投稿者: Mitsuhiro

だまされやすい環境

 感染予防のために人々が分離され、状況をメディアを通してしか把握できなくなると、ものごとの状況の風合いを体感できなくなります。本当はどうなのかを実感できなければ、すぐに見破られるはずの嘘にも騙されることになるかもしれません。

 昨今のトイレットペーパー欠乏デマはソーシャルメディア発の偽情報が瞬く間に広まったものだと言われています。その情報自体も検証しなくてはならないのですが、誰が言ったかよく分からないことに多くの人が騙されてしまう状況は、今日の状況で起こりがちであることがよく分かりました。

 コロナウイルスの終息がいつなのかわからず、人々が語り合う機会も奪われつつある今、だまされやすい環境が整っているといえます。混乱を招かないための工夫をしていかなくてはならないと考えるのです。

花粉症に弱いのは

 例年より早く花粉の飛散のピークが来るようです。慢性的なマスクの供給不足の中で苦しい日々が続きそうです。

日本人が花粉症に弱いのは遺伝子的な問題があるという識者もいるとか。真偽のほどは分かりませんが確かに海外ではあまりこの話題は聞きません。森林の多さや杉や檜を多く植林した産業的な背景もあるので何が原因なのかは分かりません。

 厄介なのは今年はくしゃみがウイルス拡散とみなされることです。マスクをする理由の大半はそこにあると言われていますが肝心のマスクが売っていないのですから話になりません。

 花粉症に弱いのは遺伝子要因として、この事態に何ができるのかは考えていく必要があります。

一斉休校はやり過ぎ

 安倍総理が全国の公立学校に休校を要請したことには賛否両論があります。私は行き過ぎであると考えます。

 今のところ学校は感染源ではなく、低年齢層の重篤者は少ない中で、すべての学校業務を止めることはデメリットの方が多い。女性活躍を目指す政権が休校になった家庭の子どもがどうなるのかも考慮すべきです。

 教育関連産業への直接間接の影響を考えると一斉休校は意味があるのか疑問です。この効果については検証が困難というのが為政者の判断の背景にあります。感染を予防する効果の有無は確かめられない。万一、学校での集団感染が起きたら無策と難じられる。そのバランスで決定されたのでしょう。

 学校を止めることによる社会への精神的な影響の方が懸念されます。行き過ぎた自粛ムードに拍車がかかることは間違いありません。

トングはここに

 近隣のスーパーマーケットでのパンの売り方が変わりました。山積みしたパンの中から客がトングを使って必要な分だけ取るという方式に変更が起きています。

 まずパンはすべてビニールフィルムで包装されています。ウイルスの飛沫感染の予防なのでしょう。一応トングは用意されているのですが、使用後は元の場所に戻さず収納場所に投げ込むよう指示があります。トングからの接触感染を嫌った措置と考えられます。

 このように現在東京では新型肺炎感染に関してかなり神経質になりつつあります。エンターテインメント系の行事に続き、教育機関も一部、もしくは全部の活動の停止を検討し、始めたところもあります。様々な生産活動にも支障が出始めました。

 終息のめどがたたないことが恐怖に繋がっています。ある専門家によれば早晩多くの人が感染するらしく覚悟は決めなくてはならない。ただ、行き過ぎは感染すること以上の困難をもたらしてしまうことを考えて、強かに継続するしか方法はないのかもしれません。

粘り強さ

 自分にかけているものを数えあげていると憂鬱になるほど時間が掛かりそうですが、その中の最たるものの一つが粘り強さであろうと自覚しています。これは多くの事柄に通底する大切な能力でしょう。

 すぐには解決しないことを考え抜きやり抜くことは容易ではありません。しかし、それができることこそ成功の鍵なのだと考えます。便利な検索機能を使えば何でも分かったつもりになれる環境がかえって考えぬく習慣を奪っているのかもしれません。私たちはインスタントな知見で満足せず、その上を目指さなくてはならない。そのためには未知の領域に踏み込んで迷っても、簡単には諦めない強さがいるのです。

 粘り強さを生み出す精神力は机上では生まれないのかもしれません。いろいろな経験を積むことが大事なのでしょう。

もとの風景

 東京の最盛期はすでに過ぎているのかもしれませんが、都市としての新陳代謝は継続しています。方丈記の言を引くまでもなく大家は小家となり、再びそこにビルが建ち、道路になります。

 私が移り住んだ街もすでに過去の風景が思い出せなくなるほど変貌しています。ここにはかつてあれがあったと覚えているうちはまだしも、そのうち過去のことなど全く浮かばなくなるのでしょう。思えば私が当地に来たころはすでに大きな変化は始まっていたようであり、さらに過去に遡ればまったく違う風景が広がっていたはずです。

