投稿者: Mitsuhiro

ノートは先生の言ったことの記録ではなく

 学生の頃、恩師の講義はもれなく記録しようとしていた。ときには小型カセットデッキを持ち込んで録音したこともある。ただ、いま考えると一字一句書き留めることには、それが講義そのものの記録を目的にするものでない限り必要ではなかったと考えている。講義の中で何を講師が伝えようとしているのかをまとめればよいのだ。

 その意味においてノートは講義の記録ではなく、講義で得た知見を自分の中に内在化させるための手段の一つなのである。教わったことを自分が使えるものにするために場合によっては自らの経験や知識を加味してまとめ直すことが行われる場なのだ。

 このことは中等教育の時点で教えておく必要を感じる。単に黒板の文字を写しておしまいではなく、それを自分の言葉で説明できるようにしておく。そのための作業をするための空間がノートなのだと言える。

 きれい書くとか、カラフルに書くといった指導は要らない。本人にとって自分の思考が展開できるものであればよいのだ。よく、有名大学生のノートを模倣すべきだという発言があるが、これも絶対的なものではない。個人にとって使えるものであればなんでもいいのだ。講師との対話、もしくは自分自身との対話が模擬的に行われるスペースなのだ。

 ノートに関しては私自身も最近は講師の話を批判的に聞き、メモには自分の考えも加えている。その方が余程記憶に残るし、使える知識になりやすい。

東京大空襲の日

 1945年3月10日に東京の現在の墨田区や江東区、墨田区を中心に広域にわたる空襲が行われた。何度かあった東京への空襲の中でこの日を大空襲と呼ぶことが多い。死者数は10万人を超え、その多くは非戦闘員であった。交戦中の国への攻撃とは言え明らかに戦争法違反の行為である。このことを忘れてはならない。

 戦争という事態は人々を異常な精神状況にさせるらしい。いま、日本は暫く戦争とは無関係な日を送っている。戦争の恐ろしさも抽象的なものとなってしまった。何が本当で何が嘘なのかも分かりにくくなった。

 空襲にしても死傷者の数や被害のあった土地の面積といった数で表現され、その当時の人々の感情は伺い知れない。これでは戦争の恐怖は十分に理解できないのだろう。

 人々が戦争の害悪を知りながら、繰り返してしまうのは実感の保存が完全にはできないからという原因もあるに相違ない。せめて今何ができるのかを考えるべきなのだ。

記憶はいつか

 記憶はいつか消えていく。歳をとるとその速度が速くなっていくのを実感する。さまざまな媒体に記録しても、それはすでに自分の記憶ではなく、何かが省略され、何かが誇張された現実に似て非なるものである。

 ならば現実は直ぐに消え去る儚いものなのだろうか。私たちはその問いを全力で打ち消そうとする。記憶が消えても、いかに現実を過ごしたのか。それが周囲の他者にいかなる利益をもたらしたのかという尺度を持ち出して有意義なものであることを死守しようとする。これは実はとても大事なことだ。

 人生を一人の視点からしか見なければ、人の死は全ての終わりだが、人類という単位で見れば、個々人がそれぞれ積み重ねてきたまとまりのようなものである。それぞれ皆違いながら、多くの共通点を持つ。記憶を組みあわせれば人間としての共通経験が形成される。その意味では人間の記憶は意外にも長い。

 いずれ忘れることであってもそれを考えることにはやはり意味がある。

 

春を感じる方法

 数日ぶりに晴れた朝になった。乾燥はまだそれほどでもなく、風は冷たいが快適だ。ただ、花粉の飛散は多そうで今日も大変な一日になりそうである。

 日の出が早くなっている関係で、電車の車窓から見える風景が少しずつ変化している。建物や道路の色や、植生につく陰影などが日々変わっているのだ。毎日同じ時間の電車に乗る私にとっては、定時観測のようなものになっている。都会の住宅地で季節を感じる方法である。

 三月も刻々と過ぎつつある。やるべきことは多い。多忙を嘆くだけでなく進めることを一つずつやっていくしかあるまい。

 先日、近隣の公園に梅の花を見に行った。降雪より前だったので穏やかな陽気だった。観梅客もそこそこ多く、いい雰囲気だった。鶯ではなく、メジロが飛来すると伝統的な風物が揃った。ウグイスよりもウグイス色なのはメジロなのだから。

 降り積もった雪の花を見たかった気もする。夜晴れて月でも出れば雪月花の完成だが、そんな役満は滅多にない。

積雪はなかった

 今回は私の生活領域で差は積雪はなかった。昨夜、うっすらと地面を覆ったものの、雨に変わったためにほとんど消えてしまった。雪景色が見られなかったことに、かつは残念に思い、かつは安堵している。

 積雪予報は緊張感を喚起する。雪国とそうでない地域の両方で暮らした経験を持っているが普段とは違う状況になるのはどちらも覚悟がいる。雪国はそれなりの備えがあるが、それ以上の積雪があったときは困難に陥る。東京は雪に対してはまったく脆弱で、いろいろな差し障りが発生する。いずれにしても平穏を破るのが雪なのである。

