月: 2022年3月

絵画の下層

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「窓辺で手紙を読む女」(ヨハネス・フェルメール, ca. 1659)が東京都美術館で展示されている。今まで知られている絵とは異なり、背景に天使の画中画が描かれている。調査の結果、この天使の絵は完成後、作者以外の何者かによって塗りつぶされ今の形になったという。そこで上塗りされた絵の具を取り除き、改変前の姿を復元したというのだ。なお上記のリンクは改変前である。

油絵のように塗り重ねていく絵の場合は、このように塗りつぶされた奥にある下層の絵画を復元することができるようだ。その繊細かつ大胆な作業風景も博物館では動画で展示していた。非常に興味深いものであった。絵画修復の技術は日本絵画においても行われている。以前、この技術を利用して高精度の文化財複製をしたスーパークローンの展示を見たことがある。色褪せる前のもとの姿は常識を覆すものもあったが、新鮮な驚きをもたらしてくれた。そして、この技術を知ることで、原作は今見るものとは違ったのかもしれないという当たり前だが気づきにくいことを再確認させてもらった気がする。

芸術作品でさえ、完成に至るまでのさまざまな過程を経てきているのだ。最初から一直線に今の形につながっているのではない。改変にはさまざまな理由があるように、私たちの生き方にも時代の影響でつねに変化が加えられている。今見えていることだけで物事を判断するのはかなり一面的なものだということになる。その下層に隠れているものはなにかを考えることは常に必要だ。

花粉飛散

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最高気温が20度を超えるらしい。花粉飛散が本格的になりそうだ。私は対策薬を飲んでいるが、それでも今日は覚悟しなくてはならないかもしれない。

花粉症の知識がまだ世間に周知されていなかった頃、アレルギー性鼻炎は不治の病としてもう少し深刻に考えられていたような気がする。多くの人が耳鼻科に通い、点鼻薬を吸入した。私もその経験を持つが苦い思い出だ。

不治の病といえるがどうかわからないが、この歳になっても根本的な解決はできていない。ただ、予防の知識や抗アレルギー薬が発達したことで以前のような問題はなくなった。それでも薬を飲むと軽い頭痛に悩まされたり、喉が渇きすぎたりするのは厄介だ。

スギ花粉の量が多いのは林業による植林の偏りが影響しているとされている。昭和期に加工がしやすい杉を大量に植林したことが日本の植生を変えてしまった。それで高度成長期以降に花粉症が問題になったという。林野庁は花粉飛散の少ない品種への切り替えを計画的に行っているというが、更新にはかなりの年月が必要なのだそうだ。

風が吹けば桶屋が儲かるそうだが、こればかりは困る。儲けはほかのことで得るのが良いと思う。

当たり前のありがたさ

 今の生活が必ずしもよいものとは思えない。むしろ理想形からはほど遠い。どうしてこんなことをしているのかと嘆くこともある。ただ、それでも毎日を過ごせることのありがたさを再考してみたい。

 

明日の夕日も見られるか

 震災で命を落とした人の大半は、地震の発生する直前まで普通の毎日を過ごしていたはずだ。無情にも突然の災禍が命を奪った。誰にも予測不能なことだった。新型コロナウイルスでなくなった人も、パンデミックが命を奪うとは誰も思わなかったはずだ。戦争もまた然りだ。

 明日のこの時間も生きているという保証は実は誰にもない。無常の世には何の約束もなく、未来があるというのは希望に過ぎないのだ。

 それでも私たちは比較的安心していられる身にある。当たり前のように行ってきますといい、そこには必ずただいまが続くと信じている。信じられる社会がある。当たり前といえる環境にあることに感謝すべきだとつくづく思う。

11年

 東日本大震災から11年経った。ついこの前のことのようでもあり、はるか昔のことのようにも感じる。経験は十分に活かされているのだろうか。

 震災当日は勤務中でちょっとした打ち合わせの最中だった。関東でも強く長い揺れを感じ、防災扉が自動的に閉じた。電源とネットは切れなかったため、職場に一つだけのテレビとウェブサイト、Twitterで情報を集めた。人の安全を確保することと食料の確保で追われた。

 その後、被災地の甚大な被害や原発事故による広範囲への影響の懸念があることを知る。計画停電などのライフラインの遮断、燻るデマや罵詈雑言なども知った。

 そうした記憶も時が経つにつれて薄れてゆく。そのころ生まれた世代にとってはすでに歴史的事実だ。何を学んだのだろう。何を忘れてしまったのだろう。

個別に判断を

平和のために

 世界中に反ロシアの動きがある。ウクライナ侵攻に対する抗議の一環として経済封鎖がなされている。スポーツ界でも対露試合の放棄やロシア人選手の参加拒否などが相次いでいるこれらは意義を考えて行うべきだ。

 世界経済圏の中にある国にとって、金融資産の凍結や取引拒絶はかなりの打撃を与える。ロシアは国土に様々な資源を持つので、通商停止が直ちに軍事力低下には結びつかないだろう。親露国との連携もあるはずだ。ただ世界的な信用の失墜は大きな打撃となることは変わりない。

 スポーツ等の文化交流については私は慎重であるべきだと考える。あからさまにプーチン大統領を支持する選手もいる一方で、戦争反対を訴える選手もいる。政治と文化は別に考えるという理想を、今回は無効化しつつあるように感じられる。

 文化レベルの交流を保つことが和平への糸口となり、交戦国の国民に何らかのメッセージを送るチャンネルにするべきではないか。嫌なものはすべて締め出すというのでは次の段階がない。

