投稿者: Mitsuhiro

立春

 立春は名のみでとても寒い一日だった。ただこれが春の始まりであることは違いない。今シーズン最大の寒波が到来しているらしいが、寒さの後には春が来る。

 『万葉集』の最後の歌は天平宝字3年(751)1月1日、大伴家持が因幡国庁で歌った。

新しき年の初めの初春の今日降る雪のいやしけよごと

である。朔旦立春というめでたい年だったらしい。旧暦1月1日と立春が同日になることである。太陰太陽暦では月を基準とした暦日と、太陽の位置を基準とした節気とが併用されており、これが年によって変動するのだ。日本においては次は2038年であるという。13年後である。

 『万葉集』の巻末が立春の歌であることと、『古今和歌集』の巻頭歌が立春であることは偶然であろう。

年のうちに春は来にけりひととせを去年とやいはむ今年とやいはむ

 在原元方の歌である。いわゆる年内立春を歌う。旧暦元旦より先に立春が来てしまったので、昨日までの日々をもう春になったから去年と言おうか、まだ元旦になっていないから今年と言おうかという歌でかなり理屈っぽい。背景には春が一年の始まりという観念がある。正岡子規はこれを酷評したが、当時の人からすれば理知的な作風はかなり評価が高ったはずだ。だからこそ記念すべき最初の勅撰和歌集の巻頭に据えられたのだろう。暦日の矛盾をテーマにした作品はほかにも多くある。

 立春に期待する気持ちは古代からあったようで、実は年間でも最も寒い時期であるのにも関わらず、来るべき春の気配を必死に感じ取ろうとしていたのだろう。私は古人ほどではないがやはり春に何かを求めてしまう気持ちはある。

始めのコンピューター

初めて使ったコンピューターについて書いてください。

 日本人だけが知っている事実かもしれない。私が学生の頃は日本独自仕様のNECやエプソンが販売していたコンピューターがあった。私の最初のコンピューターは日本電気のPC9801‐RA21で定価で50万円近くしたものだ。奨学金を注ぎ込んでしまった。フロッピーディスクをメディアとして使い。ワードプロセッサの松や、ロータスという表計算ソフトを使った。いまから考えると恐ろしく低スペックなものだったが、当時としては画期的だった。

 このパソコンでいくつかの文章を書いた。学生時代は論文を書いた。インターネット普及以前だったので、やれることは限られていたが、それ以前に使っていたワードプロセッサ専用機に比べていろいろなことができるのが、魅力的だった。ドットインパクト式のプリンターを繋いで一丁前の文筆家気取りにもなれた。

 一人暮らしをしていたのでゲームにはまってしまったのも、この機械のせいだ。睡眠時間を削ってまでやったこともあったが、その内容はほとんど覚えていない。無駄な時間を使ったかと思う反面、ゲームをやっても何も変わらないという学びを得た。いや、紆余曲折があっても簡明なストーリーが人を惹きつけることを学べたのかもしれない。

 その機械は大事に使っていたのだが、ある日水を被ってしまいあっけなく壊れた。その後ノートパソコンを使い始めて、いまはもうデスクトップを所有する機会がなくなってしまった。コンピューターを大事に使っていたあのころの気持ちを思い出さなくてはならないと思う。

 

ソーラー時計に不安な季節

 私の腕時計は太陽電池で動いている。スマートフォンと同期するいわゆるスマートウォッチでもある。ソーラー発電によるスマートウォッチはさほどない。機能は限られているが、バッテリー切れを気にせず使えるのはありがたい。

 ただソーラー腕時計を使うものにとって今は忍耐の季節でもある。日光を十分に当てられず、だんだんと充電量が減ってしまっているのだ。関東に住む私にとって日光は冬でも十分にある。ただ、上着や外套を着ると時計が袖の下に隠れてしまい。時計に光が届かないのである。私の時計は残りの電力が表示されるのだが、見るたびに情けない状態になっている。

 ソーラー電池用の発電ための電灯があるそうだが、本末転倒な機械には躊躇する。でも、上着が取れる季節までは時々袖をまくり上げて光を当てる日々が続きそうだ。

2月始まる

 明日はかなり寒くなるとの予報が出ている。東京の場合、もしかしたら雪が降るのではないかという予報もあるらしい。ただ、おそらく積雪はほとんどなく、雨かみぞれが降る可能性が高いとのことだ。

