投稿者: Mitsuhiro

まずは考えてみること

 今日は書くことがなかなか思いつかない。こういう時は天気の話を書くのだが、それも最近多すぎる気がしている。書くことが思いつかなくなった原因の一つが深く物事を考えなくなったことである。これまでの経験に照らし合わせて、書く必要性を感じなくなってしまっているのだ。これは大きな思い違いであることは分かっている。

 自分の体が日々変化し、細胞レベルではどんどん入れ替わっているというのに、昔考えたことがいまでも当てはまるとは思えない。やはり変わっているのだ。だから、同じようなことを繰り返して書いてもそれには意味がある。それを忘れてはならないのだろう。

 なんでも効率的に無駄なく、冗長性を排除するという考えに染まると自由な発想ができなくなる。すでに自分より有能な人が考えて結論を出していることを自分が考えても意味がないなどと考え出すと、結局何も考えないことになってしまう。これは私だけではなく、現代人にある意味共通している現実のように思う。さらに相手がコンピューターになると無力感が甚大なものとなる。

 稚拙でも準備不足でも自分で考え、そこにあるもので解決を試みることが何よりも大切なのだろう。

降れば土砂降り

 英語のことわざにIt never rains but it pours. というものがある。降れば土砂降りと訳されている。今年の梅雨はこれを地でいっている。入梅までが長く、梅雨入り宣言が出てもあまり降らなかった。ところが今日はかなりまとまって降っている

 英語のことわざの意味はよくないことは突然たくさん起きるものだという意味らしい。経験上もそういうことはある。というより、そういう惨事が記憶に残るということなのだろう。

 土砂降りは西日本ではもっと深刻らしく、家屋や道路への浸水、河川の氾濫、土砂災害などの危険性が増しているらしい。これはこのあと東日本でも起こる。最低限の被害で済むよう祈るしかない。

 天気の方ではない土砂降りも覚悟しよう。だめな時はだめなのだ。そこで東洋の知恵、人間万事塞翁が馬を想起しよう。禍福は糾える縄の如し。

暑さ慣れ

 今日もかなり気温が上がったのに幾分涼しく感じた。我々の感覚は相対的なもので、猛暑のあとに普通の暑さが続くと涼しく感じるものらしい。暑さ慣れしたと安心はできない。涼しさを感じると猛暑への耐性がまた下がってしまう。

 このあとの予報を見ると高温多湿の日々が続くようだ。気をつけないといけない。

赤インク

 仕事柄、赤インクをよく使う。私はパイロットの万年筆で採点や添削をする。個人的なこだわりでコンバーターを使ってインクを補充している。効率的とは言えない。趣味の問題だ。カートリッジの方が簡単だし、そもそも万年筆を使わなくてもいいはずだ。

 採点するときには限りなく筆圧を抜く。それに対応できるのが万年筆というだけのことだ。もっとも最近の水性ボールペンはかなり万年筆に近い感覚で書ける。だから結局は気持ちの問題、趣味の世界なのだ。

 間もなくこの仕事ともお別れすることになるだろう。このような仕事でなければ赤インクを大量に消費することも無くなるはずだ。今のうちに生徒諸君の答案に入朱することに専念しておこう。感謝されるかどうかは分からないけれども。

相模原市立博物館

 おそらく10年ぶりに相模原市立博物館に行った。あい変わらず入場料無料で充実した展示内容であった。近隣の方は行くべき施設だ。

 相模原という場所は実はかなり大切な場所ではないかと思う。相模川の氾濫原は実に多様な可能性をもたらした。その中心が相模原なのだ。

 この市の可能性について歴史学者はおそらく皆ポジティブだろう。地理的条件は揃っている。近隣に横浜、川崎、町田という現在の繁栄都市があるにしても相模原の優位性は変わらない。それをいつ、どのように世に問うのか。この地域の話としては極めて深刻な話である。

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靴を変えて

 履き続けてきた靴の調子が悪くなってきたので履き替えた。おそらく7年近く履いてきた。最近はいた靴の中ではかなり長持ちしたものである。私は毎日1万歩以上歩いているので、その靴でどのくらい歩いたことになるのだろうか。

 安い靴を買ってしまった。よく考えればもっと投資してもよかったのかもしれない。少しでも長持ちするように手入れして行くしかあるまい。

 靴を変えただけだというのに生活の何かが変わる気がする。考え方次第なのだろう。いいように考えることにする。

とにかくやってみる

 昔書いたノートなどを偶然発見すると同じ自分なのかと思うくらいの差を感じる。内容は稚拙だがとにかくいろいろ書き込まれていているのだ。その中には冗長なものが多いが何よりも挫けず書き続けていたことに驚く。