 大変難しいが個別に判断していくことが求められている。世の中のことは大抵同じことが言えるはずだが、分かりやすくまとめすぎる傾向がある。

運動不足

 人にものを教えることを仕事にするといろいろなことに気づく。その一つが自分自身の未熟さへの痛感がある。いかに思う通りのことができていないか。それを苦々しく思う毎日だ。

 朝から日の沈んだ後まで働いても、得られないことが多い。仕事が作業として感じられる日は徒労感に苛まれる。こういうときはしばしば失敗する。だからさらに負のスパイラルに陥りやすい。

 何が足りないのかを考えてみるに、やはり業務の効率化を求めるあまり、余裕を失っていることに原因があるとみた。多くの方が指摘されるように軽い運動などを挟むといいらしい。

 こういうことを始めるにはきっかけが必要だ。今日は机上のパソコンに運動のためのブレイクの時間を知らせてもらうことにする。

リテラシー

疑うことも大切だけど

 よく聞く言葉にリテラシーがある。読み書きの基本的なスキルのことらしいが、そういう意味で使われることは少ない。上に何か言葉を冠してそれを理解し使いこなせる力という意味で用いられる。

 情報リテラシーはその中でも大変よく耳にする。情報が商品となっている現代において、情報をいかに受け取り、理解し、活用するかは生活に直結する。現代人は情報交換の手段はたくさん持っている。ただ、それを活用できているかと言われれば甚だ怪しい。

 ソーシャルメディアに実はウクライナでは戦争は起きていないという発言が出た。現地の人からの証言もあるという。たくさんのリアクションががあり、中にはだからマスコミは信じられないと憤るものもあった

 真相は現地に行かなければ分からない。だが世界の報道機関がこぞって戦場を報告している中で、すべてが虚偽であるというのはどうしても無理だ。それに同調してしまう人が少なからずいることに恐怖を感じる。

 東日本大震災のときの数々のデマも記憶に新しい。地震を意図的に起こした者がいるなどと言っていた人もいた。あの規模の地殻変動を起こすためのエネルギーがどの程度いるのか考えた方がいい。

危機的状況にあるとき人は情報の扱いを誤る。それを未然に予防するにはリテラシーを磨くしかない。ただこれが結構難しい。私も偉そうなことを書いているがしばしば騙されている。

 基本に帰って自分の判断力をつけることがまた求められているといえる。

雪マーク

 今日は天気予報に雪だるまのアイコンが表示された。昨日よりかなり冷え込みわずかに路面が濡れている。東京でも今日は雨になった。

 雪が本当に降るのかは分からない。降っても白いものが舞うくらいのものだろう。春の雪にまで至る可能性は低い。

 三寒四温というがこのところの寒暖差は激しい。いつの間にかに梅が咲き、桜も蕾を日々大きくしている。

楽しく学ぶ

勉強は楽しくなくては

 脳科学者の発言は教育現場の従事者としていつも注目している。学問レベルと現実のそれとは噛み合わないところもあるが、参考にすべきことは多い。

 学習効果にドーパミンなどの快樂物質が関与していることは色々な知見がある。経験上も好きなことや興味のあることはかなりよく知っており、なかなか忘れることがない。好きなアーティストの何年も前の歌の歌詞を覚えているのはこの効果があるという。逆に意味を感じない情報の記憶はエビングハウス博士の統計通りにあっさり消えていく。

 ならば、現場の効率を上げるためにはこの要素が不可欠だ。学習は楽しくなくてはならない。ここまでは何度も考えてきた。

 ここで私は教える側の話に限定して話を進める必要を感じる。楽しく学ぶというのは学習者側の問題であり、様々な可能性を想定できる。学問は苦行ではないと理解することが突破口なのだろう。これが教える立場の問題となると話が変わる。とりわけ学校のような一斉教育をする場面においてはなおさらだ。

 教室にいる生徒の興味や関心は多様であり、何に対して反応するのかは分からない。自分が生徒だった頃、世界史の先生の話は面白かった。講談を聞いているような感覚となり、興味が湧いた。ただ、同級生に聞くと無駄話が多く、教科書に書いてあることの説明がほとんどないので無意味に感じたというのだ。彼はその後理系の大学に進学している。

 関心のある人だけに作用する話をすればいいというのが、長年教員をやってきた私の基層にある考え方だった。特に高等教育機関で教えていた頃はそう考えてきた。しかし、中等教育に身を移し、さらに昨今の現状を鑑みるにそれだけでは立ち行かないと痛感している。目指すべきは国民の教養の底上げだ。

 何かを教える際に何が引っかかりになるのかを想定して置くことが今できる最低限のことだろう。先に述べた歌に関心があるのか、デザインに関心があるのか、人間関係か、金銭的価値か、物質的な何かか。人によってそれが違う。そのフックのようなものをたくさん用意しておくことがドーパミン発生の要因となるのなら、それを意識して教えることで一定の効果を期待できそうだ。

 できればその試みの挑戦者の一人として私も加わりたい。試みに進めている「国語の再学習」のサイトをこのブログにリンクすることで第一歩を踏み出したいと考えている。

激しい気温差

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気圧配や置が冬型に戻ったせいで今朝は気温が下がり強い風が吹いている。問題なのは昨日との気温の差だ。絶対的な温度以上に今日は寒さを感じる。

この季節は季節が進退を繰り返す。低気圧の位置により、南からの風が吹き込む時間がすぎると、今度は強烈な北風が入り込む。そこに激しい気温差が生じるのだ。東京では脊梁山脈の存在のために雪は降らないが、日本海側には時に激しい風雪が起きる。今日もそのような現象のようだ。

体感というのはつくづく変化の実感であると思う。大きな変化があった時に私たちの感覚は鋭敏になる。変化がないと感じなくなっていく。その事実を最近は実感している。