 冬至は12月下旬だが、年間で最も低温になるのは2月と聞く。あわただしく過ぎてしまう月が実は冬のピークを作る期間だ。これまで私も2月の寒さ、雪に驚かされたことが何度もある。ここ数年の猛暑は降雪を増やす条件であると聞く。2月に雪害が起きないことを心から祈る。

トータルでクリーンなエネルギー

 エネルギーに関する新技術の話は大きな期待を抱かせる。ただ、そのうち本当に実用化されるのはわずかで、さらにそれが実効的であることはさらに少ない。最近の話題はフィルム型太陽電池であるペロブスカイト太陽電池が話題である。開発に日本人や日本企業が関わっていることも期待される要因だ。さらに今日の新聞によると、原子炉の隣に水素製造施設を作り、ヘリウムガスを使って熱循環させることで発電とともに大量の水素の生成も行う計画があるとのことだ。安全性、特に災害時の速やかな停止ができるかどうかが現在検証されているという。東日本大震災の教訓を生かせるかである。

 石油・石炭を燃焼してエネルギーを得ることが地球規模の環境問題を引き起こしているという科学的知見から、いわゆるカーボンニュートラルを目指す必要性がある。太陽電池はその対策として生まれてきたが、現行の発電パネルは設置のために山林を削ったり、破棄の時に結果的に大量の二酸化炭素を排出することになることが問題になっている。ペロブスカイトはそれがかなり解消されるらしい。水素製造施設付き原発は、従来型よりも安全性は高いらしい。これからのエネルギー開発はトータルで環境問題を考える必要がある。様々な利益をもたらす可能性があるこの研究は、今後の主流になり得る領域だろう。

 科学技術ですべてを解決するという幻想は、私たちの世代にとっては広く共有されている。近代において科学がもたらした功罪を思い返す必要がある。でも、クリーンエネルギーへの幻想は甘美にして幻惑的な魅力がある。実現を期待している。

インフラ劣化

 八潮市で起きた道路陥没は衝撃的な映像とともに報じられている。このような道路が陥没する現象は時々発生するようだ。その原因が過去に造られたインフラが耐用年数を越えて使われ続けているのが原因らしい。

 いくつかの要因があるが、その一つにメンテナンスを粛々と行うための人材が不足していることがある。コンクリートやアスファルトで覆われた建造物も刻々と劣化してしまう。それを使いながら直していくことが不可欠なのだが、どうもそれがうまくいっていない。

 道路陥没や橋梁の倒壊は甚大な被害をもたらす。そうなる前の手当てが必要なのだ。今回の道路陥没の原因に埋設した水道管の破損が土砂の沈降をもたらしたのではないかと言われている。地中の状態を察知するのは専門家でなければ難しい。その技能がある人がどのくらいいるのだろうか。

 今後、高度成長期以降に造られたインフラが耐用年数を越えてゆく。もつとも恐れるのは各地で崩壊が群発することである。この方面の対策はあるのだろうか。

脳の見せる世界なのか

 

 脳科学者は言う。この世のすべてのできごとは脳の機能によってとらえられたことなのだと。確かに脳機能に障害を受けた親の姿を見ると、人生は脳機能が見せる幻影なのかと思う。脳機能が損なわれると本人の行動が変わり、人格も変わってしまう。同じものを見ても脳の状態によって感知できる内容は変わり、それに伴う反応、つまり表情、言葉、雰囲気も変化してしまうのだ。

 ならば、世界は脳の働きでいかようにも見えるのか。よい脳には良い世界が、悪しき脳には貧しい世界が感知される。世界を楽しめるか否かは脳の働き次第なのかということである。もしこの考え方を認めるならば、人生は脳機能によって決まるということになる。良い脳を持ったものが幸せを掴み、悪しき脳の持ち主は浮かばれない。浮上するチャンスを失い続け、結果として精彩を欠いてゆく。

