投稿者: Mitsuhiro

9年目

 今日で東日本大震災から9年目になりました。歳月の流れること速くすでに記憶が薄れつつあります。忘れてはならない忘れたい記憶です。

 地震の発生時は職場にいて午後の仕事のめどが付き始めていたころでした。突然の大きな揺れで動揺しましたが、意外にも冷静に行動できていたと考えます。恐らく関東の地震はものを倒すほどではなかったことや、丈夫な建物の中にいたからでしょう。建造物の一部崩壊による死傷者は東京でも出ていました。

 記憶に残っているのは震災後の不安です。エネルギー不足による暗くなった照明、計画停電、原発事故による放射能汚染の恐怖など、どうしようもできない恐怖感が静かに襲いかかっていました。度重なる余震が落ちつきかけた心をかき乱しました。

 いろいろな意味で厳しい状況の中で平静を取り戻すことができてきたこの時期に、今度は世界規模のウイルス流行で再び社会不安が増大しています。震災9年目にあたって必ず立ち直るという決意を新たにしょうと考えています。

東京大空襲

 1945年3月10日に東京東部の人口密集地に連続的な空爆が行われ、少なくとも10万人以上が死亡しました。いわゆる東京大空襲です。

 戦時中とはいえ、これほど大規模な殺戮がいわゆる通常兵器で行われたことや、被害者の大半が非戦闘員であること。意図的に一般市民が狙われたことなど、人類の戦争の歴史上特筆すべき出来事でした。

 ところがこの事実をすでに知らない日本人が多い。戦争という特殊な状況がもたらしたこととはいえ、冷静に考えて許されざる事実です。このことを考えるのを止めてしまうと同様のことを繰り返してしまう。

 被害者的な立場でだけではなく、人類の叡智として非戦闘員の無差別殺人は戦時中であっても絶対に避けなくてはならないことを忘れるべきではありません。

仲間と孤独

 文学作品を書き上げる上で必要なのは抜きんでた才能であることは確かです。誰もが名作を書けるわけではない。ただ、才能さえあればいいというものでもないようです。

 作家の人生を調べてみると必ず盟友ともいうべき存在がいます。同じ作家であったり、批評家や出版社の人物であったりと様々なのですが、密な交流をしている存在があるのです。ときに物的精神的支援者として、あるいはライバルとして彼らの存在は創作者に刺激を与えるのです。

すると作品は決して個人の産物ではなく、周囲の人物との関係の中で結実するものと言えそうです。この点を忘れると作品の生命力が損なわれることになるのでしょう。

いるところにはいます

 報道によればコロナウイルスの感染を恐れるあまり町が空洞化しているといいますが、昨日近隣の商店街にいったところいつもと同じようににぎわっていました。子どもたちの姿も見られました。メディアリテラシーが必要です。

 レジャー施設が休業したために行き場をなくした人たちは、営業時間を短縮した商業施設に集中しているようです。確かにマスク着用率の高さは異常ですが、この時期の日本ではそれも違和感はありません。一部のメディアの報道では町が静まり返っていると報じていますが、私の見た実態とは大きくかけ離れています。

 そもそもリモートオフィスなり、テレワークなりの転換についてはウイルス流行とは無関係に推進されるべきものであったのですが、今はそれが強制的に進められています。家庭でもできる仕事は家庭で行い、家族や地域とのふれあいの機会を増やすというのは一種の理想的な労働形態だったのでしょう。地域の商店街の賑わいはこのように実現されていくのかもしれません。

 住宅地域の平日の人口も増えており、それ以前より「賑わっている」ということもできそうです。町は静まりかえってはいないという事実を書き残しておきます。もちろん普段とは異なる人口配置がもたらす様々な問題については感がなくてはならない新たな問題でしょう。

日本語のパソコン

 日本のパソコンメーカーがほとんど壊滅状態であることは素人でもわかります。日本独自の企画で作られているコンピューターはほとんど皆無といってもいい現状です。低価格のパソコンは特別な設備もいらないようで完全にコモディティが進んでいる分野です。

 ただ、今後ぜひ頑張ってほしいのが教育用の分野の国産パソコンのハード・ソフトの国産化です。生徒がつかっても壊れにくく、修理がしやすく、さらに低価格なパソコンと、日本の教育にあった教育ソフトの開発は至急行っていただきたい課題です。

 教学用のパソコンといえばChromebookがあります。安価で管理もしやすい学校用のPCとして日本でも次第に広まりつつあります。ただ、このPCはアメリカ発のものらしい側面が随所に見られます。日本の教育場面にあった工夫がもっと取り込まれなくてはそのままでは使いにくい。日本の縦書きやルビなどの特殊な書式にも対応できていません。

