投稿者: Mitsuhiro

漫画の線

 漫画に見られる輪郭線を軸とした描き方は、私たちのもののとらえ方の一面を示したといえます。わずかな線の組み合わせで喜怒哀楽を表現し、遠近感が描き出されるということは、そのように私たちが対象を把握しているということなのでしょう。

 レンブラントのような詳細な絵と漫画の一コマでは情報量がまったく異なるのにも関わらず、最小公倍数的な共通点はあって、いずれにも感動することができます。おそらく芸術性という点を問わないならば両者に共通する何かがあるからでしょう。

 私たちが対象から何を感受して何を見逃しているのかを絵画や漫画は考えさせてくれます。絵の具を散らしたような抽象絵画にも感じとれる何かがあるのは、線がなくても表現ができるのか、あるいは鑑賞者が自由に空想の線を引くことができるからなのか。

 この問題を考えるには冷静に自分の認知のメカニズムを考え直してみる必要があります。

静かな夜

 昨夜は台風のもたらすものすごい物音でなかなか眠れませんでした。部屋の外の植木が今にも折れそうになりながら必死に耐えていたのです。カーテンを開けると嵐のただなかにあることを実感しました。

 昨夜は気温と湿度が上がり寝苦しかったはずなのですが、昨日眠れなかった分を取り戻そうとしてなのか眠ることができました。本当はいろいろな物音があったはずですが静かな夜と実感しました。

 昨日は全く仕事になりませんでしたが、今日からリセットします。昨日の分もやらねばならないこともあり、忙しい一日になりそうです。

習作

 展覧会を見に行った際に習作というタイトルの付いた作品に出会うことがあります。練習のための作画というもので、英訳するとstudy となるようです。

 偉大な画家であっても作品をえがくまでにいくつもの習作がありました。それは作品の制作過程を示すととも画家の情熱の深さを形として見せてくれるものでもありました。

 達人すらかくなる努力を積むのです。まして凡人をや。たくさんの習作を作らなくてはと感じるのです。

台風接近中

 南海上から接近する台風の影響で当地は曇天です。まだ風はありませんが蒸し暑く重苦しい空はこの時間にしてはずいぶん暗い。数日前の予報では大きくはならないといわれていた台風ですが、少し様子が変わってきたようで警戒を呼び掛けるようになってきています。

 気圧が急激に下がるとどうも体調がおかしくなるような気がします。そういう話はほかでも聞くので私だけのことではないようです。台風の風も雨も怖いですが、体内で起きる何らかの変化も私にとっては脅威なのです。

人との関わり

 幽体離脱か何かをして、自分の姿を客観的に見ることができたらと思うことがあります。自分のことは誰よりも知っているつもりでも実は分かっていない。

多くの先哲が述べているように、自己の認識は他人から見た自分というように、鏡像のような形で認識されます。もし他者が誰もいない世界で、他者という存在すら知らない人物は個人という意識を持たないといわれています。想像がつかないのは現実にはそのような状況は存在しないからです。

 誰かにとって自分はどのような存在なのだろうか。そう考え始めることで人間としての言動が開始されるのです。

 知らない町に行きたいと願う旅情はこうした関係の裏返しなのかもしれません。自分の周りを未知の人々で満たせば自分が別の存在になれるかもしれない。そういう一縷の望みを託すのです。

 人との関わりは己を成り立たせている大切なことであることを確認しておきたいと思います。

突発的な回想

 何かをきっかけとして過去のある場面が突然想起されることがあります。それが特にこれといって何か印象的なことが起きた記憶とは限らず、場合によっては日常的な風景であったりするのです。

 どうしてこの風景が思い出されたのか分からないときには、色々な理由を考えます。ただ、そのどれもが後付けのような気がします。おそらく記憶がフラッシュバックするにはそれなりの因果関係があるのでしょうが、それは日常の論理とは少々異なっているのでしょう。

 思い浮かんだ風景に救われることもあります。忘れていた何かを思い出すことで救われた気持ちになることもあるのです。苦い経験もそれを乗り越えて今があるということを再確認させてくれます。

 少なくとも記憶という側面に関しては私たちは時間軸というもう一つの次元を持っているといえるのかもしれません。それを自在に操ることはできないのが残念ではありますが。

横向き寝

 安眠のためには横向きで寝た方がいいのだそうです。ただこれがなかなか難しい。

 横向きで寝ると気道が圧迫されるのを防ぐことができるのだそうです。睡眠中の呼吸障害が脳に及ぼす影響は意外にも大きいようです。

 そこで寝相矯正の試みを始めました。ただ、意識が切れたあとに姿勢を維持するのは至難の技です。

虚学は実学

 文学なんてやって何になる。絵を観るだけで道楽な人生を送るのは脱落者だ。そんなことが普通に言われていた時代に私は育ちましたが、いまそれは変わりつつあるのかもしれません。

 知識や技能などは実用にこそ重きを置くものであり、生産性のない教養は不要であるとの言をいくつもの見てきました。そういう人たちが行き詰まり、停滞しています。その習慣上新たなイノベーションに活路を見出そうとするものの、そういうことは容易には起きません。結果として失望の毎日を過ごすことになります。

 今日、エリートと呼ばれる人が芸術や文学に可能性を模索し始めているのはその反動ではないかと考えられます。行き詰ったら古典に変える、個々人の価値観を見つめなおすというのはこれまでも起きてきた思想史的な教訓です。現代人もまたそのことを思い出さなくてはならない事態になっているということでしょう。

 虚学と貶められていた学問が実は非常に必要であったという事実を私たちは確認する必要があります。どんなこともバランスが必要であり、一部が先鋭化すると必ずその軋みは弊害となってしまうということなのでしょう。

LEDの色合い

 講堂の照明が従来の電球方式からLEDに置き換えられました。シャープでちらつきのない光は少し違和感がありますが、いずれなれていくのでしょう。

 照明を変えただけでかなり見え方が変わるのは経験的に知っていますが、最近のLED換装の動きの中で根本的な光の効果に思い至っています。私たちはどのように視線を置くかによって違ったものを見ているのです。

 違う光のあて方をすればまた別のものが見えてくるはずだということを私たちは忘れてはなりません。自分がみたことがすべてだとは短絡しないようにしなくてはならないのです。

始動

 9月は私のような職のものにとっては再始動の時です。ここまでのことを踏まえつつも新たなことを始める月です。

 新しいことを始めるのはある意味強い圧力を感じます。それがうまくいくのか失敗するのかという不安があるからです。これまでもそのどちらをも経験してきましたので全く予想がつかない。そして、私だけではない日本人の気質として、周囲からのどのようにみられるのだろうかという位置づけについて気にしすぎてしまうという問題もあります。いろいろなことに気をまわしているうちに本当の力が出なくなります。

 新しい環境に身をさらすことが危険であることを遺伝的に受け継いでいる生命としての遺伝が緊張を発生させるという話を聞いたことがあります。同じことを繰り返している方が安全だという生物的な知恵です。しかし、それが停滞を生み、やがては立ち行かなくなることも事実です。新しいことをするためにはやはり心拍数をあげるような時間も必要なのでしょう。

 今月はその新しいことを始める時です。今に集中することを忘れずにやるべきことを重ねていきたいと考えています。