 それは何か違うのではないか。脳の機能は確かに大きい。人類は脳の発達にかなり影響されているとはいえ、それ以上にその場の雰囲気、状況にかなり影響されていると考えるのだ、脳のフイルターを通らなくても感じている何かがあるのではないかと考えてしまう。すべてを身体の機能に還元しようとする現代の知見には敬意を払いながらも敢えて別の見方をしてしまうのである。

酒を飲まずに大丈夫か

 最近の学生は酒を飲まないようだ。私のように学生時代はキャンパスの周辺の居酒屋で飲みまくっていた者にとっては不思議にさえ思う。酒を飲んでも醜態をさらすだけで、身体的にも負担が大きく、いいことなどないと考えるのだそうだ。我々の世代からすれば、正論を語っても野暮に見えるだけだ。

 酒を飲むことによる高揚感はそれなりに意味があるはずだ。日常の困難に対応するための本能的な逃避術ということもできる。ただ、これには幾つもの分かれ道があって、単なる憂さ晴らしならばやはり飲まない方がいい。少なくとも他人を巻き込むべきではない。

 飲み会のあとには何も生まれないという人もいるが、そうでもない。ある人の別の一面を知って、理解が深まることもあるし、生活上、仕事上のヒントをもらえることも多い。素面では話してくれない仕事のコツなどを私はその場で相当教えていただいた。覚醒した後、それをいつの間にか自分のものにしていることもしばしばあった。

 ただ、それには飲んでも翌日働ける体力がいる。私はその自信がないので最近はすべてのお誘いを断っている。でも、若者にはときには酒席に臨んでほしいと思う。飲みすぎなければ得られることは多い。

花粉飛散今年は悲惨

 先日の新聞によれば今季のスギ花粉の飛散は例年よりかなり多いらしい。いわゆる花粉症の私にとっては脅威そのものだ。

 フェキソフェナジンなどの対策薬を服用するようになってかなり楽になったことは確かである。眠気の副作用も以前の薬と比べるとはるかに少ない。でも、うららかな陽気に気兼ねなく外出ができないのはかなり残念だ。

 聞くところによると、花粉症を自覚する人の数は年々増えているらしい。今までは大丈夫だったのに、ある時から急に激しい症状が出たという話をほうぼうから聞く。どうも花粉に対する耐性には限度があるらしい。

 花粉症に日本人がかかりやすいのは遺伝的特性という人もいる。植林計画の誤りという人もいる。花粉が出にくい品種改良がなされそれに置き換えつつあるとも聞く。何とかなればいいと思うが、私の命のスパンには間に合いそうもない。

 コロナ禍を経てマスクをつけることに抵抗感がなくなったことは事実だ。朝晩はマスクをして電車に乗ることになる。面倒だが仕方ない。

日常のメタ認知

 その立場にならないと分からないことがある。例えば偶数月の15日になぜATMが混雑するのかということをつい最近まで知らなかった。それが切実な問題であることを知るとこの日をとても切なく思うようになっている。近くが見えなくなることの苦しさも最近痛感している。視力は単にそれだけではなく、総体的な判断力、処理の速度にもかかわるから重大な問題なのである。高齢者がしばしばうろたえたり、不機嫌になったりすることをなかば冷笑していた自分がいま逆の境遇にある。

 後輩のときは先輩の理不尽な行動に反発していたのに、自分が上の学年になると同じ事をしてしまうというもの学校ではよく見られる。昔から今に至るまで変わらない。時に大変革を訴える者が出ても、その後継者はすぐに絶えて、また理不尽な先輩が登場する。学校を卒業してもこの習慣は変わらず、世の中の上司と呼ばれる人の中には、部下の立場を慮れなくなっている人がいる。学校と違って数年で卒業しないから厄介である。そして彼が退職したときに部下のいない悲哀を知ることになるまで続くのであろう。

 自分の身の回りの世界をどのようにとらえるのか。結局自分の目で見たもの、感じたことを基準にして価値観を形成することになる。それが社会の実際の在り方と乖離してしまったとき、独善的な生き方が展開するのだろう。自戒を込めていうが、日常をメタ認知する努力を失ってはなるまい。そのためにも他人の生き方への関心を深めなくてはならないと思う。文学を学ぶ意義もそこにあるはずだ。