはできるだろうか。これはかなり難しい。言葉を覚えてしまったならば獲得以前に遡ることはできない。不可逆なのである。敢えてそれに挑戦するのが前衛芸術の世界なのだろう。生の現実とはどんなものなのか。かなり興味がある。

カラスの番

 まだ寒い日が続くがそれでも確実に季節は進行している。先日は桜のことを書いたが、動物も季節の移ろいを感じさせてくれる。メジロが盛んに飛んでくるようになったし、これまであまり聞こえなかった鳥のさえずりに木々を見上げることが増えた。そして身近な鳥としてカラスの行動がある。

 カラスは一年中いる鳥だが、この頃は番(つがい)で行動していることが多い。食べ物以外のものを加えて飛び去るのは巣材の収集であろう。調べてみるとカラスは一夫一妻制であり、その絆は深いのだという。2羽で並んで飛んでいるのはおそらく夫婦なのだろう。どちらが夫でどちらが婦なのかは分からないが。

 カラスは死肉をついばむ食性があり、不気味な印象が強い。また、都市部ではゴミ集積場を荒らす厄介な害鳥にもなる。鳥類にしては知能が発達しており、ある程度の記憶も可能で、また鳴き声によってコミュニケーションをとることもあるという。こうした性質が複合すると、不気味で侮れないというマイナスの印象が高まる。しかし、一方では神の使いとして神聖な動物として捉えられることもある。聖俗の間を大きく振れる存在なのはこの鳥の特徴である。それだけ人間の生活に密接に関係しているのかもしれない。

 カラスにとってみればひたすら生きるために行動しているのに過ぎない。「カラスの勝手でしょ」とさえ思っていない。ただそれを見ている人間がこの鳥にさまざまな意味を見出し、毀誉褒貶を与えているのに過ぎないのだ。

記憶の作るもの

 私たちが世界を感じるとき、いま見ている現実とこれまでに経験したことの記憶との複合で概念を形成している。いまを見ていながら昔のことを考えているのだ。だから、その記憶が豊かであれば、感じ取れる世界は豊かであり、貧弱なものであれば毎日がワイルドなものになる。

 そのように考えると、いかに記憶というものが大事なものかと思い至るのである。記憶の前提となるのが経験であることは言うまでもない。豊かな経験を持つということはそれだけ豊富な記憶を持っているということになる。もちろんこの経験には自分が直接体験したこともあれば、書物や映像などを通して間接的に得た体験もある。

 記憶の特徴として、多くの場合、それが身体の感覚と結びついていることである。私は雪道で転倒し、顎を痛打した経験があるのだが、危機的な状況に陥ったときにその痛みをふと思い出すことがある。全身の神経が一斉に動き出す。それはまるでその時の痛みが再現されるかのようにである。

 こうした記憶の身体性とでもいうべきものは実は大切なものだと考える。私たちは記憶するとき、その内容をそのまま受け取っているわけではない。身体の一部やその延長にある過去の経験との複合で記憶を形成する。

 豊かな記憶を作ることが人生の目的ならば若い頃には様々な経験を積ませることに全力を尽くすべきだ。勉強させさえすれば人生の道が開けると考える親がいるのならば、考えを改めた方がいい。 

芝居じみた表現

 演劇の表現には生活に応用できるものがある。芝居は限られた時間と空間の中で本当はありもしない世界をあたかもそこに存在しているかのように見せるものである。虚構であることを観客も承知しているから、嘘が堂々と演じられる。

 日常生活で舞台上の所作をそのままやるとおかしなことになる。わざとらしい行動は違和感を越えて不快感になる。何ごとも程度なのだが、ある程度は芝居じみた行動をすることが必要なこともある。

 そういうときは今は悪役を演じているときなのだ、と割り切れるといい。演じていると考えられるならば悩む必要はない。あくまで演技なのだから。

 自分という役を演じているという事実が認識できれば思いきってできることは増えるはずだ。

ノートの取り方模索中

 ノートの取り方をいろいろ考えている。私自身のノートもそうだが、生徒諸君に提案することを前提にしている。様々なノート術の本や動画サイトを見て、実現かつ持続できそうな方法を考えているのだ。凝ったレイアウトは始めはいいが、その都度線を引くのは続かない気がする。

 ある人の意見と重なるところもあるが、今考えているのは以下の方法だ。

  • ノートは必ず見開きで使い左ページの左端4〜5センチは何も書かない。
  • 習慣化するまでは線を引いて仕切ってもいい。
  • 左ページの残りの部分を授業や講演のときのメモ欄にする。
  • 右ページはメモを取った情報を短文にまとめ直すために使う。
  • さらに書き足したいことがあればここに追加する。

