投稿者: Mitsuhiro

応援

 スポーツ観戦での声出し応援が再開されている。応援など無意味な自己満足だと思っていたが、この制限下においてそれが間違いであったことが明かされた。スポーツはやはり気持ちが大きく左右する。人間の行うことはそこが違うと感じた。

アザミ

 近隣の空き地にアザミが咲いていた。久しぶりに注目すると、つくづく野趣溢れる花である。

 全体的に刺々しい風貌は、自らの身を守るための進化なのだろうか。うっかり掴むと怪我をしそうな感じだ。子どもの頃、痛い目にあった記憶が蘇る。野遊びでもこの植物は注意がいる。

 花も紐のような花びらで非常に個性的だ。赤でも桃色でもない色合いも印象的で代替し難い存在感がある。調べてみるとアザミは食用とされてきたのだという。茹でると棘は柔らかくなり食べられる野草になる。

 あざみ野という駅が通勤電車の駅名にある。本当のアザミの群生はしばらく見ていない。野草を見ない生活を続けているとどこか精神的不調になるのかも知れない。次の休みは散歩に行こう。

黄砂

 黄砂の飛来する季節になった。東京では明日から黄砂が大量に飛来するらしい。洗濯物を外に干さないようにと天気予報で呼びかけている。

 いわゆる西域の砂漠の砂が風に乗ってやってくる。毎年のことであるが、来ると言われると緊張するものだ。電子機器などに障害が発生しないか心配だ。

 グローバル時代などと言われるがこうした自然現象こそ国境など意味のないものだと痛感させるものだ。宇宙から見れば、砂漠は日本列島のすぐ近くにあり、近隣の現象に過ぎない。

 黄砂のように分かりやすいものは意識することができる。温室効果ガスやウイルスなどもつねに世界をかけまわっていることを再認識した。

ゼンマイ

 最寄り駅のホーム横の土手に今年もたくさんのゼンマイが育っている。印象的な新芽は山菜としても知られるものだが、だれもここのものを持ち去る人はいない。食用になるのは発芽してすぐのものらしく、私が見つけたものはすでに大きくなりすぎているものばかりだった。

 東アジアの植物ということだが、他の植物が外来種に席巻されるなかで、文字通り根強く自陣を守り続けている。この駅は大規模な改修があったのだが、以前からゼンマイは発芽し、今もまだ生きている。シダ植物の生命力を感じさせる。

 葉が広がるとどことなく原始を感じさせる姿になる。どこにでも見られる植物だが、それにはこの生命力の強さが関係しているのだ。

機械化した分、面談に

 提出物をバーコードで管理することにした。完成しているプログラムをお借りし、試したところ使用に耐えることが分かった。少々カスタマイズが必要だが、これで数十分から一時間程度の業務時間短縮ができそうだ。

 浮いた時間で何をするか。それは個別面接の機会を増やすことだろう。私が業務を機械化したように、生徒も学習活動の一部もしくは大半をコンピューターで行っている。活用の仕方が間違っている場合は、思考の過程を飛ばして答えだけを書いてきてしまう。

 教員として心がけたいのは結果より過程ということだ。何をどう考えたのか、それをどのように説明するのかを指導しなくてはなるまい。テストやレポートの採点結果より、重視すべきなのは解答の作成過程である。

 ただそれを評価することは難しい。学習の場面に立ち合うことはできない。できたとしても学習者の妨害にしかなるまい。だから、次善の策として提出後に面談を行い。どのように学んだのか、学んだことは何かを自分の言葉で語らせるようにすればいい。

 いままでは業務時間内に事務的な仕事を終わらせるので精一杯で、面談にかけられる時間は限られていた。人間が不要な部分は思い切って機械化し、対人指導に注力しよう。生徒には煙たがれるが、今はそれがもっとも効果的な気がしている。

旧世代らしく

 あまりに多忙なときはやることが機械的になっている。予め決めた手順に従えはうまくいくことが多い。ただこれには達成感が伴わないのが問題だ。

 大量の作業を成し遂げたという達成感ならある。しかしこれならば自分でなくてもできたはずと考えると虚しさが漂い出す。機械の歯車になることを潔しとしない自我が立ち上がる。

 効率を上げることとやり甲斐を感じることとは必ずしも一致しない。仕事がどんなに早くてもああはなりたくないという同僚はいる。あれでは機械と同じだ。何が面白いのだろうなどと考えてしまう。

 恐らくこれは私の偏見だ。仕事が早く何も考えずに済ませられるのは現代人が求められている資質の一つではないか。そのコンピテンシーすら人工知能に売り渡そうとしている。その哀れさに気づかないことに我慢できるのは一種の才能だ。

