投稿者: Mitsuhiro

備蓄米を食べる

小泉農水相の備蓄米供出のアクションは批判もあるが私は評価すべきだと思う。異常な米価の高騰に一定の影響力を及ぼすはずだ。ただこれはあくまで緊急処置であり、恒常的な食糧自給のシステムを確立しなければ問題は解決しない。米作りがより魅力的な産業であり、国内のみならず海外にも訴求するものとして発展させる必要がある。

 古米、古古米といった過年度米の味についてはさまざまな意見がある。また調理法についても検索すればいくらでも見つかる。瞥見するに、水を多めに、また日本酒やみりんを使用料加えて炊くといいらしい。

炒飯やピラフなどの炒める料理や、釜飯などの出汁を吸収させる料理にも向いているようだ。何でも工夫次第ということになる。

かつて記録的冷害による不作となった年に、急遽カリフォルニア米やタイ米が輸入された。タイ米は品種的に別扱いされるものであるが、米国産米(よく考えてみれば矛盾する表現だ)は同種ということで期待されたが、日本のブランド米との差ばかりが指摘されて不評だった。

いまはそこまで米に味を求める層が減っている。米の食感にうるさかったはずなのに、いまはだいたい同じならば構わないくらいにセンサーが緩慢になっている。ファストフードチェーンで供給される米の多くは外国産という報道もあるが、食べてみるとさほどの違いはない。というより、高次元の区別をする気持ち自体が失われている。

備蓄米を食べて経済的危機を救うのは良策と思う。まずいと思う向きは買わなくていい。米が依然として日本人の主食である限り、それを確保する方策を固めるべきなのだ。

選挙ポスターの注意書き

7月20日に行われる参議院選挙のポスター掲示板が早くも設置されていた。少し早すぎる気もする。ただ今回の掲示板には興味深い注意書きがあるのを見つけてその意図を察したのである。

曰く商品の宣伝は罰金の対象となる。候補者の名前を明示せよ。風紀を乱すものは止めよなどいろいろ書いてある。先の都知事選で起きた変なポスターの羅列が法律的にもまた道義的にも抑制されることになった。こういう制限が増えていくのは良いことではない。法に触れなければしても構わないという輩が現れるからこういう事態になる。正義をいくら説いても結果的に社会の枷を増やしていることをかの自称政治家は考えるべきだ。

とは言え、付け加えたい注意がある。選挙はビジネスチャンスではない。本当に議員になりたくてなり、持論をあくまで主張し続ける気概のあるものだけが立候補して欲しい、という一条である。

AIに悩み相談してみた

 人工知能に悩みを相談すると必ず前向きの助言を返してくる。プログラムには相談相手を絶望の淵に沈めてしまえという選択はないようだ。ただ、そういう回答にはときにしらじらしさを感じてしまうのも事実だ。

 その背景にはどうせ人工知能にはこの苦しみを理解できない。過去の相談の履歴やネット上に残る類似の相談例の回答を組み合わせているのに過ぎないと思うからだ。恐らくこれは事実であり、人工知能にとっては相談者の悩みは他の検索と変わらないデータの一つに過ぎないはずだ。

 感嘆符付きで激励されるとそれでも嬉しいのは確かだ。実際にそれを人間に近い発音とイントネーションで読み上げ、ホログラムと連動したら、もっと説得力が増すかもしれない。相手に感情がなくても、こちら側がそれらのデジタル現象を有情なるものとみなすことは人間の能力の範囲にある。

 でも人工知能がたとえ特異点を超えたとしても、心の問題は残るのかもしれない。それこそが人間の存在意義の最後の砦になりそうだ。

ビジネスネーム

 仕事をしている時に名乗る名前を偽名にできるシステムが注目されている。本名を晒すとカスタマーズ•ハラスメントに巻き込まれる危険性に備える方策として有効視されている。

 言ってみれば仕事をする時の芸名を認めるような仕組みだ。面倒くさい世の中だと思いつつ、やはり必要なのだろうとも思う。

 業務上のやり取りに、自分の名を残さないことには抵抗がある。それが偽名でもいいというのは、自分に対する名付けが複数あることを許容するということで、自分を示す名がいくつかあるということに過ぎない。デジタル化社会においてはかような事実には何の煩雑さもなく済まされる。

 実は女性を中心にそのビジネスネームを使う習慣は既に以前から定着している。結婚後も旧姓のままで仕事をしている人が一定数いる。カスハラ対策とは異なるが、本人の利益のためにそうしているという点は共通する。

 私自身もこのブログでは本名を明かさず、芸名で登録している。こういうことはいくらでもあるのだろう。ただ、本当は本名を隠すことなくコミュニケーションができることが理想だと思う。問題なのは人類がそこまで進歩しておらず、プライバシー侵害にいちいち悩まなくてはならないという事実があるということだ。