 統計学的には日本は世界有数の降雪地域だそうだ。シベリアから寒気が、日本海から立ち上る水蒸気を次々に雪に変えて脊梁山脈にぶつけるからだという。日本はさまざまな天災の可能性を持っている。つくづく奇異な環境にあると言える。

降雪予報

 今日の降雪予報はかなり高いらしい。関東の雪予報は難しい。僅かな差で雨に変わり、そうでなければ積雪になる。

 積雪と言っても数cmに過ぎないのだが、この程度の雪でも東京を麻痺させるには十分なのだ。雪の備えのない街にとって降雪は脅威でしかない。雪国の人は呆れるというが、私のように両方の地域に長く暮らした者にとっては、どちらの言い分も分かってしまう。

 北陸に住んでいたとき、雷鳴とともに降りしきる雪に驚いた。みるみるうちに積雪が増え、すべてを埋めつくすかのように見えた雪を懐かしく思う。そんな経験を持っているのにもかかわらず、関東暮らしが長くなるとすっかり油断している。

 年に数回しかない降雪のときに、臆することなく乗り切れるのか。経験も大事だが、油断せず目の前の状況に対応することが必要だろう。

気温急降下

 このところ春を通り越して初夏のような日差しがあったが、今日から気温が急降下するらしい。三寒四温とは言うがかなり極端である。東京では多くの外国人観光客を見かけるが、今日の気温を体験した人には明日以降がかなり厳しいものに感じるかもしれない。暑さも寒さも雨も雪もある日本の自然を体感するにはいい機会かもしれないが。

 問題は体調の維持だ。今年は早くから対策薬を飲んでいたのに今日は花粉症の症状が出ている。さらに寒さで風邪など引いたら大変だ。インフルエンザもコロナも相変わらず流行っているらしい。これらを防ぐ大前提が免疫力の維持らしい。その免疫力を下げるのがストレスというから、とても厄介だ。ストレスに関してはもうほとんど配偶者のようなものでいつもそばにいるのだから。

 そのようないろいろ克服しなくてはならないことがあるのに、仕事は相変わらず山積している。しかも三月である。こうなったらもうドラマチックな展開を楽しむしかない。翻弄される自分を俯瞰して楽しもう。意外といい見世物になっているかもしれない。

アメリカの暴走

 アメリカ大統領トランプ氏とウクライナ大統領のゼレンスキー氏との交渉決裂のニュースは衝撃的なものだった。首脳の会談というのは大抵が出来レースであり、自身の感情なり本音は出さないものというのが一般の考え方だが今回は違った。報道によればトランプ氏はウクライナには貸しがある。そしていまお前にはカードがない。だからアメリカの言うべきことを聞いて取引に応じるべきだといったことに対して、ゼレンスキー氏が反発したのを米副大統領のバンス氏が追い打ちをかけるように刺激したのが決裂の決定打になったのだという。ウクライナの現状を考えれば平身低頭してアメリカに従うべきなのに反抗するとは何事かという論理なのだろう。この政権の基本である取引によって自国に有利な状況にする。弱い者には漬け込み、強いものには交渉で妥協させるという考え方が端的に表れた。

 この件に関して欧州諸国の大半はウクライナ側についた。NATO諸国にとってはロシアの脅威が最大の課題であり、アメリカ的な取引で解決するという余裕はない。ロシアよりのアメリカ外交は西側諸国としては最もしてはならない愚策と映ったのだろう。イタリアの首脳は西側の分断はロシアの利としかならないと警告しているらしいが、思うにトランプ氏の今回のふるまいには忸怩たるものがあるに違いない。

 ゼレンスキー氏にとっては自国のアイデンティティを何とか保たなくてはならない。いくら劣勢にあるとは言え、プーチンとつながったアメリカの言いなりになれなかったのだろう。トランプ氏の側近にはバランス感覚を持った人はいないようで、交渉に勝つことだけに関心を持ちすぎて最終的な利益を見通す力が欠けているようだ。アメリカのこのような振る舞いが続けば、国際情勢は一層殺伐としたものになる。大国が大国然とできず、自己利益のためには小国を無視するか潰しにかかる可能性が高いことが今回の事件で周知されたのである。

 これは日本にとっても同じであり、アメリカの同盟国のすべてにとって同様な問題といえる。アメリカに利するものであれば人材・資材をを与えるが、そうでなければ関与しない。そういわれれば有事の際にアメリカに依存するのは絶対の保障にはなりえないということだろう。

 この件に関して日本もアメリカ依存から脱却すべきだという意見がある。中には核兵器を持ち他国に対抗できる軍事力を持つべきだというものまである。おそらく、日本以外の国も同じようなことを考えた人が増えたのだろう。トランプ氏が挙げた第3次世界大戦のきっかけは実は彼自身が齎している。