 私たちは現在にしか生きられないので、現実を受け入れるしかありません。ただ、わずかに残った過去の風景から学ぶことは大きい。その姿に思いを馳せることで、未来のいつかに誰かが至る感慨を予想することはできそうな気がします。

問題は花粉症

 新型コロナウイルスの流行によって慢性的なマスクの供給不足が続いています。メディアの報道によればマスクはウイルス予防にはあまり効果がなく、感染した場合の飛沫感染予防のほうに効果があるとのこと。ただ気分的にはやはりマスクは欲しいと願うのが人情というものでしょう。

 困ったのは効果がある花粉症予防の方です。スギなどの花粉がここ数日かなり飛散しているとの情報があります。花粉の大きさはマスクで防御ができる大きさであり効果があるといわれています。このためのマスクがいま不足しているのです。私は幸い買いだめていたものがまだあるのですがそれが尽きるもの時間の問題です。

 最近は洗えば100回は使えるマスクというものも売られています。こうしたものも注目を浴びるようになるのでしょう。問題は花粉の方です。

どのように考えさせるか

 一問一答式の問題への対応ではなく、予め答えが用意されていない課題に対応する能力が求められています。中等教育では従来の基礎教育が引き続き必要であるのとともに、知識を応用し自主的に考える方法を教えることも求められることになります。

 大学共通テストの記述問題は、採点を公平に行うという問題を乗り越えることができず頓挫してしまいました。解答の方向性を決めるためにさまざまな制約をつけて出題すれば、形を変えた選択問題と等しくなり、記述型でみたい思考力は十分に測定できません。いろいろ補助線を引けば解決すると考えられた採点作業も結局、公平性を保つほどの精度が期待できないということになってしまいました。大学受験者が一斉に受ける試験にこういうタイプの問題はもともとあっていなかったというのが私の意見です。やるならば各大学の個別試験でやればいい。求める文章力や論理の立て方が学部ごとに違ってもいいし、各大学ごとに個別の基準があってもいい。それが記述型試験の本来のあるべき姿であると考えるのです。

 さて、それは大学の入り口の件ですが、その影響を受ける中等教育では自分の考えをまとめ表現することに対してどのような教育を行うべきなのでしょうか。まずは問題意識を喚起させることから始めなくてはなりません。今の生徒、すくなくとも私の関わっている生徒は、教員から与えられた課題に対して答える努力をする才能はかなり高度なものがあります。その反面、自分なりの疑問点をもつことや、それを表現することはかなり苦手であり、結果として常に受動的な学習をしていることになります。

 生徒に自由な課題を選択させて論文のようなものを書かせようとすると、ネットで検索すればすぐに解決してしまうような問題をあげる者が大半です。また、どうしても解決しようもない大問題をあげる生徒もまれにはいますが、むしろそれは歓迎すべきです。答えが出そうもないことは考えないという判断停止の習慣は大人も含めて日常化しています。それを変えていかなくてはならない。

 学校は知識の伝達の場という印象があまりにも強いために、知の創生ということがおろそかになりすぎた。中高生は発展途上でインプットが中心だという考えも強すぎた。いまやらなくてはならないのは知識を伝達しながらも、いかに出力をする方法を教えていくか。そして大学教育にそれをどのようにつなげていくのかを考えていなくてはなりません。

 まずは自分が興味を持ったことを記録させることをやっていこうと考えています。いきなり自分が取り組むテーマを見つけようといっても無理があります。自分がどのようなことに関心をもち、何に疑問をもっているのかを形にしていくことが大事ではないか。少しずつ形にしていくことが大事なのではないかと考えています。

黄砂

 

 今朝はどことなく空が霞んで見えます。天気予報によると大陸から黄砂が飛来しているとのこと。季節の風物詩といえばそれまでなのですがアレルギー持ちとしては厄介な現象です。

 今回のウイルス騒動でもそうですが世界は繋がっていると感じさせます。長屋王の「山川異域 風月同天 寄諸仏子 共結来縁」の感慨に至るきっかけはいくらでもある訳です。

耕し

 都会に住んでいると忘れてしまう風景があります。この時期に田畑を耕す耕運機の往復があったことを思い出しました。

 耕しは耕作地に空気を混ぜ込む大切な作業です。土の香りが立ち上がり、どこからか現れた鳥たちが虫を狙って歩き回ります。その上を通る風はなぜか趣きが違って感じられ、季節の歩みを体感するのです。

 私たちは土から離れた生活に慣れてしまいました。しかし完全には生活から切り離すことはできない。田畑を見たときに突如現れる感情はその証です。