投稿者: Mitsuhiro

学ぶ楽しさを覚え続けるには

 学ぶことの喜びを忘れつつある気がする。何でも検索すれば、もしくはAIに尋ねれば、すぐに答えが出てくる時代において、何かを根気よく学ぶことの意味が分からなくなって来ている気がするのである。

 かくいう私のことを考えてみても、語学であれ、その他の技能であれ、かつてはそれなりに関心があり、独学ながらある程度までは習得できていた。それがいまは何というか、そういうことに時間を使うこと自体が億劫に感じられるようになっている。

 本当は学ぶことは自分の進化なり発展なりを考える機会として感じるもののはずだ。それがいまは苦行のようにしか感じられないのは何とも残念でならない。

車道に雪をまくこと

 車道に雪をまき散らす候補者について非難の声が上がっているようだが、明らかにおかしな指摘である。候補者が何党か知らないが言いがかりをつけた人は雪国の現実と厳しさを理解していない無知としか言いようがない。

 選挙活動中であるからだろう。除雪車が車道から除けた雪を、また車道にスコップで戻している候補者に対して非難しているソーシャルメディアの動画が拡散した。雪国に暮らしたことがある者にとっては当たり前の風景であり、そのようなコメントが多数ついてもどうも理解できない人が多いようだ。除雪車ができるのは道に車を通すことであり、人が歩けるようにすることではない。むしろ除雪車が通った後は歩行者の歩く場所はなくなり、車道を歩くしかなくなるのだ。

 そこで雪国の住民のかなりの人は自主的に自宅近くの歩道を除雪し、その雪を車道に投げる。車道には融雪装置があり、しかも車両が通過するたびに雪片は踏まれて溶けていくので、車道に雪を投げることは公共の福祉に寄与する行為であったのである。

 今回の動画批判は、現地の生活実態を知らない人のなしたものに違いない。同じ国に住んでいても、地方社会に、暮らす人々の生活を理解できない。これは日本人のありかたの一面であろう。警告の範疇に属するものである。

    

そうはなりたくなかつた

 そうはなりたくないと思っていた姿になっていることを自覚したとき、底知れない無力感と救いへの渇望を覚えるのである。

 今の自分の姿は二十歳の頃に描いていたものとは全く違う。何というか平凡で、しかも少々陰気だ。上手くいかない毎日に疲れ切ったいまがある。

 でも明日を生きねばならぬ。もうやるしかないのだ。自分を納得させるためのさまざまな言い訳を何通りも考える。この方面の技術に関しては我ながら優れたものがある。現実認識と妥協に関するプロセスを日々磨いている気がする。その努力の結果、大抵の危機的側面を乗り越えてきたのである。

 でもこれは一時しのぎの方策でしかない。どうして生きるためには他者と争うのか。平和が必要と直感的に分かっていながら、悪事を繰り返すのはなんなのか。そういった疑問にいちいち立ち会わなくてはならない。

 なりたくない姿になっている現在も、それに甘んじていることに疑問を感じない自分も、全てを呑み込もうとするいまがある。それはここまでの敗北で獲得してきたいわば財産であり、生活の知恵の最たるものである。なりたくなかった自分をどう続けていくのか。私にとっての課題はまさにここにある。

朝日のかげ

 平日は毎日同じ時間の電車に乗る生活をしている。だから日の出の時間が少しずつ早くなっていることを実感できるのである。

 今日の東京の日の出は6時44分だったようだが、これは冬至の時よりも3分程度早い。そのくらいの差ならよく分からないはずだが、従前の理由により気がついてしまうのである。車窓から見える風景の明るさや、朝日が作る陰影の具合が少しずつ変わっている。

 これからは変化の割合が大きくなる。3月頃に日が延びたと感じられるのはそのためだという。春が来たという実感と花粉の季節の到来が同時に来る。

 朝のルーティンはこのところ固定している。あれこれ考えないのは楽だが、日々の刺激というかそんなものが消えてしまった気がする。だから日の出時刻の変化を感じるのは私にとって実はとても大切なことなのだろう。

 

パンダ不在

 上野動物園のパンダが中国に返還され、ジャイアントパンダは日本からいなくなった。残念であるが、政治利用される絶滅危惧種を日本で飼育することは止したほうがいい。

 この動物はもっぱら政治の具として利用されてきた。1972年の日中国交回復のシンボルとして譲渡されたのが始まりだ。その後、野生動物に関する国際法が制定され、絶滅危惧種を国外で飼育することは禁止され、例外としていわゆるレンタル料を支払うことで許可されたようだ。その資金は絶滅危惧種の保護に使われることになっている。ただ、いわゆるパンダ外交は中国の政策として利用されていることは確かである。

