月: 2022年9月

台風の後

 今回の台風は基準ぎりぎりのものだったらしく、低気圧とほとんど変わらなかった。台風が運んでくる大量の湿気と一時的な気温上昇は季節を進める働きをするようだ。

 幸いなことに私の住居の付近では目立った被害はなかった。進路が被害を出す方向になかったからだ。風水害にあわれた皆さんには心よりお見舞い申し上げたい。

 台風にしても大雨にしてもリアルタイムの被害ばかりが注目されるが、本当に大変なのは過ぎ去ったあとなのだ。

萩は秋を代表する花

 『万葉集』でもっとも多く詠み込まれている植物は桜ではない。桜は5番目であり、4番目は橘、3番目は松、2番目は梅、そして一番多いのは萩なのだ。もっとも万葉仮名では「芽子」などと表記され、これをハギと読むことにしている。

 ちなみに日本では「萩」といえば写真のようなマメ科の植物を指すが、本来古代中国の「萩」はヨモギ科の植物を指すらしい。秋の植物といえばハギということで「萩」がハギと読まれるようになったのだろう。その意味で「国字」として使われているということになる。

 萩が多く詠まれたのはこの植物がかなり古くから日本列島に自生していたことに加え、何らかの信仰的な要素があったからかもしれない。実りの秋に豊富な花をつけるこの植物に何らかの意味を感じたのかもしれない。やせた土地でも繁茂することに生命力を感じたのも知れない。

 このように秋の植物の主人公であった萩だが、若い人に道端に咲くこの花を指さし、その名を訪ねても答えられる人は少ない。文化の基本は自然との関係である。もっと関心を持ってもらってもいいのではないか。

 

彼岸花

 秋の彼岸であるがその名をもった鮮やかな花をつけている。隣家の狭い庭にもこの花が並んでいる。おそらく家主の趣味なのであろう。

 かつて俳句を習った先生がこの花は土の中の赤を吹き上げたものだと句にしていたのを思い出す。鮮やかで生命力を感じさせるのはこの花の力だろう。曼珠沙華ともいうらしい。ほかにも地獄花とか死人花とかいう不吉な別名もあるようだ。聖なるものは俗にも振れやすい。鮮やかな赤は生命力にも悪魔の色にも見えたはずなのだ。

 植物自体には何の功罪もないが、歴代のこれにどのような思いを重ねてきたのかを考えることには意味がある。

まとめる、まるめる

 ものを考えるとき、私は過去の経験から既に獲得しているものの捉え方に当てはめている。これは認知上の基層にあるもので多くの人に共通するはずだ。ただ私の場合はその拘束力がそれほど強くなく、しばしばいきあたりばったりになる。

 いざというときにうろたえることがないように、行動の作法、もしくは型のようなものがあるのだろう。迷いをなくすという点においてこれは大いに意味がある。

 たが、千変万化の事象に対して限られた型に当てはめることには無理があるのは確かだ。詳細をいわばまるめて目につきにくくしている訳だ。厄介なのはまるめられた部分が実は全体の印象に深く関わっている場合、大切なことを見落としてしまうことだろう。

 まとめることは大切で、それがなければ理解できない。理解できなくては何も始まらない。ただ何でも理解しようと大切な部分までまるめてしまうと本質を見失う。

 ときにまとめず、まるめないものの捉え方をする必要を感じる。そのためには何気ない自然の風景をながめたり、抽象的な芸術作品を見たりするのも意味があるのだろう。

 まとめる、まるめる力が知の源泉であるのと同じ意味で、まとめない時間を確保することが大切なのだ。

通り過ぎる雨

突然降り出して

 台風の進路が住まいからは離れていたことにより、風の被害はほとんどなかった。対して雨はかなり強くしかも断続的だった。

 曇天の中からにわかに強い雨が降り、周囲の視界が遮られるほどの強いまとまりになる。しばらくすると止み、また曇天となる。さらにどこからかまた雨雲が走って来て、集中的に雨を叩きつける。その繰り返しだ。

 雨間に油断すると傘を忘れる。忘れた人が慌てて傘を買うと止む。そういうサイクルに陥りやすい。午前中はこんな天気が続くらしい。

脚本家のエネルギー

 ウルトラマンシリーズなどを手掛けた金城哲夫や上原正三の伝記的なエッセイを読み始めた。様々な障害があってもシナリオを書き続けるエネルギーに圧倒される。この熱量を私は忘れていたことに気づいた。何か書きたいという気持ちが高まっている。

ダンボールに描かれた絵

捨てる前に芸術を
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 少し前のことであるが絵本画家の展覧会を見に行ったことがある。会場には多くの絵本の原画が飾られていたが、その周りにダンボールに描かれた動物や植物が立てられていた。演劇の書き割りのように縁取りが切り取られていたのだ。

 梱包の際に使い捨てられるダンボールが芸術の対象として大切に扱われていることにちょっとした驚きを感じた。学校の文化祭などでもこの手法はよくとられるが、プロの手にかかるととても使い捨て出来るようなものではなくなる。