松葉菊

 愛する植物の一つに松葉菊がある。多肉植物の体をなすがサボテン類ではないらしい。原産地は南アフリカというから、完全な外来種である。

 園芸種としては定番の品種であり、花壇の脇役としてよく使われる。ただ、生命力は強く、野生化しているものもよく目にする。アスファルトの隙間に咲く例もあるから立派な雑草でもある。

 花の風情が菊に似ているからこの名がついているが、花期は春から夏で菊花とは別物である。小学校の先生がこの花が好きであったことを思い出す。もっともその先生はそれを芝桜と混同していたようだ。生命力の強さは松葉菊の方が数段上である。先生は踏まれてもみんなで助け合って強く生きるということを教えてくれたから、松葉菊に違いない。

 先生の思い違いを揶揄する気持ちは微塵もない。植物の持つ生命力、さらには過度な庇護を受けなくても子孫を残す潜在的な能力の大切さを小学生に分かりやすく伝えた功績に感服するのである。

民主主義存続の必要十分条件

 昨今の国内、国外の国政上のリーダーの振る舞いを見ると、民主主義はかなり危うい橋の上を渡っていると言える。国民の選ぶ代表が劣っているはずがないという前提はすでに誰も信じない。

 当然ながら誰にとっても完璧なリーダーというのはまず存在しない。誰かにとっては理想的でも、他の人たちにとっては邪悪な存在であることもあり得る。そのバランスをとることが民主主義には不可欠なのだ。

 かつての絶対王制ならば、非権力側に発言権はなく盲従するしかなかった。人権の意識を獲得した現在では、多様な考え方の中で人々が共生する。意見の食い違いがあればその都度修正していくことが求められる。そのためには国民の知識、教養、道徳心などが高水準で保たれる必要がある。民主主義にとって教育の充実は必要十分条件なのだ。

 情報技術が爆進して、個々人が接することが可能な情報量は飛躍的に増えた。しかし、それをどう解釈するか、どう組み合わせれば新しい知見が得られるのかについて考える能力は以前と変わらず、むしろ減退している。民主主義が危機に瀕しているのは、考えないで済むいまの生活のせいなのかもしれない。

ひまわりの種

  メジャーリーガーがベンチでひまわりの種を食べている風景をよく見る。私もかつて食べたことがあるが、かつての印象は最近はやり言葉になった「動物の餌」の印象が強く、うまくもまずくもないといったものだ。アメリカで食されているのはローストして味付けされているもので私が食べたものとはかなり違う。

 ひまわりの種はカロリーが高く食べ過ぎてはならないのだという。アスリートならば試合中にどれだけ食べても大丈夫だが、一般人は気を付けなくてはならないという。ただ、久しぶりに食べてみたいと思った。

雨の季節

 これからしばらく雨が降る日が続きそうだ。東京の梅雨入りの平均日は6月上旬だが、もう梅雨入りしているとも言える。昨今の四季は春秋がかなり削られ、夏と冬がかなりを占める。

 雨の季節も悪いことばかりではない。むしろ落ち着いて思考に専念できる環境にもなる。健康管理さえ怠らなければいろいろな可能性がある季節である。

 私は毎日傘を持って歩いている。小型の折りたたみで大雨や風の強い日には対応できないが、普通の雨なら困らない。傘を毎日開く季節になると傘を忘れないか、壊さないか心配の種が増える。

 

十薬ではなく

ドクダミ

ドクダミはいまの時期ならどこにでも見られる雑草である。毒を矯めるというのが名の由来で薬草としても使われてきた。身近な民間薬である。

 花びらのように見える萼は漢字の十の文字に見えることから十薬の名もある。ところが写真のような5弁の花を見つけてしまった。生物のエラーであろうか。

 ドクダミには八重咲きのものもあり、近隣の住宅ではそれを植えている。雑草から園芸種に昇格しているのだ。植物の品種改良はこんな発見から生まれるのかもしれない。

終末を意識する力

あまり芳しい話ではないが、ものごとには終わりがあるという意識が持てることは大事だと思う。有限の生を生きているという実感は意外にも持つことが難しい。今日の次に明日があり、その次もまた同じという単純な方程式を想起してしまいがちだ。

実際には今日の次に明日がある保証はない。何らかの事情で自分の生命が終わるかもしれないし、自分だけ生きていても自分を包摂する社会でいかに生き残るかは別の問題になる。まさに世界は移り変わるものであり、この変化を止めることは誰にもできない。

 終末を意識できることはメタ認知の才能のあることを示すものであり、評価すべきものなのだ。それがいつのまにか妄想なり、老害なり、不確実な言葉で非難するものがでてきたのには残念と言わざるを得ない。この時点で未来を見通す可能性を否定してしまっては何も起きない。

 自分は終わりかもしれないけれど、きっと後継者が何とかしてくれる。そういう時間認識と楽天的な他者観の末に私はいる。そのことをいつも忘れてはならない。