月: 2023年2月

素顔恐怖症

 マスク生活が終わろうとしている。私の場合は花粉症対策もあり、しばらく後になるがそれもそう長くはない。道行く人が皆マスクをしているという異常な光景は間もなく見納めだ。しかし、復帰にはいくつかの関門がある。

 コロナのパンデミックが始まる以前から常にマスクを外さない人がいた。身体的な要因からではなく、心の問題であった。自分の素顔を晒すことに極度な恐怖を感じるのだという。マスクをする代わりに派手なメイクをしたり、中には奇抜な衣服を身に着けたり、異性の服装をする人もいる。衆目を集めることになるが、見られるのは自分自身てはなく、自分が作り出した容姿であるという安心感があるようだ。

 マスクはこうした素顔恐怖症の人たちの救いであった。これからもそうなるはずだ、この症状には濃淡がある。私もその薄い症状になっている気がする。マスク越しでないとできなくなった何かがある。

 恐らくこうしたおそれは日常生活の中で徐々に消えていくのだろう。どうしても難しいときはまたマスクをつければいい。その意味を理解する人は以前より格段に増えているはずだから。

理に任せる

 困ったことだらけの毎日をもがきながら生きている。皆さんも歳を重ねると分かることがある。この世は決して思うがままにならない。過去のいい思い出を基準として、そこからどれだけ下がったのかばかり気になる。これは仕方ないことだろう。

 そういう時に一番楽なのは既成の生き方の手本にすがることだ。それが宗教や哲学の出番である。宗教ならばそれを支える組織があり、組織の一員となれば一定の満足感は期待できる。某カルトのようなここにつけ込む集団もいるから気をつけなくてはならない。ただ、本人が安心できる環境を提供してくれるのならやはり宗教の存在価値はある。

 哲学というのもそれに似ている。ただしその教えもしくは考えを実際に支えるのは個人の意志であって、誰も導いてはくれない。別の方向に迷い込んでもあくまで個人の責任である。それでは困るから哲学には処方箋のようなものがほしい。

 理に身を委ねることは甘美な誘惑である。適度に用いれば救いになるが危険を伴う行動である。

酪農の危機

 酪農業界が危機的状況にあるらしい。牛乳の消費量が減り、生産量と見合わないために大量の生乳が廃棄されている。乳牛も処分されつつあるという。食料自給率の低い日本としては大きな矛盾である。

Photo by Harry Nixon on Pexels.com

 コロナで需要が落ちたことや、それ以前の供給不足から乳牛の数を増加していたことなど複数の要因が重なって酪農業は今大きな危機を迎えている。円安による輸入飼料やエネルギーにかかる費用の高騰も影響しているようだ。乳牛は機械ではないので生産調整をすることは容易ではない。搾乳しなければ病気になる個体も多いという。先行投資の大きな酪農家にとって、収入の道が立たれることは廃業につながる。結果的に食料自給率は低下することになってしまう。

 脱脂粉乳や、加工製品に回すといった手は誰しも思いつくが、それも手詰まりになっているらしい。消費されない在庫が余っているというのだ。思うに、乳製品の値段を一時的に下げ、より多くの人に消費してもらう方がいい。下げすぎると採算が合わなくなるので、この辺の調整は専門家が行うべきだ。酪農家を守ることは日本の食料自給事情を保つために欠かせない。国家的な政策が必要だ。

 乳製品は様々な用途で使われているが、輸入品もかなりある。国産品の保全のために、短期的に関税率を上げるなどして調整する方法もとるべきではないだろうか。これらの方法は常に見直し、実態に合わせて運用していかねばなるまい。これから様々な方面でこうした問題が出てくるはずだ。農政は日本の重要課題であることを痛感する。

マウント

 ここ数年よく聞くようになった言葉にマウントがある。相手より優位であることを意図的に示し、心的な有利に立とうとすることであるという。本来は物を乗せるという意味である。物理的に上に乗せなくても、コンピュータのプログラミングにおいて、一定のシステムを加えていくことにも使われている。また、格闘技では相手に馬乗りになり制圧すること、柔道における寝技のようなものを指すこともある。このマウントという言葉が頻繁に使われるようになっているのはなぜだろう。

Photo by Artem Podrez on Pexels.com

 様々な要因があると思うが、一つには自分の個性が埋没してしまうことへの反動にあるのではないか。格差が厳然としていた身分社会ではマウントは当然であり、改めて言うまでもない。不平等な日常の中で暮らしていれば、そしてそれが当たり前であれば優位を訴える必要もないし、劣位を悩むこともない。構造的な問題は長い時間を経て解消されようとするかもしれないが、短期的には精神的な葛藤はおきない。歴史に学ぶことで分かる。長く続いた封建社会の間の人々はどうして不満を訴えなかったのだろうかと考えれば、現代人が思うような人権なり平等の意識が希薄だったからというしかあるまい。

