投稿者: Mitsuhiro

ポピュリズムの利用

 ポピュリズムをうまく利用することが今回の選挙の鍵になっている。実現可能か、副作用がないのかといった検証を飛ばして、今の窮状を何とかしてくれそうな甘言をいう政党が支持されている。

 この背景には既成政党の怠慢と無策があるのは事実だ。自公政権は結果的に日本の政治を減衰路線に導いており、ヤミ献金問題に象徴的に示されているように緊張感のない政治を蔓延させてきた。結果として多くの成功の機会が奪われ、国民をミスリードしてきたと言える。

 でもそれに代替する政策を展開できる政党がない。野党は多極化し、それぞれの権益を主張しているが、政権交代をしようとする気概が感じられない。だから、次の内閣を任せる選択ができない。

 このような現状ではポピュリズム政党が台頭しやすい。個人の知名度によって成り立つ政党が乱立し、その中で一部がぎりぎりで当選するという段階があった。それが個人のタレントではなく、スローガンの魅力によって支持を集めるフェーズに変わった。そのスローガンは曖昧だが魅力的に映るものだ。今回ならば日本人ファーストなる言葉だ。自分は日本人だから尊重してくれるのだろう。最近、外国人ばかりで何となく怖い。ここは排外主義に一票投じた方が良さそうだ、と思わせてしまう。

その外国人の多くが低賃金で働いてることを、その職の中には過酷な条件で働いてることをどれだけの人が理解しているのだろう。彼らを解雇するとその穴を埋める日本人を用意しなくてはならない。そういう人がこれから必要になりますとなぜ言わないのか。その辺に不誠実を感じてしまう。

何か現実感のない論法が当たり前のようになってしまったのは恐らく社会の仕組みに問題があるのかもしれない。私たちは誰かが作った情報に頼るのではなく、個々人が自分の置かれている現状を評価する方法を身につけなくてはならない。これが曖昧なまま日々を送るようになったことが問題点であると考える。

梅雨明けですか

 これから東京の天気アイコンはしばらく晴れを意味するものが続く。最高気温も高く、来週からは連日猛暑日になるとある予報会社は発表している。昨日まで僅かにあった梅雨が終わったことになる。日付けだけみるとほぼ平年並みだが、今年は降雨の中断が長く、ひとまとまりの雨季とできるのか疑問に思うくらいだった。

 水不足が懸念されるが主なダムの貯水率は今のところ問題なさそうに思える。今後の天候次第ではどうなるかわからないが。高温が農作物にもたらす影響も気になる。米を巡る騒動が再燃しないよう願いたい。

初めての料理

 初めて料理をしてそれを作って食べたときのことを覚えているだろうか。それがレトルト食品の解凍でもいい。何らかの調理を施し、食べられるものができたという感覚を記憶しているだろうか。

恐らく父と作ったお好み焼きや雑炊の類が私の最初の料理なのだろう。自力だけで料理をしたのは父親が単身赴任し、その任地に母が手伝いに行ったときだった。結果的に子どもは残され、自炊を余儀なくされたのだ。

外食の選択肢は当時は考えなかった。子どもだけで行けるのはハンバーガーショップくらいだと考えていたし、そもそも経済的事情もあって自分で作った方が安いと考えていたのである。

当時は親子丼と魚の焼き物を交互に食していた。その他のものも時折混ぜていたが、自分のレパートリーが増えるまでは単調な繰り返しだった。ただ親子丼の味付けは日々磨かれたし、レトルト以外の料理もできるようになっていった。

初めての料理は学校の家庭科の時間であったはずだが、自宅での調理といえば目玉焼きにキャベツの千切りで、それにソーセージをボイルして添えるくらいのものだったはずだ。それでも満足できたし、満腹になった。いまは贅沢になってしまったと思うのである。

梅雨空のこの頃

 いつの間にか梅雨に戻っているなような日が続いている。時折かなり強い雨も落ちて、折り畳みを広げることが度々ある。

 私の住む地域ではいわゆる大雨というものがまだない気がする。でも少し離れた所では豪雨の被害もあったと報じられていたから、この頃の天気は一層局所的になっているのだろう。

古くはないフルヤノモリ

 昔話に何よりも怖いものとして語られるフルヤノモリの話がある。聞き間違えの話は口承文芸には類型として存在する。雨漏りは確かに面倒だし、痛切な困難である。笑い話で済むならよいが当事者にとっては何よりも厄介な問題であろう。




 この話は現代には違う形で復活しそうだ。駅舎に雨漏りが発生している箇所をしばしば目にする。メンテナンスが追いつかなくなっているようだ。技術者の減少と必要以上の人材削減とがこのような形として具現化されている。駅舎のみならず、あちらこちらで起きているように思う。

 昔話の古屋は相当な代物であろうが現代のそれは一見何でもないように見えて、肝心なときに機能不全を出来する。昔の建物と異なり、現代建築は高度な技術でできている分、相応のメンテナンスを要求する。それに対応できるシステムや人材が次第に欠けつつあるような気がする。

 フルヤノモリの話は現代にバージョンアップして人間を恫喝するものになっている。その他のインフラに対する保善も大丈夫なのかと不安になる。

台風とその後

 台風が接近している。規模としては小さいようだが、久しぶりの接近なので注意するに越したことはない。これは急速に北上するようだが、さらに西から熱帯低気圧が連れてきた前線が梅雨の終わりの大雨をもたらすかもしれないというのだ。そのせいか木曜までは雨か曇りの日が続く。その後は晴れて猛暑になる可能性もあるそうだ。梅雨がまだ終わっていなかったことも少し不思議だが、やはり区切りの儀式はあるらしい。気をつけなくては。