 コンピューターを使うことが言語技術に大きく関係している以上、日本語の言語環境と親和性が低いパソコンを使うことは、根幹から言語の優位性を下げてしまうことにもつながります。これはWindowsでもiOSでも同じであり、日本語にあったパソコンを作ることにはもっと関心を持っていいのではないでしょうか。いままでは外国産のコンピューターを模倣して作り、それに合わせた操作性に自分が慣れていくという方法でしたが、次の段階があってもいい。日本語の環境にあったかたちのコンピューターを日本語話者が造る時代にはいったのではないでしょうか。

 教育現場でつかわれるパソコンは日本語にあったものであるべきだというのが私の持論です。それならば日本のメーカーが参加するチャンスはある。というより日本のメーカーに活躍してもらわなくてはこの国の知的生活の未来は怪しくなるといえるのではないでしょうか。

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窓を開けてください

 最近の車内アナウンスに加わったものに窓を少し開けてくださいというものがあります。混雑している通勤電車の中で車掌が放送していました。この時期でないとなされないものと考えられるので備忘のために記しておきます。

 密閉された空間でウイルスは感染しやすい状態になるといわれていることから、窓を少し開けることが求められたのでしょう。ただ、まだ外気は寒く、さらに花粉の飛散のピークでもあることからアナウンスに応じる人は少ないようでした。

 得体のしれないウイルスのせいで人心は混乱しつつあります。冷静に振る舞うことが肝要なのは言うまでもありません。

次を考える

 積み立てNISAを始めて経済の成り行きにも関心を持つようになりました。いまはコロナウイルス流行をきっかけとする世界的な株安が発生しています。日々目減りしていくこづかいの額にため息をつく毎日です。

 ウイルス騒ぎは社会のあらゆる局面に多大な影響を及ぼすています。中には明らかに行き過ぎな点もあります。ただ、縮小する経済の未来を予見する機会を見せてくれているのだと考えるならば、この時期を体験する意味があります。事前に対策を立てるシミュレーションなのです。

 生産人口が減少し、流通の規模が縮小したり、人手不足が慢性化する状況は最近の社会の実態と似ています。そうした中で何ができるのかを予測して行くことが求められます。いまあることを前提とせず、次の状況を常に考えて生きることがこれからはますます重要になってくるのでしょう。

マスクを忘れて

 新型肺炎の予防に関してマスクは効果が少ないというのが専門家の意見です。ただ、つけていないとかなりの不安感に襲われるという事実があります。心理的なものと言っても収まらない何かがあります。

 今朝はマスクを持ってくるのを忘れてしまいました。すでに街では何日も品切れ状態が続いており、途中で調達することは不可能です。通勤電車の車内でマスクをつけていない人はわずかです。すると無根拠の不安感が現出するから不思議なものです。遠くから聞こえる咳の音にも反応してしまうのです。また、くしゃみをしたらどうしょうと心配になります。

 マスク依存の昨今はそれ自体がかなり病的で、精神的な弱味につけこまれる隙がいくらでもあります。こういう状況は社会不安も起こりやすいようです。物品欠乏デマもそのような中から生まれたのでしょう。

 マスクをつけることで判断力や正義感までを覆い隠すことのないよう気をつけなくてはなりません。

人形

 新暦ながら今日は上巳の宴の節日です。本来は禊の日であったとも言われる古代からの晴の日です。

 この祭事の中心的な役割を果たすのが雛人形です。かつては豪華な雛飾りを置く家庭もあったのですが、最近は減少傾向にあります。豪華な雛飾りは代々受け継がれる財産であったのですが、本来人形は人の罪や穢をかわりに受けて、遠くに流しさる形代としての役割がありました。雛流しの民俗がある地域も存在するようです。

 現在、蔓延しているウイルス禍もできれば人形に持ち去ってほしい。持ち去るのはウイルスだけではなく、恐怖心やその前に常軌を逸してしまう弱い心も加えてほしいなどと考えるのです。

不安軽減

 東日本大震災のときにも学校を開けずに自宅待機をさせたことを思い出しました。その際、ごく一部ではありますが極度の不安症に襲われてしまった生徒がいました。今回もそうならないか懸念されます。

 震災のときは全般的な物資不足に加え計画停電などのライフライン断絶の状況が起きたことが生々しい恐怖としてありました。対して今回はマスクや消毒液などの不足と、デマによるトイレットペーパー不足を除けば物流はほぼ保たれています。加えて震災時よりソーシャルメディアが普及し、孤立感は低くなっている可能性があります。 

 ただ、直接語り合い安否を確かめ合えない状態が続けばやはり不安に思う人は増えるはずです。家族が支えですが、日中は子どもが一人になる可能性が大きいことや、同じ人物だけのコミュニケーションでは自然と閉塞感が出てしまうのを考えなくてはなりません。

 そこでやらなくてはならないのは定期的な発信だと考えました。幸い生徒諸君は個人用の情報端末を持っていますので。毎日メールやサイト更新などをすることで少しでも気持ちをつないでいきたい。あくまで急場しのぎの策ですがやらないよりはいいと考えます。

 この災難は学校の役割を再考する機会でもあります。