月: 2021年6月

風景画

 きれいな風景を描いた作品はそれだけで価値があるように思える。そこがどこであろうと作品の評価には関係ないはずだ。実際はそうではない。どこの風景で何を描いているのかは作品の鑑賞にかなり影響を与える。

 富嶽百景は相手が富士山であるから、東海道名所図会は名所を描くから価値が上がる。絵画となったから名所となる例もあるが、その前に画家は名所を描こうとしたのだ。地名の価値はその意味で大きい。

 私たちが何かを見るとき、そこに審美的な行動が伴うときには、どうも対象そのもの以外の情報も関与する。風景画も地名があることで価値が上がる。極端なことを言えば、名もなきものを取り上げるのは難しく、名のあるものだけを見ているともいえる。

学問とは楽しむもの

 高名な科学者の話を伺う機会を得た。後世まで称えられるべき発見をした方である。その方のお話は身近なところから疑問点を見つけ、それを追究することの重要性を説くものだった。大変参考になった。

 詳細な話はいろいろあったが、専門的なことになると分からない。ただ、その大学者が論語などの古典を引いて学問とは楽しむものであり、そこに至らないうちは本物ではないとおっしゃっていたのが印象的だった。綿密な科学の研究をしている人は、逆に人間的な感性というものを身につけるらしい。学びの基本を思い出すきっかけを与えていただいた。

 宿題を出し、試験を課し、点数の悪いものを注意する。そういう教育の仕方は一般的だ。試験に合格しなければ意味がないとでもいうような教育の仕方を私自身もいつの間にか毎日の仕事としてしまっている。でも、思えば私が学生だった頃、何かの役に立つこと目指して学習していただろうか。褒められたり、賞金が出るから学問をしていたのではない。単純に学ぶことが面白く、知ることで新しい世界が見えるような感覚になることが楽しかったのではないか。そういう大切な感動というものを最近は失っている気がする。

 ならば、学ぶことの楽しさをどのように伝えればいいだろう。今はそれを考えるべきだ。

傘レンタル

 駅で傘を貸すサービスが始まっている。サブスクリプションの方式で借りっぱなしでもいいようだ。安いビニール傘が雨のたびにうち捨てられているのを見ると心が痛むがこれはその解決策の一つにはなるだろう。ランニングコストがどうなのかなど気になることが多い。注目しておきたい。

都議選

 7月4日に行われる都議会議員選挙に向けての街頭演説が盛んになっている。私の住む地域では都知事の関係する政党の立候補者はいない。東京の選挙は国政にも通じるというが実はちょっと特殊だ。多党分裂で何が政策なのかも把握が難しい。そもそも志ある人なのか、単なる売名行為なのかも怪しい人もいる。

 コロナとオリンピックの特殊な事情がある今回の選挙だが、それほど盛り上がらない。都民の期待はあまり高くない。しかし、いい加減に見過ごしておいて後でひどい目に会うものも嫌だ。やることはやっておかなくてはなるまい。

空騒ぎ

 感染者が職場で出たということで一時混乱した。結果的に測定の間違いであることが分かりなんでもなかったのだが、簡易検査の段階では黄信号が灯ったのである。

 最終的には笑い話になったのだが、これで業務が止まったことは確かだ。私としては余裕のある一日を過ごすことができたのでむしろ感謝している。思うに一人の健康がここまで集団を動かすという事態は現在特有の問題である。変だが個人の存在が大きく感じられていることになる。

 こうした騒動はこれからも何度もありそうだ。恐らく数年後には本当の笑い話になるだろう。いや、そうしなければならない。

吉川英治

 吉川英治記念館を10年ぶりに再訪した。青梅市に移管され運営されていた。雨が降ったあとで、かえって庭園の緑が映えていた。

 大衆小説の大家として成功したこの作家は幼少期から青年期にかけては恵まれておらず、最初の結婚も破綻するなど前半生は苦難の連続だったようだ。加えて関東大震災に第二次世界大戦終結までの混乱があった。

 その中で、たたき上げの文筆活動が成功し流行作家になった。後半生は交友関係にも恵まれていたらしく、様々な人々との交流があったようだ。展示されていた吉川英治に宛てた様々な人々の書簡の多くは親しみの伺える内容であり、そこに人柄が浮かび上がる。

 吉川英治の作品の多くが分かりやすく人間味に溢れているのも、そのような人柄によるものかも知れないと察したのである。

台風

 台風が接近するという予報が出た。まだ正確な予報ではないようだがら予報円の中に我が生活圏が入っていた。梅雨の後半は大雨の被害が出やすい。何事もないことを祈りたい。

椿の実

 通勤途中の道端に椿の実がなっているのを見つけた。小さな林檎のような色をしている。ただもっと球形の可愛らしいのものであった。

 中にある種子からは椿油が取れるらしい。子どものころ伊豆大島に行った。土産物屋で母が買ったのは椿油だったことからその存在を知るようになった。もっとも子どもたちにとっては椿の種を何かでコーティングして作ったキーホルダーの方が気になったものだった。

 椿など庭木としてはありきたりのもので、花はいつも注目してきた。それなのに実の存在を知り、まじまじと見入ったのは初めてだ。見逃していることのなんと多いことか。恐らく他にも目の前にありながら見えていないものはたくさんあるのだろう。

デザイン

 同じものでも色が異なるだけで気分が変わることがある。図案や造形が加わればもっと効果が大きい。私は結構見た目で左右されている。

 ならば身の回りにあるものにデザインを施してみよう。といっても画才はないので既成のものを貼り付けるだけである。シールもいいが色紙を貼るだけでも変わる。毎日使っているノートに千代紙を貼れば親しみが湧いて手に取る回数が増える。それだけで効率が上がるとは言えないが何かに変化が起きることは確かだ。

 散財しなくてもデザインの魔法はかけられそうだ。いろいろ試してみたい。

抽象画

 抽象的な絵画は苦手だった。単なる色の羅列のように見える絵はよく分からないし、題名をみても無題とあったりするとお手上げだ。笑ってしまったり、時にはイライラすることもあった。

 ところが先日、件の絵画に対したとき不思議な思いになった。脳の何かに作用したのかめまいのようなものを感じたのだ。そこにいろいろな幻影が浮かんだものもある。

 抽象的絵画の中には意図的に描かれたものが多いようだが、中には画家が実際にそのように見えたものを具現化したものもあるということだ。ならばこれは脳の深い層にあるものの見え方と関係を持っているのかもしれない。そう思うからそう見えるだけかもしれないが。

 美術館に行くことが脳の深部に触れることに繋がることは以前から気づいていたが、それを痛感するようになっている。