薊の綿毛

 道端に咲いていた薊がいつのまにか綿毛をつけて、それが風に舞い出した。蒲公英に比べて大きな綿毛で豪快な感じがする。

 薊には何種類もあるそうだが私が見たのはもっともよく見かけるノアザミだろう。棘だらけでいかにも近づくなと言いたげな姿をしている。ところが古くから食用にされていたようで強力に見える棘は火を通すと問題がなくなるらしい。子どもの頃、天ぷらにしたものを何かの機会で食べたが、その頃の私にとっては旨くも不味くもないものだった。

 ここ数年の暑さで植物のあり方も大きな影響を受けているはずだ。植生も少しずつ変わっていくのだろうか。

餃子の思い出

 日本では中華料理の代表と考えられている餃子だが、私たちのイメージする餃子とその起源である中国の餃子とはずいぶん違うもののようだ。言ってみれば日本風餃子が私たちのいう餃子なのだ。薄い皮に大蒜やニラをたくさん入れて作ること、焼いた後で酢醤油などを付けて食べることなどが和風なのだそうだ。

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 子どものころ我が家に手作り餃子のブームが来たことがあった。母が中身の餡を作り、肉屋で売っている餃子の皮を使ってそれを家族みんなで詰めた。欲張って入れると皮で包むことができないし、少なすぎると満足できないものになる。その塩梅を少しずつ学んで家族全員が少しずつ作れるようになっていった。できたものをフライパンで焼くのだが、最後に水を入れて蒸し気味にすることなど母は得意な料理だった。

 一人5個もあれば十分なはずだが、当時は食べ盛りであったこともあって数十個食べたこともあった。残ったものは冷凍してまた食べたこともある。母としては家族で作れる楽しさと比較的安価で満たされることなどを計算していたのだろう。多い時には週に一度はこの手作り餃子を食べていたこともあった。

 その後、冷凍食品の餃子が普及し、価格も下がるとこの手作りの家庭行事は徐々に少なくなった。それよりも我々の異常な食欲が一般人のそれに近づくようになっていったことが原因だったのだろう。いくらでも食べられるような気がした日が今となっては懐かしい。

整体にまだ行けていない

 いわゆるボキボキ整体というものに対して一定の憧れがある。学生時代に激しい肩凝りを感じ、それをストレッチによって幾分解消できると知り、クラック音のなる整体に憧れるに至った。

 ただ、私は根本的にケチであり、実証性の劣るものには金銭的な費えをしないという方針が身についていた。だから、数十分で数千円もする整体に行ったことは一度もない。

 自らそれに近いことをすることは学生時代に覚えた。首を伸ばしたり、肩や腰を意図的に曲げたりしてストレッチ効果を狙った。その際、しばしばクラック音がすることがあり、それが一種の達成感になることもあった。それが根本的な治癒にはならないことを何となく知りながら、それ以上を考えない思考停止があった。

 恐らく二足歩行を始めて以来、人類がその後に受けることになる苦しみは、どの人類にも共有されていたはずだ。整体が必要とされるという幻想も恐らくはその苦しみに耐えるための方便の一つに過ぎない。

ファーストなる甘言

 何とかファーストという政策があちらこちらで見られる。これらに共通するのは自分たちの権利が不当に侵害されており、失われた取り分を回復するという主張だ。その背後にはそこはかとない喪失感がある。





 この考え方は不遇と感じる人々に共感される。現在の日本の状況では上手くいっている人は僅かであり、程度の差こそあれ、何某かの不満を抱えている人が多い。彼らにとって自分を含むグループがファースト扱いされると言われると限りなく魅力的なものと映るはずだ。

 この考えの危いところは、すぐに排他的な思想に流れる可能性が高いことだろう。自分たちがファーストであり、他はその他大勢に過ぎない。自分たちが正義であり、他は邪悪な存在だ。そういう結論に行き着く。

 日本人ファーストをうたう政党がいま支持率を上げている。彼らの言うことには一理あるが、しかし現在の日本が外国人労働力なしには成立しなくなっていることに対して一切触れない。あたかも日本人だけですべてができるようなことを夢想して、平気でファーストなる甘言を振り回す。そして、それにつられる人が多い。民主主義のデメリットが残念ながら表出している。

 アメリカファーストの大統領は、同盟国も含めて日々信頼を落としていることに気づいていない。彼は任期が終われば幸せな老後があるかもしれないが、信頼の失墜したアメリカの斜陽をもたらしたことを後世の歴史家は語ることになるかもしれない。

 都民ファーストなる政党は今の都知事の元では何とかなるかもしれないが、東京の優越をよく思わない非東京の勢力が発言権を持てば窮地に陥るかもしれない。都民ファーストといっても都民への恩恵は僅かであり、政権維持のための補助機能に過ぎないのだから。

 ファーストという言い方を裏返すと、ファースト以外みな疎外という考えである。差別主義を婉曲的に述べた巧妙な表現だ。今後の世界が分断し、互いがファーストを主張したときにどのような状況になるのか。想像するにそら恐ろしい気がする。