 馬齢を重ねれば無駄な動きはしなくなる。ただ、新しい発見はしばしば無駄な行動から発生するものだ。だから、新機軸を打ち立てることも難しくなっていく。

 若者にあるのはとにかくやってみるという行動力だろう。それが失われると発想や行動が固定化していく。新しい価値観も生まれにくい。だから、この歳になってできるのはもう失敗を恐れないことだ。効率を考えないことだ。とにかくやってみることなのだろう。

 若い頃はよかったなどとは言いたくない。今を終わったものにしないためにも結果を考えずにやってみることも大切だ。

恥ずかしい都知事選挙

 都知事選挙に56人もの立候補者が出たことは政治の活性化でも何でもない残念な出来事である。特に街頭にある掲示板は巨大化し、さらに無意味なポスターが貼られている。なかには公序良俗に反する内容や選挙と全く関係のないものもある。明らかにおかしく、民主主義の悪い点が強調されてしまっている。

 ポスターの掲示についてはその内容を制限する法律がないようだ。だから、選挙とは無関係のものを掲出してもいいという解釈も生まれる。また、掲示板に貼る権利を売買している政党にも処罰がしにくい。選挙に立候補するくらいの人物は良識をもっているだろうという前提が崩れているのである。

 歯がゆいことにこれを機にたとえば供託金をあげようということになると、富裕層以外の立候補ができなくなってしまう。ポスターの検閲をしようとなると基準をめぐって議論がいる。ポスターなどそもそもいらないという議論には、選挙そのものの存在意義にもつながる話になるのではないか。ネットがあるから大丈夫だという人は、インターネットが抱える様々な問題を見逃している。細かく規定を決めてしまうといろいろな自由を奪っていく。新しい時代のやり方に変えるべきだという人の議論には、それまでなぜそれが必要だったのかということに対する考察がない。

 都知事選挙の異変で選挙への関心が高まったのではないかという人がいるが、候補者の政策や、将来へのビジョンに対する議論がなされず、このような売名や選挙ビジネスの方が注目されるようでは有権者は失望するばかりだ。有権者としてできることは、まっとうなことを言っていながら、実はしたたかな私欲を隠匿している人物に政治をやらせないことしかない。そのためにはやはり投票しかないのだろう。

虚像を追いかけて

 戦時中の生活を知ると現代がいかに幸福であるのかを痛感する。現代の生活も決して安易ではないが、それでも過去の困窮に比べると殆ど無風と思えるほど恵まれている。絶対値はないが、現代が過去に比べて幸福であることは間違いがない。

 ならば現代人は幸せの毎日を生きているのかといえば、そのようなことはなく、むしろ未曾有の不幸のどん底にあると答える人もいるだろう。実感のない幸福という概念は、しばしば権力者によって本質が隠される。何が幸せなのか分からなくさせられる。

 現代社会を組み立てている人たちが作り出した幸せという虚像を多くの人が無意識に追いかけてしまう。そして多数の人はそれが達成できずに潜在的な不幸感を持ってしまうのだろう。

 幸福のあり方は人それぞれであらねばならないのに、それをいくつかの物差しを当てて数値化しようとする。これこそが現代の不幸そのものなのだろう。そしてそういう仕組みの上に立っている社会や経済の仕組みをどうすればいいのだろう。

 個々人の幸せの尺度を自分で決められるようにすること、他者の物差しを認めることが必要だ。もちろん他者に迷惑をかけることは許されないが。

自分の言葉で表現しろという前に

 最近よく耳にするのが理解するためには自分の言葉で表現することというのがある。用語や公式を断片的に覚えるのではなく、自分の言葉として捉え直せるかが肝要だということだ。この点については同感である。

 ならば、言語表現力を高めなくてはならない。自分の言葉が貧弱では表現できる範囲が限られる。基本的な言語操作能力を向上する必要がある。そのために家庭での会話を疎かにすべきではない。伝えるべきことは言葉で伝えることを日頃からやるべきなのだ。

 ただ家族には言葉でなくても伝わることが多い。いちいち言葉にするとかえって関係が悪化することさえある。次に注意すべきなのが学校の教員たちなのだろう。教えることが一方通行にならないよう学習者の反応を引き出し、その内容や表現の仕方に注目していく必要がある。場合によっては何と答えたかより、どう答えたかの方を評価すべきなのだ。

 自分の言葉で言いなさいという前に、表現の仕方についてもっと教えるべきだろう。それが初等、中等教育の教員の役目であることは間違いない。