 現代社会でも格差はあるが、それは丹念に覆い隠されている。法の下に国民は平等であり等しく権利を持っている。実際にある格差はその許容範囲の中にあるものであり、暴動を起こして社会転覆をするまでもないことなのだと日本人のほとんどは考えている。それでうまくいっているのだから、世の中をあえて乱す必要はない。

 でも、この意識は人々を等質化するあまりに、個々人の存在価値を軽くする方向に進みやすい。平等ということはAさんもBさんも等価値であり、置き換え可能ということになる。それでは私の存在というものは機械のねじのようなものと考えるべきだろうか。心理的にはそうはいかない。だれもが自分は特別な存在と思っているはずだ。その意識の表れとして、私は人とは違うということをあえて表明することが起きる。どうせなら自分は他より優れていると言いたい。それがいまマウントと呼ばれている行為なのだろう。つまり、マウントをすることは強がりであり、場合によっては悲鳴のようなものだったのだ。

 マウントはおそらくする方より、された方が感じることが多い。それは先に述べた相手も自分も同じ資格・能力なのにどうしてことさらに自分が劣位にあると感じさせることを言うのかという批判、非難からの心理なのだろう。私自身もそう感じたことが多々ある。

 しかし、よく考えてみれば人間が等価値であることは幻想であり、人それぞれに個性がある。個々の技能や能力にもある基準を設ければ優劣が発生することもある。というより、みな違うのが当たり前だ。だから、私はお前より優れている、そんなことも知らないのかと言われたら、それを認めるしかないこともある。そして、そんな当たり前のことをなぜことさらに口に出さなくては済まないのかと憐れむべきだろう。たまたま優れた才能なり知識なりがあるのに、それをうまく使えず自分より少し知らない人に向かって自慢している程度なら、その能力は使えていないということの証だ。宝の持ち腐れ、もしくはその力の不足を嘆いているのだと同情すべきことである。

 私たちは平等の意味を考え直す必要に迫られている。平等とはみんなが同じというわけではない。本当は随分違っていても、それらを同じものとして権利を与えるための方便だということを考えるべきだ。社会が作ったかなり人工的な仕組みである。その仕組みを使えば多様な人々が共生できる。今の流行語のマウントはこのことが曖昧になっていることを表しているのではないか。

耐震と免震

 トルコとシリアの大地震の被害が報道されるたびに大きくなっているのは残念というしかない。かなり大きな地震であったことは確かだが、被害を大きくしているのはやはり建築物の工法の問題だと報じられている。

Photo by u0410u043bu0435u0441u044c u0423u0441u0446u0456u043du0430u045e on Pexels.com

 日本のように頻繁に地震がある国だと耐震構造はかなり普及しているようだ。東日本大震災では津波による大規模な被害が発生したが、高層建築物の被害は少なく、ほとんどが被害がなかったか軽微な被害であったという。耐震や免震に対する技術が奏功したと言われている。東京でもかなり揺れたが新宿の高層ビルも、建築途中だったスカイツリーも深刻な被害がなかった。実際に地震が起きないとこうした技術の成果は検証できないのが問題といえばいえる。

 トルコの被害状況を映像で見る限り、高層建築が大破しているものが多くみられる。同じく地震国でありながら、建築に関する基準が異なっていたことになる。前にも書いたが免震技術などは積極的に伝えるべきであり、世界に広げるべきものであろう。

 地震を止めることはできないが、建造物の倒壊を少なくすることは可能だ。その手伝いを我が国はもっとするべきではないか。

あえて悪条件に

 物事が停滞し閉塞感が横溢する中にあっては一歩踏み出す勇気が必要になる。私自身が非常に憶病であり、いつもと違ったことをすることを避ける傾向にあるので、この方面については人に誇れるものがない。ただ、いつまでも同じ場所にとどまることはできない。ならば一歩踏み出すきっかけは何だろう。それが分かれば新しいことに挑戦できるかもしれない。

Photo by Damon Hall on Pexels.com

 勇気のきっかけとして、差し迫った危機が契機になるであろうことは誰にでも想像できる。死活問題となれば動かざるを得ない。ただ、そういう状況はできれば避けたい。失敗すれば死というのは穏やかではない。また、そういう状況で変化したとしてもおそらく幸福感は得られないだろう。せいぜい生き延びて安堵するくらいしかない。

 ならば、それに準ずることを意図的にすることが必要だろう。あえて安住の領域から踏み出すことで小さな危機感を創出するということだ。例えばルーティンの中から何かの要素をあえて減らしてしまうことがある。それをやれば確実に成功率は上がるが、あえてやらず代替のことを考えなければらない状況を作り出す。例えば、のどが乾いたらすぐに自販機で買うのではなく、それがなくても渇きを満たせる方法はないか。スマホで調べなくても間違わずに目的地にたどり着く方法はあるのか。少ない予算で何かを作り出す方法はないかといったことである。

 こういう経験の繰り返しをしているうちに、新しいことを考える下地が出来上がっていくように感じる。物事が便利になりすぎると、それに依存しすぎて新しことに踏み出す勇気が失われる。条件がそろわなくてもやってやろうという気概が今の私には欠けつつある。そしてそれは私だけではないようだ。