 これは話を聞きっぱなしにせず、自分の言葉で置き換えることを日常化するための手段である。

 現代文のノートを思い出していただきたい。教師が黒板に書いたことをただ写すだけで、後で読み返してもなんのことか分からない。授業では分かったつもりになっても時間が経つと何だか曖昧になっている。それは教師がまとめた言説を表面的に写しただけで本当は理解できていないからだ。

 理解するためには自分の言葉で説明できる必要がある。その過程をノートで可視化しようという訳である。

 さらにこの方法は他人に自分のまとめ(言い換え)が正しいのか検証する段階がいる。ノートの右ページを相互評価し、過不足を点検する機会を設けたい。これを習慣化させることができれば国語力の向上につながるはずだ。

背筋を意識的に伸ばす

 背筋を伸ばすことを意識しておかなくてはならない。まだ高齢者とは言えないが、それに近づいている私は様々な身体の異変を日々感じている。加齢すれば起きることであるからこれは仕方がない。どんなにうわべを飾っても身体的な変化は避けられない。

 白髪についてはずいぶん前から認知していた。今は定期的に染めているので気づかないけれども何もしなければほぼすべてが白髪のはずだ。皮膚のしわは隠せない。ただ、こちらは日々見慣れているせいで逆に注意が向くことはない。自然に抜けた歯がもっとも加齢の悲哀を感じさせる。

 なんとかできそうなのが背筋である。背筋の衰えなどから猫背になり、やがて腰が曲がる状態になる。これについても私は高齢化の悪魔からの招待状を受けているような気分になることが多い。なるべく荷物を持って歩くこと、そしてときに意識して背中や首を伸ばすこと。背筋の衰えを克服することを意識することを考えている。気がつけば曲がっている腰をその都度直すのである。

 今のような生活がいつまでできるのかわからない。なるべく健康を保ち、自分にも他人にも迷惑をかけないようにしたい。





まとめる力

 恐らく教えなくてはならない国語の力に要約力がある。情報化社会では溢れるほどの資料が一瞬で集まるがそれがどんな意味を持つものなのかを見抜くのが要約力だ。いろいろ言っているが要するに何が言いたいのかを見抜くのが大事なのだ。

 そんなのは生成AIでもできると言う人もいるだろう。でも、機械ができるのは統計的に高い確率の言葉のつなぎ合わせに過ぎない。目的に沿って意味を見出すことは人間の能力によらなくてはならない。

 学校教育でそれを教えられているのだろうか。末端の知識に拘り過ぎていないか。あるいは図式的な読解術を金科玉条としていないか。形を教えるだけで出来上がるものを見届けていないのではないか。そういう反省からやり直したい。

別れの季節

 年度末が3月である日本は今が別れの季節でもある。私のような仕事をしていると実は周期的な繰り返しに過ぎないのだが、それでも端境の時期には独特の感情が起きる。

 小さな変化を区切りとして考えるのは、時間の区切りに意味をもたせることで特別な価値をもたらす一つの知恵である。ただ過ぎていくだけの時間に節目をつけ、目に見える区切りを設ける。それによって自分の現在地を確かめようとするのである。

 別れの季節は自分の新しい可能性を見出す機会でもある。親しい友人との別れは辛いが新しい自分を引き出してくれる人との出会いもある季節なのである。

 

桜開花予想

 実家の最寄り駅前の桜が咲いていた。早咲きの品種である。東京のソメイヨシノの開花は気象関係機関や企業の予報では3月20日〜24日ごろであり、あと数日後のことである。

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 桜が咲くには気温と日照時間のみならず、冬季の寒さも必要らしい。気温の変化によって休眠期間がおわり、開花が促されるそうだ。今年のように暖冬傾向が長々と続くとこの切り替えが顕著ではなく、開花が遅れることになるのだという。

 とはいえ、大方の開花予想日は平年よりは早く、満開になるのも28日ごろらしい。東京の標準木は靖国神社境内にある。都心の気温は高めで、周囲に比べて早く花期が経過する。それにしても入学式のころには散り急ぐ花を見ることになるのだろう。

 かつては農業の指針であり、伝統的な美意識の対象ともなったこの花は、現代では人間の生活に翻弄され生態を変えつつある。いつまでも桜花爛漫を寿ぐ文化が続いてほしいと願う。