 パンダを飼育する意味が国内的にも国際的にも確認されなければならない。現在の日本において政治色の強い動物をなぜ飼うのか。飼わないことでどのような不利益が生じるのか。思うに世界中の動物が自分の国で見られることは嬉しいことであるが、本当にその必要があるのか。ジャイアントパンダがいなくなった今、このことは大事な確認事項である。

衆議院議員選挙始まる

 衆議院議員選挙が始まった。唐突でよく分からない選挙だが、野党が離合したり、ポピュリズムに訴える政党がわけの分からない政策を展開したりとか狂想曲の始まりだ。

 ネットの世界でもさまざまな選挙関連の情報が飛び交っている、この種のメディア対策をした候補者、政党が票を伸ばすようだが、多くの場合は静止画やショート動画であり、印象操作以上のものではない。情報に接する機会は格段に増えたが、その質を見極められないまま膨大な量が流れ続けている。

 名前を連呼するだけの選挙戦は論外だが、盛りに盛ったデジタル情報もいただけない。結局、有権者は愚かであるということが前提の選挙活動が続いているのだ。

 この時期に選挙を強行することからおかしいと思うが、せめて印象や刺激にとらわれない判断をするしかない。恐らく投票率は伸びないというのが大方の見方だろうが、期日前も含めて投票することで、国民の政治への関心を示すべきだろう。

速読だけではなく

 いかに速く本を読むかという能力に対する魅力は大きく、さまざまな速読術なるものが公開されている。私もかつては通勤電車の中で吊り革につかまりながら文庫本を速読する技を身につけようと試したことがある。

 確かに少し速く読めるようになったが、その分細部への考察がおろそかになり、大切な問題を読み落としている気がしてならなかった。電子書籍をスマホやリーダーで読むときも同じで身につく読書になっているのかついにわからなかった。

 私は読書ブログに読んだ本の感想を書いているが、感想を書くときも速読した本は通り一遍のことしか書けなかった。つまり速く読んだが読めてはいなかったということではないかと考えている。

 速読だけではなく、時には遅読、精読も必要だと思い、本によってはメモを取りながら立ち止まって読むことも必要だ。文庫本にいろいろ書き込みながら読んだ学生時代のような読み方をこれからは時々してみよう。

豪雪

 ニュースによると北陸ではかなり雪が降っているらしい。積雪のためにさまざまな障害が起きつつあるというから心配だ。

 除雪にはいろいろな危険も伴うので十分に注意していただきたい。特に人力で行う場合は要注意である。無理のないようにしていただきたいと思うばかりだ。関東は乾燥した晴天、毎年思うのだが、この差の激しさは日本の特徴ではあるが、何とかならないものか。

見ている風景の価値

 錯視という現象は人間の脳の構造的な問題に関係するらしい。どのようにものを見ているのかは、脳のフィルターを通して捉えられ、必ずしも現実の姿を映しているとは限らないというのだ。

 極端な錯視の例は理解可能なのだが、実はそのように見えていただけで、実は違っていたのだといった軽微な錯覚は多くは意識に上がらない。だからそれが虚像なのか真の姿なのかという判断にすら及ばないのだ。

 自分の目を信じろというときは、さまざまなバイアスを織り込みながらもその経験を尊重せよということであり、決して真実至上主義という訳ではないのだ。

 極端なことをいえば、人は同じものを見ることはできないのかもしれない。実は違って見えているのものをこれはこう見えるねと示し合わせる手続きをたびたび行うことで同じものであるとみなしているのに過ぎないのかもしれない。

 何をどのように見ているのか。それは実はとても不可解で、繊細かつ重要な問題である。

選挙に行きたいけれど

 私の住んでいる地域では衆議院議員選挙と市長、市議会選挙が続けて行われることになった。寒い時期に2回も選挙があるのは、どう考えてもおかしい。投票率は期待できないだろう。

 実は最近駅前などで市議選の選挙活動が始まっている。実は政策がよく分からず、結局ルックスか選挙資金の多い者が露出が多く、議員選挙の本質が満たされない。街頭でのアピールも政策を語ることはなく、イメージ戦略が先行しているようだ。

 国政の方も選挙の意図から、政党の主張まで実に分かりにくい。相変わらずポピュリズムで大局が変わる危険な状態にある。これは切実な問題だ。

 選挙に行きたいけれど、よく分からない。そんなことで機会を逃さないようにしなくてはならないとは考えている。