人柄

 人柄というのは説明不可能なものかも知れない。理屈ではなく、オーラのようなものが訴えかけてくるのだ。

 福祉施設を見学して説明を受けた。いくつかの施設を回ったが、その一つのリーダーは素晴らしい人だった。何が違うのかと考えたがよくわからない。仕事の中身をよく伝えていただけたのがよかったのかもしれない。仕事を心から誇りを持って行っているのだろう。それが伝わってきた。

 自分もまた人からどのように見られているのか気になることがある。一朝一夕で変えられるものではないだろう。これまでの生き方が形になるはずだ。恐ろしいが、己のあり方にはせめて自分だけは評価しておこう。

国語の関守

 語彙の貧困化について同僚と話していく中で、やはり国語の教員が使う言葉を意識して、時流に流されないようにすることが大事だということになった。言葉は時代とともに変化するものではあるが、それを堰く存在も必要だ。

 「やばい」「めっちゃ」「オワタ」などの流行語は汎用性が大きいのが特徴である。他の表現を駆逐してしまう毒性もある。善くも悪しくも急激に心が動き、印象深いときにやばいと言い、それを強めるときはめっちゃをつける。どの程度どうなのかは「めっちゃやばい」からは分からない。

 教員仲間でもこのような表現は普通に行われており、曖昧な言葉を使っているという自覚もない。生徒諸君にとっては繊細な感情表現の方法を学ぶ機会が限られていることになる。だから、国語科の教員はせめてもの言語表現の伝統の保守的伝達者になるべきだと言うことになる。

 そもそも人間の心の動きは複雑で名状しがたい。嬉しさも悲しみも様々あって、実は厳密に言えば一回限りのものである。それを限られた言葉で切り分けるのは無理というものだ。だが、そう思っても言葉の力を諦めないことが人間の叡智と言うべきものだろう。

 切なく震えるような心の動きを何というか。言葉探しを忘れてはならない。流行語に逃げ込んでしまうことは容易だか、まずは自ら言葉を探し思いを言い当てていく面倒な試みをさせるべきなのだ。その役を国語科の教員はかって出るべきなのだろう。

セリヌンティウスはなぜ笑う

 太宰治の『走れメロス』は教科書の定番テキストであり、授業で無理矢理読まされた人を含めれば、世代を越えて多くの読者を持つ作品だ。この作品には多くの謎があり、それを解明しようとする見解も多い。

 有名になったのがメロスの故郷と刑場のあるシラクスの距離の設定だ。素直に読むと10里あまりだ。日本の里の単位とすればマラソンコースほどしかなく、これを日中すべての時間をかける必要はないというのだ。

 この小説の典拠になっているのはシラーの「人質」という詩で、小説が発表される3年前に小栗孝則訳の詩集が直接の参考資料と考えられる。酷似の表現が散見することからほぼ間違いない。ただ激怒する場面から始まったり、王の内心の吐露や、挫けそうになるメロスの葛藤、フィロストラトスの設定などにそれとの違いがある。

 ただそれにしてもなぜセリヌンティウスが命に関わる人質となることを快諾したのかは依然として分からない。太宰治は竹馬の友と言う説明だけで終わらせている。

 ただ、走れメロスの初期の読者はこの突拍子もない契約をすんなり受け入れられたのかもしれない。この時代の少年雑誌「赤い鳥」に鈴木三重吉が発表した「デイモンとピシアス」という話には人質交換のモチーフがある。これによると、ピタゴラス派の人々は人情を離れ理知的に生きることを至高の徳としていたという。情を捨て理に生きよという考え方は見方を変えればかなりの危険思想だ。理想のためには命を捨てても構わないということなのだから。

 シラーの詩のさらなる典拠はギリシアの伝承にある。その伝承の一つのデイモンとピシアスの物語がかような原理主義者たちの物語だとなると、その影響下に生れた太宰治の小説にもその影響はあると言うしかない。人質になるというセリヌンティウスにとってはまったく利益のない選択を即答で受け入れるのも、間に合わないかもしれないと感じても刑場まで走ったメロスも、まさに信実という理想を第一にするビタゴラス派の思考法と考えられるのである。

 流石に現代人太宰治はこのフレームには素直に従えなかったようだ。メロスを挫折させ散々に弱音を吐かせる。セリヌンティウスもメロスをチラと疑わせる。それが人情というものなのだろう。セリヌンティウスがメロスの信実を信じて、余裕を持って人質になるのはそういう思想の背景があったのである。

降るかなあ

 東京の降雪予報は難しいらしい、前回も降ると言って降らなかった。過去には降らないと言って結構積もったこともある。予報はスーパーコンピューターでも難しい。

 低気圧の位置と寒気の南下のタイミングが雪か雨かを分けるようだ。雪になれば備えのない東京はそのまま危険地帯となる。

 明日はどうも降るらしい。ただ積雪があるかどうかは分からないようだ。外出を予定しているが交通事情に問題がないといい。今のところは分からない。