 もちろん、耐久性という点においてダンボールの絵、もしくはオブジェは期待できない。すぐに滅びてしまうものだ。ただ、生活の中の芸術としてこういう気楽なデザインなり、美意識は見直されていいと思う。数万円から数十万円の彫刻を買うのは覚悟がいるが、ダンボールでかたどる動物なり植物なり、幾何学オブジェならば気楽に置ける。安っぽくならないよう、気持ちを込めて作ればそれなりに精神的な栄養剤になる。

 いわゆるダンボールアートと呼ばれるものになるととても素人の及ぶ域ではなくなる。まずは気に入った絵や写真を切り抜いて貼り、それを立体として置くということから始めてみたいと思っている。

嵐の予兆なのか

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 個人的な問題を書いておく。前回もそうだったが台風が接近するとどうも体調がおかしくなる。そして夜眠れなくなる現象がある。これはおそらく心身両面に何らかの影響があるからであると勝手に判断している。

 実際の台風はまだ日本の南海上にあり、沖縄に近づきつつある。住まいからはかなり遠い。昨日は陽射がありかなり暑かったが、ときおり大きな雲が通り過ぎた。しかし、まだ悪天候といえるものではなかった。にもかかわらず、軽い頭痛と、抑えられていた秋花粉への反応などが起き、少々つらい一日だったのだ。

 これがよく言う気象痛なのかは分からない。過去にもそういう事例を多く経験しているので、あるいはその例に当てはまるのかもしれない。気圧の変化などが関係しているという。ただそれにはまだ原因となる低気圧(台風)が遠すぎる気もしている。

 もう一つはいつか前も使ったしゃれだが、「気のせい」が原因かもしれない。つまり精神的な要因で一種の思い込みだ。台風が来ると体調が崩れるという過去の経験が何度か続いたため、それが偶然の重なりであっても因果関係を考えるようになってしまったということである。おかしな話だが、こうした条件反射は存在するらしい。

 さしあたって今日はほとんどよく眠れなかった夜を超えて一日をどう過ごすかだ。世の中は連休というが私は仕事がある。そして二連休に入る。今日やっておかなくてはならない仕事を伸ばすとよろしくない事態になる。台風などに負けてはいられない。あるいはこのプレッシャーが台風よりも強いのかもしれない。

無人化

いらっしゃいませ

 外食産業で無人化が進んでいる。と言っても、内情は知らないのであくまで客の立場での無人体験をまとめてみた。

 某回転寿司店では入口でロボットが出迎える。彼は日本語がかなり流暢に話せるが、きまり文句以外はできないようだ。この点は最近の人間と変わりない。残念ながら人間の話を聞く度量はないらしくタッチパネルで希望する席種や人数を聞いてくる。作業が終わると丁重にお礼して席の位置を印刷した紙をくれる。

 あるファミリーレストランは席に座るとタブレットがおいてある。客はここでもスクリーンの沼に誘い込まれ、自分で注文をする。かわいいウエイトレスやかっこいいウエイターは来ないが、彼らに間違った注文をされる心配はないし、ご注文はこれで「よかったでしょうか」を聞かずに済む。

 別のファミレスは注文した料理を自走するロボットが持ってくる。残念ながら人型ではなく、自動ワゴンとでもいうべきものだ。なぜか陽気な音楽を鳴らしながら動くのは、そこどけとは言えないからだろう。彼、もしくは彼女には言語能力はない。

 先日入ったレストランは座席案内も注文も配膳も人の手で行っていた。これが一番落ち着く。多少の間違いはあってもいい。やはり人のぬくもりは大切だ。食事が終わってお会計は、というとこれがセルフだという。勘定書のバーコードをスキャンすると金額が表示される。現金を入れるか、スマホでバーコードのお返しをするかで会計を済ませる。ありがとうございますとも言わない。会計が済んだらただ消え去るのみだ。

 以上がすべて揃った店にはまだ入ったことはない。でもそのうち普通になるかもしれない。ロボットにいらっしゃいませと言われ、タッチパネルで注文した料理がロボットによって運ばれる。すでにネットで会計は済んでおり、あとは帰るだけだ。食べ散らかした食器や残版の類はロボットが音も立てずに見事に片付け、除菌までする。これは数年後に見られるかもしれないし、来年かもしれない。

 今日は少し塩辛いなと思ったら、後でお詫びのメールと謝罪用のポイントが届くかもしれない。先日調理ロボットがハッキングされ、塩分センサーに異常が発生していました。今後はセキュリティに注意していきますと。

生活の中の美

 考古学資料のなかに魅力的な芸術を感じることがある。恐らく作られたときは獲物を狩るか、神に祈るかといった実用的な目的を持っていたはずのものだ。それが例えば展示ケースに並べられると美術品に見えてくる。

 今わたしたちが何気なく使って、意識することなく捨てているのものの中にもそうした美は隠されているに違いない。あまりに日常的だと気がつかなくなる。だからものを粗末に使うようになっていく。

 生活の中に美を見つけるにはときにいつもと違うやり方をするのがいいのかもしれない。見方を変えることによって日々の積み重ねの中に消えてしまった美しさを発見できるはずだ。そういう余裕だけは持っていたい。