 私のような旧型人間はこの効率重視の世の中でうまく立ち回るしかない。仕事の大切な要素を諦める代わりに、浮いた時間で思い切りアナログなことを展開しよう。アナログという言葉を想起した時点ですでに毒されている。無駄な時間をかけて話し合い、冗談を言い合おう。幸いまだそんなことをしていても排除されることはない。ならば思い切り旧世代らしく振る舞うしかあるまい。

何も知らない物知り

 博覧強記は今でも憧れる境地だ。いろいろなことに通じ、それを適時に取り出せる。そして、もう一つその教養に裏打ちされた高度な判断や言動が行えるというイメージがある。理想的人物像だ。

 途中までなら機械がこなすようになった。チャットGPTならばデータベースにあることは瞬時に取り出せる。マイクロソフトの提供するBingならば今日あったことでも、過去のデジタル化したものでも極めて短時間に引き出し、回答を自然な言語で取り出してくれるのだ。博覧強記に似ている。

 ただし現段階では情報を拾い出し回答を組み立てることはできても、その意味を理解してはいないようだ。だから曖昧な問いかけをすると、誰でもわかるような間違えをする。知識に見合った教養はない。

 人工知能は極めて優秀な物知りではあるが、基本的なことも分かっていない、というより分かろうとしない存在であることを今の時点でしっかりと把握すべきだ。今後、人工知能の能力は上がり、今ほどは違和感は消えていくだろう。だが、基本は同じはずだ。

 なにも知らない物知りを人間という物知りではないが何かを知っている存在が操ることが大事だということになる。

Try

新機軸をなすためには現状からの逸脱が欠かせない。安定路線を飛び出すことには危険も伴うし、それを冒す勇気もいる。チャレンジということばはそれにふさわしい。しかし誰もがチャレンジできるほど強靭ではない。私のような臆病者にはチャレンジはかなりハードルが高い行動である。

 その代わりに試しにやってみるというトライの方が今の自分にはふさわしい。失敗することはあってもいい。そしていつでもやり直す。そのくらいの気持ちの方が続けられる気がする。効率は悪いが試行錯誤することに躊躇しない。そういう態度で臨むことにする。

 さまざま毎日の手順についていま再検討をしている。そして無理やり始めたものもある。うまくいくかどうかわからないが、やらないよりはいい。

AIは著作権を知らない

 AIのChatGPTなどで質問するとたちどころに回答がある。しかし、これはAI自体が考えたものではなく、既存のデータから適当なものを拾い合成しているようだ。だからときにキメラ的な回答になることもある。

 とても便利なのだが少なくとも今私が無料で使っているものの場合、典拠は示されず、どのような改変をしたのかも分からない。だから、AIが独自に考えたように見えるのだ。

 イタリアでは著作権侵害などの理由でこのシステムの使用を制限するらしい。著作権に関しては厳しいEU諸国が追随する可能性は高く、AI検索システムには一つの関門ができた。

 とはいえ、画期的な検索方法を使わないという選択はあり得ないだろう。典拠や回答の生成情報を付記することはさほど難しいこととは思えないし、著作権法に対応した運用もなされるはずだ。

 私は著作権に限らずこの自動検索の過程に意味的理解がなされていないことが懸念事項と考える。配慮とか尊敬といった考え方が存在しないと思わぬ結果になり得る。それをクリアすることが何よりも優先すべきことである。

少ない言葉で

 先に人工知能による画像生成システムの話を書いた。画像を作成するための指定が短いフレーズでできていることは驚きだった。そして、この考え方は実は人間の認知の方法そのものであると気づいたのだ。

 複雑で多彩な絵を完成させるためには多くの指定が必要だ。つまり多くの語意があることで満足できる絵が描けるようになるということだった。ただし、文学にはそれに逆行する考えもある。短歌や俳句などでは使う言葉を限定することで成り立つ短詩形文学だ。先の絵画作成アプリに例えるならば、指定できる言葉の数が限定されている。その中で何らかの絵を描く必要があるということだ。

 思い通りの詳細は描けない。ならば、最低限必要な輪郭なり、色彩なりを提示することで世界を描くしかない。限られた上限で何ができるのかを追求するのが短詩形の特徴であり、それゆえに生まれる効果が短歌らしさ俳句らしさを生み出している。描くのに多くの筆を使わず、色彩も限定する。この美学は顧みるべきだろう。

 少ない言葉で表現される短詩形文学ではあるが、その世界をつかみ取るまでは過去の経験や豊富な語彙が必要になる。多彩な材料の中から枠組みに合うものだけを厳選するというのがその本質なのだろう。